進化論
高校二年生の夏、アメリカで一ヶ月のホームステイをした。ステイ中は色々と楽しいことがあったけれど、今、私が書こうと思っているのは、ステイ先に行く前に滞在した大学寮での事件である。
ホームステイ参加者の小学校高学年生から高校生までの二十名ほどと、業者の引率スタッフ数名が団体で渡米し、それぞれのホームステイ先に行く前に、どこかの大学の寮で四~五日ほどを一緒に過ごした。どこの州のどの大学だったのかはっきりと覚えていないのだが、インディアナ州北端のホームステイ先まで車で移動したので、おそらくミシガン州立大学辺りだっただろうか。言葉の通じない外国で、子供たちをいきなり知らない家にぶち込む前に心の準備を、というようなプログラムだったのだと思う。
ホームステイの受け入れ家庭の多くは、アメリカのとある省庁の管理下にある、青少年向けの団体組織の会員で、ボランティアだった。大学でのプログラムもこの団体と連携しており、日本のホームステイ業者のスタッフの他に、団体のアメリカ人スタッフが数名、プログラムの運営に関わっていた。
私は到着早々に熱を出してしまい、二日ほど寮の部屋で寝込んでいた。三日目くらいに皆に合流したのだが、アメリカ人スタッフのマダムたちに、もう大丈夫なのか、ピザを食べろ、クッキーを食べろと、めちゃくちゃ世話を焼かれた。ある程度の日常英会話は話せていたので、
「大丈夫、もう平気、ピザはノーサンキュー、クッキーはあとで食べる、たぶん」
と、しばらくの間マダムたちを捌き続けた。小学生もいる団体で、高校二年生なのに恥ずかしい状況ではあるが、こうなることに少々、慣れていた。
子供の頃から、少しでも不機嫌な顔をしたりぼんやりしていると、周囲にとても心配された。具合が悪いように見えたらしい。何代かさかのぼっても家系に海外から来た人はいないのだが、私はやたらめったら色白で。子供の頃の写真はどれも大福のようで、あまり好きではない。それでちょっとした表情が、とても具合が悪いように見えるらしい。
高校生になって悪知恵がつくと、遅刻や早退がとても簡単だった。遅刻したら「……電車で具合が悪くなって」と言えばよかったし、早退したい時も「気持ちが悪いです……」と言えばよかった。
受け入れ団体スタッフの代表の男性にも、「調子はどうだ、もう大丈夫か」と声をかけられた。「はい大丈夫です、ありがとう」のような返事で会話はすぐに終わったが、周囲のマダムたちによって「飛行機に乗っている時間が長くて疲れたのよね」「心配しなくても大丈夫よ、まだ楽しいプログラムが残っているから」と引き継がれていた。
団体スタッフの代表者は、白人の丸い顔に口ひげの男性で、その妻と娘、息子も同行していた。
代表者の男性が、日本人の子供たちと話したりプログラムに積極的に関わっている姿は見なかった。無表情で、何事も遠くから眺めているようなスタイルだった。私と話したのも、その時の一度きりだ。
代表者の妻はいつも笑顔で、スタッフのマダム陣と常に一緒にいた。やはり日本人の子供たちと関わっている姿はあまり見なかった。
娘は六歳か、七歳くらい。息子は三歳くらい。
二人は透き通るような白い肌、髪はブロンド。娘の方はカーリーヘアを揺らしながら日本人の子供の間を走り回っていた。受け答えや表情は利発そうなのに、前歯が一本抜けたばかりだったため、笑うと歯の間がぽっかりとして、真抜けた表情に見えることがあった。
日本人側は大人も子供もみんな、この娘をかわいいかわいいと言い、彼女の周りは常に母性溢れる子供好きの女子がいた。白人のブロンドヘアの小さな女の子と接するのが初めてで、構いたくて仕方がない、という日本人の子供たちも多かったと思う。彼女は、そんな日本人女子たちの間を声を立てて笑いながら、逃げ回るように走り続けていた。数日のプログラム中ずっと、みんなのアイドルだった。
こういう書き方をすると勘のよい読者諸君はもう気づいているかもしれないが、私は特段子供が好きという訳ではない。嫌いという訳でもない。
私よりも弱者であり、守るべき存在だが、初めて会う子供は見知らぬ他人である。ごく普通にこんにちは、である。
これまでの人生で、仲良くなった子供も勿論いる。親とではなく、その子供自身と楽しく過ごせた、ということであり、やはり最初から私が無条件に満面の笑顔でずっと構い続ける、という関係ではなかったと思う。
だから私はそのアイドルに対しても、積極的に構いに行かなかった。
ところが。熱が下がって部屋から出てきた私に、アイドルはぴたりとくっつき、離れなくなった。彼女が参加を許されている間は、ずっと。
正直、みんなのアイドルだろうがお子様だろうが何だろうが、知らない人にずっと側にいられるのは面倒くさい。数日後には大学寮を出発しホームステイ先に行くので、真新しい人間関係をそこで構築したいという気持ちも起こらなかった。だが、受け入れ団体スタッフの代表の娘御なので、多少は構って差し上げなくてはならない……。
アイドルは私の気持ちなど全く察することなく、移動する時はちょこまかと追っかけてきて、座る時は隣に座り、まとわりついては私を見上げ、歯の抜けた顔でにっと笑う。
プログラムの最終日、明日はいよいよ各自、受け入れ先の家庭へ出発するという前日。
大学の敷地内でピクニックのようなイベントがあった。数日でクッキーの生焼けのような食感にも慣れていたのでむしゃむしゃと食べ、日本人の同世代の友人たちと「緊張するね」というような話をし、ホームステイ業者のスタッフ代表と、受け入れ団体のスタッフ代表が皆の前で挨拶をし、その娘はやはり、私のすぐ側にいた。
たった二日ほどだったのに、私はやっぱり少し、うざったく思っていたのだと思う。日本人の小学生の子たちを指して、「彼らと遊んできたら?」と聞いた。
彼女は首を振って、私にだけ聞こえるよう、小さな声で言った。
「志野以外はみんなイエローモンキー。志野は違う」
しゃがみ込み、彼女に目線を合わせ、
――あなたは今、決して言ってはいけないことを言った。人を傷つける言葉で、とても恥ずかしいことだ。
それから代表の男性に、
――あなたの娘が私たちをイエローモンキーと呼んだ。親は一体どういう教育をしているのか。
そう、言えばよかったのだろうか。
十七歳の私は、ただ、驚きで言葉を失っただけだった。
あの時の事を、私は一緒に参加していた友人にも、日本人のスタッフにも、アメリカ人のマダムたちにも、言えなかった。帰国後も、親にも学校の友人にも言えなかった。語るのはホームステイ先での楽しい出来事ばかりで、この事件については、長らく蓋をした。
考えてみればわかることだが、たかだか六歳か七歳の子供自らの価値観で出てくる言葉ではない。
黄色人種をイエローモンキーだと心底思い、日常的にそう呼ぶ彼女の身近な誰かが、彼女にそう言ったのだ。その誰かは同時に、黄色人種であるのに自分たち白人に近い肌色の「志野」はイエローモンキーではないと、彼女に言ったのだろう。
あの出来事が私の中で「事件」になってしまったのは小さな子供のせいではない。それでも私は、多くの人に話さなかった。
何も言えず、何も言う言葉が見つからず、どうすればよいのか全くわからなかった自分を、恥じていたのだと思う。
翌年、性懲りもせず、私はアメリカの高校に一年間、留学した。
今、仕事で多くの外国人と関わっている。日本企業の人事として外国人を採用し、笑顔で受け入れ、相談に乗り、時に注意し、嫌われたりもする。
あの時の経験は、何の役にも立っていない。あの時どうすればよかったのか、未だ答えは見つからない。
私たちは皆、猿だ。言葉の違い、文化の違い、肌の色、髪の色、目の色を壁として、乗り越えられない猿だ。
企業の都合で外国人を採用しては壁によって起きる問題にため息をつき、中東では八㍍もの壁を築いても尚、数ヶ月で何万もの人が死に、東ヨーロッパでは、国境という壁を越えて押し寄せる大国に抗う国が、息も絶え絶えになっている。
私たちが壁を乗り越えるのはいつなのか。壁を無きものとする日は、くるのか。
猿人として二足歩行するようになったのが六百万から七百万年前、火の使用の痕跡が明確に見つかっているのは七十五万年前の遺跡。
私たちの次の進化はいつなのか。それとも私たちそのものは、もう進化することはないのか。判断力、思考力、精神力は、滅亡するその日まで、変わらぬままなのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます