#11
薄井モコ。なぜ彼女がこんなところに。どういうことだ。混乱するルナの耳に、声が降ってきた。
「ルナちゃん......」
紺のブレザー制服に身を包んだモコが心配そうな目で見つめる。
「どうしてモコが……こんな危険な場所に……」
戸惑いを隠せずに問うと、モコは言葉を遮るようにルナの手を取り、ぐっと引き起こした。焦りを含んだ声が響く。
「後で話します! 今はとにかく安全な場所へ!」
二人は足早に路地裏へと駆け込み、ようやく人の気配が途絶えると、湿った壁にもたれて息をついた。モコは肩で呼吸をしながら説明を始める。
「ここ……私の住んでいた辺りなんです。通学の途中であんなことになって……避難してる最中に、倒れていたルナちゃんを見つけたんです」
「そんな……自分の命だって危なかったのに」
ルナが唇を噛むと、モコは首を振った。
「出来ません。ルナちゃんが……南さんに救われた時の私と同じに見えたから……。あの時、誰も助けてくれなかったら、私は今ここにいなかった。だから、ルナちゃんを放っておけないんです」
その言葉にルナの胸が刺される。どうしてモコは、こんなに優しいのか。昨夜、モコに『あなたを助けなければパパは生きてた』だなんて酷いことを言ってしまったのに。彼女は自分に対して、怒ってないのだろうか。
その瞬間、右腕に鋭い痛みが走った。ルナは思わず呻き声を漏らす。
「ルナちゃん!? ちょっと見せてください!」
モコが素早く駆け寄り、セーラー服の袖をめくる。赤黒い血が滲み出し、滴となって地面を濡らしていた。
「……こんなに出血してるのに、どうして言わなかったんですか!」
「ごめん……逃げるので必死で、気づかなかった……」
きっと人の群れに押し倒された時の怪我だ。あの混乱の中では気にしている余裕もなかった。
モコはポケットから白いハンカチを取り出し、ためらいなく血に染めながら手際よく腕に巻きつける。
「ありがとう……」
「いいえ。こんなの、大したことじゃありません」
「他には? 痛むところは」
「……ないよ。全然大丈夫」
強がって答える。実際は背中に鈍い違和感があったが、口には出さなかった。言えばまた心配させてしまう。何より、モコがこうして自然に人を助けられる姿が、胸を締めつけるほど眩しくて、余計に言えなかった。
堪えきれない涙が滲みそうになり、ルナは顔を上げて誤魔化した。見上げた空には、昨日と同じように人工太陽の不調を思わせる暗雲が広がり、細い雨粒が頬を打つ。しかもただの雨ではなく、濁ったような黒だった。
「……また雨……それに黒い」
「早く屋内に入りましょう」
「うん」
「この近くに病院があったはずです。そこに向かいましょう」
二人は肩を寄せ合い、冷たい雨に濡れながら路地裏を抜けて街へと歩き出す。
遠くで戦闘機の爆音が響き、怪物の咆哮が街を震わせた。
●
イフ社のラボもまた、怪物の出現で混乱に包まれていた。
壁一面に並ぶ電磁スクリーンには、煙と炎に覆われた市街地の惨状が映し出されている。瓦礫の隙間から立ち上る黒煙が空を覆い、その中心には二十メートルを超える異形の怪物が咆哮をあげていた。
自衛隊の戦闘機が低空を旋回し、次々とミサイルを撃ち込む。しかし炸裂する閃光は怪物の身体をすり抜け、地上の建物だけを無惨に崩していく。
「日本政府はこの生物を鷹に酷似していることから“ホークス”と呼称することを決定しました。ホークスは依然攻撃の手を緩めず――」
ニュースキャスターの震えを帯びた声が、ラボの中に重苦しく響いた。
「兵器が……全く通じないだと……?」
一人の助手が頭を抱え、机に突っ伏す。額には脂汗が浮かび、唇が震えている。他の研究員たちもモニターに釘付けになり、ざわめきが広がった。絶望の色が、室内を覆っていく。
その肩に手を置き、沖永は低く静かな声で言った。
「大丈夫だ。こういう時こそ……ヒーローが現れる」
「博士……冗談を言ってる場合ですか」
助手の一人が声を荒げる。必死に冷静さを保とうとするが、目は怒りよりも恐怖に揺れていた。
沖永は表情を崩さず、傍らに立つ存在を指し示す。
「冗談じゃない……俺たちにはアルファがいる」
室内の視線が一斉に女性型AIに注がれる。助手たちは息を呑み、アルファ本人でさえ小首を傾げ、困惑した表情を浮かべた。
「まさか……アルファは医療用のAIですよ! 一体何ができるっていうんです!」
「できる」
沖永の声が室内を断ち切った。
「アルファを巨大化させる。あの怪物に立ち向かえる存在に」
「きょ、巨大化……? そんな荒唐無稽な――」
「根拠はある」
沖永の瞳がぎらりと光る。
「アルファにはナノマシンの技術が組み込まれている。時間は要するが……理論上は拡張可能だ。実現できれば、唯一の対抗手段になる」
助手たちは言葉を失い、沈黙が落ちた。現実離れした発想、だがそれ以外の手はもう残されていない。
沖永は白衣を翻し、端末の前に立つ。
「さぁ、準備にかかるぞ。……アルファ。君は医療のために生まれた。だが今回だけは、この街を救うために戦ってくれ」
〈承知致しました、マスター〉
アルファの背部にプラグが差し込まれ、複雑なプログラムが次々と走っていく。ラボの空気が緊迫し、研究員たちの視線が一点に集まった。
●
イフ総合病院。
廊下には担架の音と患者のうめき声が満ち、看護師や医師たちが慌ただしく行き交っていた。戦場のような喧騒の中で、ルナの母もまたナース服に身を包み、血まみれの患者に次々と手を当てていた。本来は非番の日だったが、緊急招集を受けて駆けつけたのだ。
手際よく包帯を巻きながらも、母の表情にはどこか陰が差していた。動作は機械的で、心ここに在らずといった風だった。
(……ルナ。今どこにいるの……)
気づけば何度目かも分からないほど、ポケットのスマホを取り出していた。作り笑顔で患者に「少し失礼」と断りを入れ、手を止める。画面には既読のつかないメッセージが並んでいた。
「ルナ、どこにいるの?」
「心配しています。返事をください」
「生きてるかどうかだけでもいいから」
指先が震え、視界がにじむ。
「ルナちゃんなら……きっと大丈夫ですよ」
隣で処置をしていた同僚が、気づいて声をかけてくる。
「彼女は明るくてとっても可愛らしい子なんです。こんな状況でもたくましくやってるはずですよ」
「そうだといいけど……」
「あなたの子供なんでしょ。信じてあげましょう」
同僚の言葉に、母はスマホをしまい、深く息を吐いた。
脳裏に昨夜の会話が甦る。
『ヒーローなんて……小学生の時、卒業しようって、何度も言ったでしょう?』
あの言葉は、娘を傷つけたのだろうか。ルナの目に浮かんでいた寂しげな影が忘れられない。
母は知っていた。看護師の仕事。ここで知る現実は、ヒーロー番組のような輝きとは正反対だ。必死に患者を処置しても容態は急変する。患者の家族に罵倒を浴びせられることもある。努力が届かない瞬間を、何度も経験してきた。
そして――最も深く刻まれた光景がある。
あの日――。
母は控室で同僚に小さな声で打ち明けていた。
「もう私たち駄目かもしれない……。あの人は夢を諦めない。でも、それで家族が壊れていく。ルナのためにも、離婚して、彼がいなくなった方がいいのかもしれないわ」
疲れ切った表情で絞り出すようにそう言った瞬間、胸の奥で何かがひどく痛んだ。
同僚は慰めの言葉を返すこともできず、ただ気まずそうに黙り込んでいた。
その時だった。
「南さん! 至急お願いします!」
受付の職員が駆け込んできて、母は咄嗟に立ち上がる。処置室へ駆けつけた彼女の目に飛び込んできたのは、担架に横たわる一人の男だった。
全身を炎に焼かれ、原形をとどめないほどにただれた姿。
それが夫だと理解した瞬間、母の心は凍りついた。
「そんな……」
自分の口から、乾いた声がこぼれる。
「もう手の施しようがありません」
同僚の悲壮感溢れる言葉が耳に突き刺さる。頭の奥で耳鳴りが鳴り響き、足元がぐらりと揺れた。
ーー"あの人は、いない方がいい”
ほんの数十分前に吐き出した自分の言葉が、呪いのように蘇る。
自分がそう言ったから、本当に現実になってしまったのではないか。
母は震える手で夫の指を握った。皮膚が崩れ落ちる感触に嗚咽が漏れる。
看護師でありながら、何一つできない。夫の生き様を受け入れられなかった自分のせいで、ルナから父親を奪ってしまった。
その絶望と罪悪感が、胸を容赦なく締めつけた。
葬儀の日、母は遺体を棺に入れなかった。
幼いルナに、あの惨い姿を見せたくなかったからだ。
葬儀が行われた日の朝、ルナが不安気な顔で空っぽの棺に手を置きながら訊いた。
「ねぇママ……パパはどこに行っちゃったの?」
「ごめんね……ごめんね……ルナ……」
母は何度も謝ることしか出来なかった。
父との最後の別れを、娘から奪ってしまった。その事実に胸が苦しかった。
あの時、医療の道を選んだ自分でありながら、一番大切な人を助けられなかった。あの日の悔しさと絶望は、今も胸に重く沈んでいる。
だからこそ、現実的にできることを選ばなければならないと自分に言い聞かせてきた。娘が「ヒーローになりたい」と言った時も、その夢を真っ向から否定したのは、その思いがあったからだ。だが――。
アルファと出会って少しずつ変わっていく娘を見て、母は気づいてしまった。
ルナはずっと、自分の喪失の痛みを癒そうと、幼い心を押し殺してきたのではないか。
あの夜、夢を踏みにじったことで、また彼女を追い詰めてしまったのではないか。
胸の奥に、取り返しのつかない後悔が広がっていく。
「ルナ……。私にとって、あなたがどれほど大切な子か……きっと、一割も伝わってないわね」
だが今は立ち止まるわけにはいかない。
ここにいる患者たちにも家族がいる。私のように愛する人を失って、泣き崩れる者をこれ以上生みたくない。
母は涙を飲み込み、次の患者のもとへ歩み出した。白いマスクの下で、強く唇を噛みしめながら。
●
「おかけになった電話は電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません。ピーッと発信音がなったらメッセージを録音してください」
ハルはもう何度目か分からないこの音声を聞き、ため息をついた。
糸杉家の屋敷で、ハルもまたニュースでホークスによる惨状を目にしていた。
被害現場はルナの家からは離れている。それでも、返事のないスマホ画面を見つめるたび、不安は膨らんでいく。クモやウールを始めとした他のクラスメイトたちに聞いてみても、ルナは消息不明だというのだからただごとではないのは確かだ。
「……ルナ。お母様だけじゃなく、あんたまで死ぬなんて絶対に許さないから」
居ても立ってもいられず、ハルは自室の扉を勢いよく開いた。親友のもとへ駆けようとした、その瞬間――。
――ピシュン!
青いレーザーが足元をかすめた。
「きゃあっ!」
尻餅をついたハルの頭上に、数体のドローンが降りてくる。操っているのは執事ロボットのゼノだった。
「あたしは社長の娘よ! 通しなさい!」
〈社長の命令です。これ以上、手荒な真似はしたくありません。お嬢様、お戻りください〉
執事ロボットの分際で。
ハルは即座に立ち上がり、四方八方から浴びせられるドローンの光線を紙一重でかわしながら走る。
視界の先にコレクションルームが見えた。飛び込むように中へ入り、扉を閉ざす。椅子を押し当てて、即席のバリケードを築いた。
ドンドン、と扉を叩く衝撃音。
レーザーが壁を焼き焦がし、焦げた匂いが鼻をつく。
――武器になりそうなもの。
手にしたのは飾られていた古びた刀だった。
扉が破られ、無機質な赤い目が覗く。
その瞬間、ハルはぎこちなく刀の鞘を抜き、反射的に振り抜いた。
――ギャリッ。
ドローンは真っ二つに裂け、火花を散らして床へ墜落する。
暴走した機体の衝撃で、残りのドローンが一瞬方向を見失う。その隙を突き、ハルは飛び出した。
そのまま走る。屋敷の出口はもうすぐだった。ロング丈のネグリジェが足にまとわりついても構わない。
ルナがどこへ行くか、親友である自分なら分かる。きっと彼女は、ヒーローを名乗って現場に向かう。そんな無謀を止められるのは自分しかいない。
ハルは屋敷の玄関の扉を力いっぱい押し開け、振り返りざまに扉を閉ざした。背後のドローンたちの追撃を断ち切るように。
朝の光が流れ込み、視界が一瞬白く滲む。
――そして、そこに立っていたのは。
「……ルナ?」
信じられなかった。
何度もスマホに呼びかけても返事はなく、もしかしたらもう……と最悪の想像をしていたその人が、今、目の前にいる。
黒いセーラー服に綺麗な長い髪、美人なその顔はルナ以外の何者でもなかった。
人口太陽に照らされた彼女は、まるで幻のように静かに微笑んでいた。
ハルの時間は止まり、胸が一気に熱くなる。
「うそ……ほんとに……あんたなの?」
声が震えた。
夢なら覚めないでほしい、心の底からそう願いながら、ハルは駆け寄った。
「ルナ!? 今までどこにいたの? 連絡つかないし、すごく心配したんだから!」
しかしルナは答えない。ただ静かに笑みを浮かべるだけ。いつもお喋りな彼女らしくない。きっと恐怖で声を失っているのだと、ハルは思った。
「あたしがあんたにヒーローの夢をけしかけたせいで、死んじゃうんじゃないかって……ずっと悪い想像してた。でも……よかった。生きてて……」
涙声でそう言い、ルナを抱きしめた、はずだった。
だが、腕は虚空をすり抜ける。
「……ルナ?」
疑問を抱く間もなく、ルナの姿は淡く揺らぎ、霧のように消えた。
〈お嬢様、それはバーチャル映像です〉
背後から冷たい声。振り返った瞬間、煙が噴射される。
「っ……!」
視界が揺らぎ、足に力が入らなくなる。
催眠機を構えたゼノが立っていた。無機質な目でハルを見下ろしながら。
崩れ落ちる彼女を受け止めると、ゼノは無感情に告げた。
〈これでいいのです〉
●
病院に入ったルナとモコ。
院内は戦場のような喧噪に包まれていた。担架が行き交い、看護師や医師が慌ただしく声を飛ばしている。とてもルナの治療どころではなさそうだった。
「……すごいことになってますね」
「……うん」
二人は沈んだ顔を交わし合う。
その時、通りかかった看護師がルナの姿を見て、思わず立ち止まった。
「あっ……ルナちゃん?! 本当に無事だったのね!」
目を潤ませ、彼女は嬉しそうに駆け寄ってくる。ルナの母と一緒に働く同僚だった。
「お母さん、ずっと心配してたのよ! 今呼んでくるから、待ってて!」
返事も聞かぬまま走り去っていく背中を見送り、ルナは眉を曇らせる。
「……ボク、ママに会わす顔がないよ。あんなに酷いこと言っちゃったんだ」
「ルナちゃん……」と、モコはそっと寄り添う。
ふと視界に担架が運ばれてきた。
そこに横たわっていたのはタイヨウだった。自殺未遂をして、意識不明だったはずの彼が、かすかに目を開けている。その傍らで担架を押す看護師の一人に母もいた。
ルナは思わず顔を伏せる。気づかれたくなかった。
「どうしたの?」とモコが耳打ちする。「あれ……ボクのママ」、ルナは小さく顎をしゃくるだけで精一杯だった。
その時、タイヨウが掠れた声をあげた。
「……ついに世界の終わりが来たんだ」
看護師たちは顔を見合わせる。タイヨウは虚ろな瞳で続けた。
「これでやっと……クソみたいな世界から解放される。怪物よ、さっさとみんな踏み潰せばいいんだ!」
荒んだ叫びに、場の空気が凍りつく。
タイヨウのその発言に、母がムッとした顔で反応する。
「こら! そんなこと言っちゃダメ!」
「うるさいクソババア! 偉そうに説教すんな!」
普段のおとなしいタイヨウからは想像できない言葉に、ルナは息をのむ。
自分ならとても耐えられない。けれど母は一歩も退かず、静かな声で告げた。
「私のことは何とでも言いなさい。でも覚えておきなさい。あなたの命は、あなただけのものじゃないの」
淡々と、それでいて強い響きを帯びた声だった。
「あなたが生きているだけで、希望になっている人が必ずいる。たとえ今のあなたが自分の命を粗末に扱っても、私は、その人たちのために、あなたを救う」
タイヨウは言葉を失った。母の瞳に射すくめられ、怒りの炎が次第に萎んでいく。
残ったのは、自分を見つめ直すような、戸惑いの色だけだった。
モコは目を細め、どこか誇らしげに呟いた。
「……あなたのお母さんも、ちゃんと人を想う強さを持っているんですね。きっと、その想いはルナちゃんにも受け継がれてる」
だがルナは首を横に振り、涙声で返した。
「……全然そんなことないよ」
込み上げる嗚咽を抑えながら言葉を紡ぐ。
「ボク……やっと気づいたんだ。今までずっと、みんなにかっこいいって思われるようなヒーローになろうって、そればっかり考えてた。タイヨウを救えなかった悔しさとか、パパのこととか……それで頭がいっぱいで、周りなんて見えてなかった」
拳を握りしめる。
「そのせいで……タイヨウのいじめのことだって、本当に彼を助けたいって気持ちより、自分がヒーローになるために利用しちゃってた。……最低だよね」
モコは口を開きかけたが、ルナは自嘲するように笑って続けた。
「ボクってバカだから……こんなに失敗して、やっと分かったんだ」
小さな声が震える。
「でもそのせいで……タイヨウだけじゃない。ママも、ハルも、アルファも、沖永博士も、そしてモコだって、みんなを傷つけてきた。天国のパパも……きっとボクにガッカリしてる」
ルナは顔を両手で覆い、肩を震わせた。
モコはそっと彼女の肩に触れ、柔らかい声で包む。
「……そんなことありません」
ルナが顔を上げると、モコは静かに微笑んでいた。
「実はね……あなたのお父さんのこと、一つ思い出した言葉があるんです」
「……パパの?」
「はい。南さんは死の間際、私にこう言いました。―ー"見返りなんて気にしない”」
その響きを胸に刻むように、ルナはゆっくり呟いた。
「……自然に、人を想えるような……優しい人になれ」
それは、彼女の名に託された願いと重なっていた。
父が亡くなる前日のこと。
いつものように夫婦喧嘩をした晩、父は缶ビールを片手に屋上で夜空を仰いでいた。落ち込んだとき、彼がよく一人で籠もる場所だった。
しばらくして、足音を忍ばせてルナが現れる。黙って父の隣に腰を下ろした。
「ルナ……眠れないのか」
「……うん」
「もしかして幼稚園でお友達と喧嘩でも?」
「ううん、違うの。そんなことより……パパこそ。ママと喧嘩して、辛くないの?」
父は驚いたように目を瞬かせ、それから苦笑してルナの髪を撫でた。
「参ったな……。やっぱりルナには隠せないか。……ダメなパパでごめんな。立派な仕事してるわけでもないし、みんなのパパみたいに贅沢させてあげられない。情けないよな」
「……そんなことない。ダメでいいじゃん」
「ははっ、変わったこと言うな」
「だってパパはヒーローショーに連れてってくれるし、一緒にごっこ遊びもしてくれる。……それだけじゃない。ヒーローになる夢を諦めないで追いかけてる。そんなパパ、かっこいいよ。だから……もっと自信持って」
ルナは小さな腕で父に抱きついた。その小さな手には大した力はない。
これで夫婦の関係性や我が家の経済状況の苦しさという問題が解決するわけじゃない。それでも父を放ってはおけない、隣に寄り添ってあげたい。ただその気持ちだけだった。
顔を上げると、父の目がうっすら潤んでいた。言葉はなくても、それが「ありがとう」だとルナは感じた。
やがて二人で夜空を見上げる。満天の星の下、父は肩に手を回しながら静かに語った。
「……ルナ。月は、どんな暗い夜でも優しく照らしてくれるだろ。お前の名前には、そんな願いを込めたんだ。――自然と、人の悲しみに寄り添える人になってほしい」
その言葉を思い出すたび、どうして自分は忘れてしまっていたのかと胸が痛む。
ルナは涙を拭い、モコをまっすぐ見つめた。表情はもう決意に変わっている。
「ボク……ヒーローになるためじゃなくて、自然と誰かを想えるような人間になりたい。今すぐに何ができるかは分からない。でも、探していきたいんだ」
モコは柔らかく頷いた。
「……それがルナちゃんの選んだ道なら、私は応援しますよ」
「ありがとう。――ボク、ママに会ってくる」
ルナは立ち上がり、迷いのない足取りで母を探しに歩き出した。
その途端、地面が大きく揺れる。
漆黒の影が空を覆い、ホークスが翼を広げて降り立ったのだ。
ルナの心臓が一瞬止まりかけ、続いて激しくビートを刻みはじめた。
街中の電力を吸い尽くしたのだろう。駅前で遭遇した時よりもはるかに凶暴な電撃をまとい、赤く濁った目で標的を射抜く。
次の瞬間、周囲の建物のガラスが崩れる轟音が聞こえた。
前方には、建物には一切お構いなく、ホークスの巨体は依然として突進してくる。
「せっかく避難してきたのに……!」
「この速度じゃ逃げ切れません! 病院にいるみんなが――!」
悔しそうに唇を噛み締めるルナとモコ。せっかく母と向き合う覚悟が決まったのに、こんなところで死ぬなんて――。
万事休すか。そう誰もが思った時だった。
途端、ルナとモコの眼前に、白き眩い光が舞い降りた。
それは空に輝く星々を思わせる力強さで、その眩しさにホークスも驚いて腰を抜かした。
光は徐々に収束し、人型に姿を変えていく。身長は二十メートルはあろうかと思われる巨人だ。
〈あなたたち人類を救済する自立思考型医療アンドロイド……〉
まるで天から舞い降りた女神のように両手を広げて、巨人は答える。
〈AlーPHA……〉
インターン出会った時から変わらない美しい名乗り、そして神秘的な姿。憧れ続けてきたヒーローがさらに逞ましくなって助けに来てくれたのだ。
「アルファ……!! アルファだー!!」
ルナの顔が一瞬にして輝きに満ちる。
対照的にモコは言葉を失い、ただ呆然と見上げるばかりだった。
アルファが現れただけで、希望が湧いてきた。彼女に全てを託せば、助かるかもしれない。そんな予感がルナにはした。
つづく
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