ディアトーラの魔女②

 ルディに案内されたトマスは食堂に入りルディに改めて挨拶をした。

「この度はお招きいただきましたこと、誠にありがとうございます」

 一応晩餐会に招かれたという体裁ではある。しかし、アノールとの会話からあくまでそれは表向きの体裁であるということは察せられた。


 領土を侵した民を秘密裏に……


 トマスの足元はまるで底なし沼に嵌ってしまったかのように、とても不安定だった。もう一人では抜け出すことも出来ないくらいに追詰められている。僥倖といえば、リディアスがあれ以来エリツェリに関わってこなくなったことくらい。


 もちろん、ディアトーラがそれを引き継いだことは知っている。

 しかし、あの木こりは何も言わずに死んだらしい。

 捕らえられている者も口を割らないらしい。

 だから、トマスは招かれたのだろうと思っている。エリツェリの兵士は、ディアトーラごときに、崩されてしまうようなそんな兵士たちではない。そう、国を思う信念ある者だから、国を売ろうなんて思わないはずだ。


 アノールの話だと捕らえたのは兵士だけだと言うから。もちろん、トマスはトマスでうまくやるつもりである。


「どうなされました?」

 一度、食堂の向こうへ隠れたディアトーラ跡目であるルディが、居心地の悪そうなトマスに声を掛け、納得したように言葉を続けた。

「あぁ、申し訳ありません。こちらがお招きいたしましたのに、領主が出先からまだ戻れておりません。失礼なことをしてしまいました。ですので、こちらをと思い」

 そう言うルディの手元には酒瓶があった。


「こちらは一年前の春分祭で飲み損なったサクランボ酒なのです。リディアス国王であるアルバート様が妻の快気祝いにと、送ってくださいました」

「それは、よろしいことですな」

「えぇ」

 トマスはルディが何を考えているのか、その表情から、その言葉から読み取ろうとする。これは、嵌められているのか、それとも単なる歓待なのか。


「ミルタス様がアリサ様のお目に止まったとか」

 笑顔のルディが酒瓶のコルク栓を引き抜く音が、トマスの耳に異様に響いてくるのだ。

「えぇ、嬉しい限りで」


 そう、ミルタスはお気に入りだという。この間もディアトーラが薬を売り出していることを伝えてくれている。木材をディアトーラがリディアスに献上したことも含まれていた。お気を付けくださいと締められていた。


 「『魔女』の薬がリディアスでも話題に上っております。同じ轍を踏まないようにお気を付けください」

 ディアトーラに追い抜かれていく様がトマスの脳裏に浮かんだ。


「こちらは薬売りを始めたとか」

「えぇ。皮肉なことに魔女の国の薬であることが話題を呼んでおります」

 薄い桃色の液体がトマスの前にあったグラスに注がれる。揺れる液体が静かに止まる。クロノプスの息子ルディの微笑みが、不気味だった。何を考えているのか掴めない。


「奥方様は……」

 回復しているはずだ。しかし、現れない。そして、ルディの表情があまりにも読みにくい。この男はこんなに感情を偽るように出来ていなかったはずなのに。どちらかと言えば、母親であるセシルのようにすぐに表情に表れていたはずなのに、今の彼はアノールそっくりである。


 不気味だった。


 注がれた薄桃の液体は燭台の橙を含み、妖しくトマスを誘っている。

 薬を作っているのは、誰なのか。ルタはその薬で助かったのではなかったのか。トマスは生唾を呑み込む。見たこともない魔女の姿がその液体の中にあるような気がしたのだ。


 魔女の薬は、人の作るものより優れている。それは毒にも通じるのではないか? 嗅いでも分からない、味わっても分からない、何も出てこないそのような毒。


「ルタは、あ、参りました」

 トマスは視線をルディからルタへとぎこちなく動かす。逢魔が時にある闇の色によく似た深紫のドレスの魔女がいた。

 長い黒髪を背中に流したルタが、膝を折ってトマスに挨拶をしている。


 しかし、その唇に浮かぶ笑みが、舌なめずりしているような。そんな風にトマスには感じられた。復讐をされるのではないか。相手は魔女だ。トマスの脳裏には、嫌というほど引き合いに出されたエリツェリ王の姿が過ぎった。


 毒を仕込み、毒にやられた、あの国王。トマスの影のように、ずっとつきまとう、そんな幻影。


「ようこそお越しくださいました。エリツェリのトマス様」

 視線を上げたルタの瞳は、真っ直ぐトマスに注がれる。まるで蛇が蛙を見つけたような、揺らぎのない視線だ。まるで……。


「あら、ルディ、まだ飲み物を勧めていないのですか? 一口もお飲みになっておられませんわ。お喋りばかりではお客様に失礼ではありませんか」

 飲んでいないとは、どうして分かるのか。トマスがそのグラスに視線を落とす。そして、春分祭と重なる。黄金を含んだ薄桃に毒を感じた。


「いや、遠慮されているようで、まだ口にされていないだけだよ」

 そして、海の底にある冷たい響きを秘めた男の声。いや、無感情とも言えるのかもしれない。並んだ二人が微笑んだ。


「遠慮などされなくても……どうぞ祝い酒でございますので」

 静かな狂気がそこにあった。下手に動けない。それでもトマスは立ち上がり、笑顔を引きつらせた。いったい何を祝うのか。

「ご快癒されましたようで、安心しました。とんだ目に遭いましたな」


 大丈夫だと言い聞かせる。トマスの関与は知られていない。それにと、僅かに視線を背後へ遣る。警戒の意識を持つ、信頼に足る二人がいる。

「お気遣い有り難く存じます。どうぞお座りになってくださいませ。わたくしごときに立たせてしまいましては申し訳ありませんわ」

 トマスが「では」と着座を断ると、魔女ルタが言った。


「春分祭においてミルタス様にはとても良くしていただきました。素敵な姪御様でございますね」

 嬉しそうに笑うルタの言葉はトマスの耳の奥でよどとなり、留まる。ミルタスのことを知っているのか、この魔女は。そこで思考が止まる。

「ミルタスは今リディアスで、王妃陛下様の傍仕えをしております」

 ミルタスの背後を語ることで、威信を取り戻そうとするが、ルタはまったく動じなかった。


「お目に止まられた、ということですわね。ミルタス様なら当然のことかと。そして、そのリディアスから贈られた祝い酒でございます。ミルタス様のお祝いも兼ねて、どうぞ召し上がってくださいませ」

 ルタの微笑みは絶えない。


「ルタ、その御酒ごしゅが飲めないのかもしれない」

 ルディの声が静かに響いた。

「あら、そうなのですか? リディアス王からいただいたものですのに」

 わざと国名を選ぶその魔女は、トマスを狙う視線を外さない。


「いや、もしかしたら魔女の勧めるものは飲めないのかもしれない」

「あら」

 ルタの声の後、背後から声が聞こえた。トマスにとって唯一息をつくことの出来る、一瞬だった。


わたくしめが」

 しかし、その信頼足りうる臣下の言葉が止められる。


あの春分祭・・・・・のように毒が入っていると疑われているのですね。でしたら、そちらの方が犠牲になる必要などありませんわ。わたくし、嘘は嫌いですのよ。その中に毒など入っておりませんわ」

 ふわりとトマスの傍に近づくルタに、腹心である二人が身構える。

「わたくしが代わりに毒味を致しましょう」


 身構える二人が動く前にルタがそのグラスのステムをつまみ上げ、一口、口に含んだ。喉を通るアルコールが、細い首を通り、胃に落ちる。

 さすがに跡目夫人を差し置いて、さらに毒味をとは誰も言えなかった。


 春分祭において、その酒はルタの喉を焼き切った。胃の中で暴れ回った。体中を駆け巡り、命を焼き殺すものだった。彼らは何が起きるかを知っていた。


「何を恐れていらっしゃいますの? わたくしたちは、リディアスを敵に回すような悪手は取りませんわよ。そうですわよね、あなた」

 不敵な笑いのルタがそっとそのグラスをトマスの元に戻す。何事もない。

「そうだね」

 ルディの声にいつもの抑揚はなく、その瞳はただじっとトマスに向けられていた。

 しかし、本来魔女ならば、毒はものともしない。エリツェリ出身のトマスなら、知っていて当然だ。ルタを魔女だと信じれば信じるほど、命を狙われたと思うだろう。だから、ルタはそのトマスの頬に口元を近づけて囁いた。


「いい加減になさらないと、いつでも魔女として・・・・・貴方の元へ参りますわよ」

 何事もなかった。トマスは何も言えなかった。その声は死刑宣告のようにトマスに響き、震え上がらせた。


 どこへ逃げても、魔女なら追いかけてくる。


 ルタは静かにルディの元へと戻り、慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、その夫に寄り添う。ルタに柔らかい笑みを浮かべるルディが、そのままの表情でトマスに告げる。それなのに、その声に優しさはまったく感じられない。


「エリツェリ元首であったトマス・マグワート様。そちらのお二人は多数の大型魔獣を仕留められましょうか? 最近では、森が荒れることが多くございます。あちらに残された三名の兵士は、まだ大型魔獣相手となると実力がないと見受けられました。夜にはそれらが多数に暴れる国でございます。外は危険ですので、今晩はお泊まり下さることができるように、準備だけはしておきましょう」


 ルディの発した言葉の後、すぐに「お待たせしました」という女の声が響く。


「父が参りましたようです。お待たせ致しましたことお詫び申し上げます。我々は魔獣が飛び出してこないよう、準備がありますので失礼します。秋の夜は長いですので、ごゆるりとお過ごしください」

 二人が並んで礼をし、退出する。


 外にはセシルとアノールがいた。扉の影で、セシルが柔らかく微笑み、一言零す。

「ここでお待ちしておりますので」

 ルタとルディが「よろしくお願いします」と頭を下げる。そして、出て行くふたりにアノールが声を掛ける。


「何があっても飛び込むな」

「分かっております」


 森から出てくるかもしれない魔獣は警戒する。しかし、それ以上はしない。

 例えば、自ら森に飛び込んだ客人を助けに行く必要はない。

 ふたりに代わりにアノールが入室した時、トマスは思考を失っていた。すべて看破されているのだ。トマスの後ろには今も魔女がいる。魔女は気配を消して、猫のようにいつでも現れる。逃げられない。そして、前にはアノールがトマスの動向を見つめている。


「遅れましたこと、お詫び申し上げます。そして、大変申し訳ありませんが、森の様子から外錠を閉めることを決断致しました。ですので、本日はお泊まりくださいますよう、それは息子からお聞きですね」


 ディアトーラ領主から、逃げる方法は……。


 捕らえられているトマスの頭の中は『逃亡』一色に染まっていた。

 しかし、実際のトマスは思考を凍らせていた。アノールの言葉に、条件反射のように挨拶し、促されるままに着座し、意識を濁らせる。アノールの声が冷たい風のように耳に届き、吹き抜けていく。


 逃げられない。


 二年前の森への侵入から、春分祭での毒混入。そして、未だに続く領地侵害。

 エリツェリの民が消えた時期、春分祭での剣と商人。名は伏せられていたが、ヒガラシについて。

 そして、今回の兵士が襲われた場所。

 国が抱えるエリツェリ兵であるという事実は大きかった。


 アノールは順を追って、それらを伝える。トマスは呆然としているだけだ。

 この件に関してすべてを任されているディアトーラの立場。そして、エリツェリが執拗に狙っていたときわの森にある巨樹がどういう意味を持つのか。

 リディア神そのものとも言われるときわの森にあるその巨樹。それをエリツェリは狙っていた。

 トマスが震える声でやっと否定する。


「あの女は魔女だと自分で言っていた。そんな者がいる国の……そんな国の言葉なんて偽りで出来ている……私の後ろにはミルタスがいて、……」


 だが、トマス自身それで逃れられるとも思っていないはずだ。だから、言わなければ良かったのに、とアノールは思った。ここで認めれば、彼の抱く恐怖は一つで済んだのにと、アノールはトマスを残念に思う。

 ルタがくれたのは恐怖ではなく、認める機会だったのにと。


 そして、彼の言う唯一の後ろ盾であるミルタスと自身を比べる。ミルタスは言ってみれば藁のような者である。吹けば飛ぶし、燃やせば一瞬。しかし、アノールは違う。そして、ルタも違う。恐れられる大きさが全く違うのだ。背負うに厄介だが、切り札にはなる。


「ルタが魔女だと言ったのであれば、そのように動くつもりなのでしょう。彼女は嘘を言わないからね。彼女にとっても君に次はないということだ。だがね、」

 アノールは口調を変える。これはルタを魔女にしないために。


「トマスよ、何か勘違いしていないか? あれは、リディアスにとってもとても大切な木だ。いわば、御神体。リディア神そのものでもある。それを理由に『エリツェリ』という国を、リディアスに差し出すことも出来る立場に、私はいるのだよ。さて、君はどうしたいのだろうね?」


 リディアスに不義理をしようとする国を見張るために寄越された密偵。アノールがこの国に入った時、どの国もアノールをそう警戒していた。


 魔女の目も、リディアスの目も君を逃がさないと言っているのだよ。エリツェリはどこへ逃げられると思っているのかな?


「なに、夜明けまで時間はたっぷりとある。最善を選ぶことだな。……セシル、お客様に食事を」



 呼ばれたセシルは待っていたように扉を開き、ただ静かにお辞儀をした。


「アノール様、いずれの場所においても『最後の晩餐』のご用意は出来ますが、エリツェリからのお客様はどちらへご案内いたしましょうか?」



 食堂には、飲み干されることのなかった祝い酒が一つ、ただ残った。

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