八色の魔女
夢現
第1章 春焦がれ
1.幸せとは儚い夢―――(前半)セアル、(後半)ラウラ
――――ここは春焦がれ、アトーンド。冬の男の住まう街――
吟遊詩人の歌が響く。この隠れ家に来るときに見た、あの年老いた吟遊詩人の声だろう。
その歌を遠く聞きながら、セアル・ペイルーズは揺り椅子の向きを変えた。
たちまち熱さと寒さが逆転するが、セアルは気にしない。目を閉じて揺り椅子に体重をかけ、街にいる間は味わえないこの退屈なぐらい穏やかな時間を満喫していた。
しばらくの間、ぱち、ぱちと暖炉の薪が爆ぜる音だけが室内に響く。
だが、唐突に外から響いた下卑た声に静寂は破られた。
(この声……ヴィアスか)
セアルの腹違いの弟で、本妻の子。セアルの持てなかった、確固たる身分を持って生まれた男。その癖ヴィアスは勉学に励むこともなく、街で悪い仲間とつるんでいる。
(怒るな……諦めろ……。羨んでも仕方がない。もう決まったことなのだから)
ほんの僅か顔を出した激情を押し止め、セアルは頭部から伸びる耳に意識を集中させた。
ぴくり、ぴくりと兎耳が忙しなく動き、外から聞こえる声を拾う。
(みつけた)
ソファーに投げ出した外套を羽織り、外に出る。足音を立てぬよう気を付けながらも半ば跳ぶような足取りで駆け、壁に背中を付けて待つ。
女の荒い息が近付き、セアルが身を潜めた道の前を通り過ぎようとしたところで手を伸ばした。
「んっ!?」「静かに」
女を抱き寄せ口を手で塞ぎ、跳ぶ。雪避けのひさしを足がかりに、建物の屋根に上がった。
ヴィアスとその取り巻きたちの声が遠ざかったところで、女の口を塞いでいた手を放そうとした、が。
そのとき、手の平に軽く歯を立てられた。
「つっ」
微かな痛みと温もりに驚き、抱き寄せていた腕の力も緩む。その隙をついて女はセアルの腕から逃れた。
「助けてくれたことには感謝するけど、いつまで抱き締めているつもり?」
「悪い、ラウラ」
達観した雰囲気にそぐわぬ、まだ女になり切らない姿。これでもう十九だというから驚きである。
「俺たち兎族は、耳がいいから」
「……知ってる。今日もそのよろしいお耳のお陰でヴィアスにとっ捕まったもの」
ラウラは大きなため息をついた。
ラウラは一年ほど前からアトーンドに現れるようになった人族の薬師だ。腕がよく、優しい彼女はすぐ街に馴染んだが、そのどこか危うい雰囲気のせいか、まともに生活が送れるほどにしっかり稼いでいるからか。ヴィアスたちに目を付けられときどき追い回されていた。
「どこに行くんだ? なんなら送っていくが」
「警務隊の隊舎に。お薬を届けに行く途中だったの」
「……こんな時間にか」
「夕の鐘が鳴る頃なら、見回りも終わっているからってアネスが」
「あの馬鹿暗くなるだろうが」
「……私に言われても。それに、心配はいらないよ。よくアネスが送ってくれるから」
「それでも、だ」
「なあに? じゃあセアルがついて来てくれるの?」
悪戯っぽい微笑みに、心臓が否応なしに跳ねた。普段はどこか異様な左目の眼帯すら、妖しい魅力の一助となる。
「……そうだな、そうさせてもらう」
こんな時ばかりは自分の滅多に動かない顔面筋に感謝である。
「じゃあ、行こうか。もういい時間だもの」
「ああ」
ラウラが詠う。耳に心地よいソプラノが、魔術を紡ぐ。
「『風、その色は緑。運ぶものにして壊すもの。繭となりて我を包め』」
ふわり、と風が動き、セアルとラウラを包み込む。
「行くよ?」「ああ」
ラウラが屋根から一歩、虚空に足を踏み出す。二人は風の繭に包み込まれ、ゆっくりと羽のように落ちていく。
ふと横に目をやれば、栗色の三つ編みが揺れていた。普段は髪に隠れて見えない、小さな耳も見える。
セアルが何よりも愛しく思うその人は、夕焼けに照らされてこの世のものではないように見えてしまって。
――――冬の男は待っている。春の乙女の訪れを――
セアルの耳には老いさらばえた吟遊詩人の歌声が、やけに大きく聞こえた。
❋❋❋❋
アグリア王国最北端の街、アトーンドで出来た友人であるセアルと共に歩いていると、主に同性からの視線が突き刺さる。
セアルは顔もよく、ヴィアスと同じ父親を持つということが信じられないぐらい紳士的だから非常にモテるのだ。そんなセアルと仲良く並んで歩いているのだから、嫉妬の視線を向けられることも仕方ないのだが。
(いたたまれない……)
戯れについて来る? なんて問うた数分前の自分を殴りたい。
「───ラウラ」
「きゃっ!?」
視線から逃れるように俯き加減に歩いていたラウラは、突然後ろに引っ張られてセアルの胸板に衝突した。後頭部の微かな痛みを堪えつつ、少し上の方にある端整な顔を見上げる。
兎族の王種たる赤眼種に特有の、真紅の瞳と目が合った。
「考えごとでもしていたのか。轢かれるところだったぞ」
視線を前に戻せば、目の前を麻袋満載の荷車が横切っていくところだった。確かにあのまま歩いていたら、捻挫ぐらいはしただろう。
「……気付いてなかった。ありがとう、セアル」
「構わない」
いつも変わらない、静謐な無表情。その奥に溢れんばかりの優しさがあることをラウラは知っている。
心の奥底から湧き上がる幸福感を引き裂くように、声がする。他でもない、自分の声。
『分かっているんでしょう? 私』
ええ、分かっているわ。私。
これは夢。目が覚めれば消えてしまう、儚い幸せ。
永遠に続く幸せなどない。そんなことは、幾星霜の時の中で存分に思い知った。
ラウラとセアルたちでは、時の流れが違い過ぎる。いつかはきっと、ここにいられなくなる日が来るだろう。
冷たく事実を述べる心をそのままに、ラウラはセアルに微笑みかけた。
「……もうすぐ夕の鐘が鳴るかな。急ごう?」
「そうだな」
二人が歩くこの街のメインストリートは、「王の道」と呼ばれるアグリア王国を走る巨大な交易路の一部だ。アトーンドはその最北端に位置し、警務隊の隊舎はアトーンドの正門付近にある。雪に霞む景色の中で街を守る市壁と正門がぼんやりと見えた。
「訓練中のようだな。アネスの声も練兵場から聞こえる」
「そうなの? 私には何も聞こえないけど……」
「俺は兎族だからな。人族よりはるかに耳がいいことぐらい、ラウラも知っているだろう」
「知ってる……それでもセアルの耳の良さは破格じゃない?」
ちょっと目が逸らされた。
「……そんなことはない。普通だ」
あまり詮索されたくないらしい。別に隠すようなことでもないとは思うが、本人が隠しておきたいならこちらもそのように対応しようではないか。
「そうだね、普通だね」
「ああ」
無駄話をしているうちに、街の中心部にある時告げの塔から鐘の音が鳴り響く。丁度、指定された時間だ。
練兵場の柵が見えてくる頃には、ラウラの耳にも訓練に励む警務隊員たちの息遣いが聞こえ始めていた。
フードを外し、肺いっぱいに空気を吸い込む。
「薬屋のラウラですーーーー! 薬の配達に、来ましたーーーー!」
ラウラに出せる最大音量で怒鳴ると、練兵場が一瞬静まり返って。
「ようこそラウラさん!」「こんにちは、いえこんばんは!」「隊舎でお茶でも!」「あっおいこら抜け駆け!」「こっちこっち! こっち見てください!」「実は怪我して。薬売ってください!」
「お前たち、いい加減にしろ!!」
大柄な警務隊員たちが壁となって眼前にそびえ立ち、ラウラがちょっと引き気味になっていたところで、他を圧倒する声量の怒鳴り声が響いた。
びくりと勝手に肩が跳ね、隣ではセアルが耳を塞いでいる。
「追加で十周走ってこい!!」
ええーとかひどいーとかぶうぶう文句を言いながらも、壁を形成していた警務隊員たちが走り出す。その向こうの方から、マントを翻して警務隊隊長であるアネス・ナイアートがやって来た。
「こんにちは、アネス」
目を見て、にっこりと微笑みかける。アネスがラウラの姿を認めた瞬間、白皙の面が面白いぐらいに真っ赤になった。勢いよく回れ右して、ラウラとセアルに背中を向けたまま話し出す。
「一週間ぶりか、ラウラ殿! 待っていたぞ!」
「ええ。さっきも言ったけれど、お薬の配達に来ました。中身の確認をしてくれる?」
「うむ」
なるべくラウラと目を合わせないようにしながら、アネスが練兵場の柵を軽やかに乗り越え、やっぱり回れ右して背中を向ける。
「そこにでも置いていただけないか?」
「ええ」
アネスのすぐ傍に薬を入れたバスケットを置きにいく。セアルは、呆れの色を瞳に宿していた。
「………大変失礼なお願いだということは重々承知しているのだが、離れていただいてもよろしいだろうか、ラウラ殿。具体的には五歩ほど」
「別にいいけど……」
歩数を数えながら後ろに下がると、丁度セアルと並ぶ位置だった。
「本当にすまない。が、助かった」
「アネス……情けないぞ………」
「……弁明のしようもない。慣れなければと思っているのだが、どうしても顔が熱くなって頭がくらくらし、何も話すことが出来なくなってしまうのだ」
アネス・ナイアート。セアルの従兄弟で、兎族領内でも五指に入るほどの強さを持ちアトーンド警務隊の隊長という大変名誉な職に就く彼は、重度の照れ屋(女性限定)であった。
「ラウラとは週に一回会っているだろう?」
「会っている。会っているとも……! それでも駄目なのだ……!」
「恋人でも作ってみたら?」
「恋っ………! 私の意識が断絶するか頭か顔の血管が切れる気しかしないのだが!」
「そうだろうな……」「やりかねないね……」
「二人とも同じ意見か……」
ふう、とアネスはラウラにも聞こえるほど大きなため息をついた。
「ラウラ殿、薬の種類、個数共に注文書通りだ。代金を取ってくるので、しばし待っていてくれ。………その、よかったら隊舎に来るか? セアルも。ここは寒いだろう」
「私は大丈夫。気にしないで」
「俺もいい。代金を用意するのに、そう時間もかからないだろう」
ここが寒いのはいつものことなので、きちんと暖かい服装にしている。指先なんかは冷えるだろうが、まあ問題ないだろう。
「……ラウラ」
「なあに、セアル」
セアルは少し周りを見回してから、少しだけ身を屈めて内緒話の姿勢に入った。
『ラウラ、治癒の魔法薬を注文したいんだが』
『今? 流石に注文書は持ってないよ?』
『正式な注文自体は後でいいんだ。でも出来るだけ早く受け取りたいから、準備だけでも進めておいてくれないか』
『……まさか、『影津波』の兆候が?』
『ああ……残念ながら。『影の森』の外に出る魔獣が増えていると、報告を受けた』
『それ、アネスは知ってるの?』
『ああ。一応な』
アグリア王国最北端に位置するアトーンドの冬は長く、実に半年にも及ぶ。その長い冬の終わり頃には魔獣が飢え、街を襲ってくることがあるのだ。一度ならず、二度三度と。
『今年はないと思っていたのに……』
『なかったらなかったで困るんだがな』
『それもそっか。……とりあえず、治癒の魔法薬は準備しておくね』
『恩に着る』
『頂くものはしっかり頂きますから』
『……流石ラウラ。しっかりしているな』
『当たり前でしょう、大事な収入源なんだから』
『拗ねないでくれ。褒めているんだから』
微笑みの感情揺蕩う真紅の瞳が、至近距離からラウラの瞳を覗き込んだ。
優しく笑ったその瞳が、次第にどこか乞うような光を帯びていく。
「ラウラ────」べしゃっ。
セアルの後頭部に、固く固く丸められた雪玉が命中した。セアルは後頭部を押さえて勢いよく振り向き、雪玉を投げた人物に向かって吠える。
「………アネス! 一体何をする!!」
「不埒者に雪鎚を食らわせてやっただけだが何か文句でも? そういうことは余所でやれラウラ殿をその対象にするな」
王子様のような秀麗な顔を思いっきり顰めて、そこそこ辛辣な言葉をぽんぽんとセアルに突き刺していく。たぶん、これが素のアネスなのだろう。
「二人とも、仲がいいね」
「「普通だ!」」
ここで「「よくない!」」と言わない辺り、本当にこの二人は仲良しである。
「とりあえずラウラ殿、今回の代金だ。確認してくれ」
ラウラは注文書に記した値段とバスケットの中の硬貨が一致しているのを確認して、大丈夫、という意味を込めて微笑んだ。……ところで己の失策に気付いた。
ラウラに出来るせめてものことは、指先まで真っ赤になって硬直したアネスを見ないように、またアネスから見えない位置に隠れることだけだった。
しばらくしてアネスが復活し、ごほんごほんとわざとらしい咳払いをしてから(やっぱり背を向けて)話し始める。
「ラウラ殿、今日はもう遅い。今から歩いて帰るのでは暗くなってしまうだろう。よければ送らせてくれないか」
「そうだね、お言葉に甘えようかな」
「では、少し待っていてくれ。毛長馬を連れてくる」
いつもは住まいにしている廃教会まで徒歩で行くのだが、今日は細々としたことにいつもより時間がかかったせいかいつもより少し遅い時間だ。だから、馬で送ってくれるつもりなのだろうけど。
「アネスが大丈夫なら、私はそれで構わないけど……」
「ワタシハゼンリョクデケナガウマヲカルコトニシュウチュウシテイルツモリダ」
「そ、そう……。あ、あと、厩舎ぐらいまでなら行くから」
「そうか。では、ついて来てくれ」
ちらっと一瞬だけこちらを見てからマントを翻して歩き出すアネスを、セアルと共に追いかける。なんだかんだとアネスは親切なのだ。女性と目を合わせることができないだけで。
厩舎では、艶やかな褐色の毛並を持つ馬たちが出迎えてくれた。かなり大きいが、毛の隙間から見える瞳は優しい。
「アネスの馬はどの子?」
「こいつだ」
一際大きく、一際好奇心旺盛そうな子だった。主にはあまり似なかったらしく、今も興味津々でラウラの匂いを嗅いでいる。
「よろしくね」
優しい瞳が、「無論」と言っているような気がした。
「セアル、お前もついて来るのか」
「ああ、そのつもりだが」
「そうか。ならば私はラウラ殿とこいつに乗って行くからお前は走れ」
「出来るか!」
いくら俊足の兎族とはいえ、毛長馬と並走するのではかなり疲れるだろう。鈍重そうな見た目によらず、とても足が速いから。
「冗談だ。乗れ………私の後ろにしてくれよ?」
セアルとアネスの身長はほとんど同じだから、当然の願いだった。
正門から出て、雪を蹴散らしながら走る。昼の間に降り積もった新雪が宙を舞い、星々の煌めきのように見えた。
「ラウラ殿、方角はこちらで合っているだろうか?」
「うん」
念のため、方位磁針で確認。勿論合っていた。
前方、雪で霞む視界の中にラウラの住まう廃教会が見えてくる。半ば崩れた塀の傍で降ろしてもらって、そのまま引き返していく二人を見送る。
マントの紺と毛長馬の褐色が見えなくなったところで、塀の中から顔を出した二頭のそり引き犬に付き添われて天井のない礼拝堂に向かった。
礼拝堂の床に散らばる色硝子を避けながら祭壇の裏に回り、そこにあった鉄扉を持ち上げ、荷物を階段に置いてから中に入って、音が立たないようにゆっくりと閉める。
階段の途中に置いてあった荷物と魔術式ランタンを取り、それを点けて地下通路を奥へと歩いて行く。突き当りにある扉の中が、ラウラの住まいだ。
荷物を置いて服を着替え、暖炉に赤の魔術を刻んだ魔結石を放り込んで火を点け、体と部屋を温めていると、不意に前に垂らした栗色の三つ編みが目に入った。
何かに惹かれるように手を伸ばし、髪を纏める髪紐を引き抜く。
はらりと背中に広がったのは、水晶をそのまま糸にしたような透明感のある白い髪。暖炉の火に照らされて、きらきらと虹色に乱反射した。
左目を覆う眼帯も外してしまうと、ラウラは吸い寄せられるように姿見の前に立つ。
宝石のような、透明感ある髪。片目だけ黄金色の
人族にも、獣人族にも生まれることはないこの色彩。
「これは夢。目が覚めれば消えてしまう、儚い幸せ」
鏡に向かって手を伸ばすと、
「『だって私は─────魔女なんだから』」
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