コーヒーボーイと僕
久々原仁介
第1話 コスタリカ・イエローハニーと僕
カフェラテが好きだった。
読書の片手間に飲むカフェラテが僕にとって至福のひとときだった。珈琲も好きだが、それ以上にあの琥珀色の佇まいを愛していた。
ミルクの滑らかな甘みと、抽出されたエスプレッソの苦みが、人生という途方もなく曖昧な概念を体現していた。
だから僕はカフェラテを深く信じていた。どんなときもカフェラテを飲めば、暗く閉ざされた道のりに、光が灯るようだった。
だから僕がカフェラテを飲みたいとふと思うとき、それは何かしらの壁に直面しているときでもあった。
うまくいかないな、と思うと同時にあの美しい飲み物が頭に浮かぶ。今日も僕は市役所に持っていくはずの保険手続き書類を忘れてしまった。それを市役所に着いてから気づいてしまい、しばし門前で立ち尽くしていた。僕ってやつは、まったくそういうやつなのだ。いつも大切なものを忘れがちだ。
行きつけのカフェテリアがある。
僕にとってカフェラテとは、自動販売機で売ってる缶ではなく、ましてやコンビニでボタンを押して出てくるコーヒーの牛乳割りのことでもなかった。僕にとってカフェラテとは、家の前を流れる川を渡ったところにある『COFFEE BOY』というカフェテリアでしか飲めない貴重なものだった。
閑静な住宅街の真ん中を横切る形で流れる楠木川は、生活排水の影響か水草が生い茂っている。お世辞にも清流とはいえないが、短い橋の上から覗くといつも数羽の水鳥が頭を揺らして鳴いていた。橋を渡ると、いつものようにケーキボックスのようなカフェテリアが僕を待っている。
「待っている」というのもおかしいなと思う。なぜなら僕はそのお店を待たせるような特別な人間ではない。ただの客にすぎない。
けれどこのカフェテリアに訪れる度に、入口ドアは開けっ放しになっていて、まるでずっと僕を待っていてくれたかのような気分になる。それがたまらなく心地よい。
ただいま、コーヒーボーイ。心の中で呟くと、返事は洋菓子と豆の燻した香りとなって帰ってきます。
ゴールデンウイーク前の平日だというのに、店舗には若い女性を中心に賑わっています。
僕はそそくさと注文を済ますと、逃げるように窓際から一番遠い席に座る。西側の白い壁面と向かい合うスタンド席がなんとなくの定位置だ。日当たりの良い席はSNSに投稿する女性たちの戦場だった。僕のような日陰者は立ち入ることも憚らる。
「こんにちは」
PCに電源を入れ、ネタ帳を右手側にセットすると、見計らったかのように注文した【本日のアイス・カフェラテ】が届いた。
運んで頂いた女性スタッフとは顔馴染みだった。顔馴染みの従業員の方は三人ほどいて今日声をかけてくれたのは一番小柄な女性スタッフだ。
「今日も小説ですか?」
「ええ。相も変わらず執筆です」
「すごいなぁ」
「いつかすごいと言われるほどの小説を書いてみたいものですね」
目の前に置かれた【本日のアイス・カフェラテ】にラベルの着いた紙のソーサーを敷くと、お姉さんは仕事に戻ってしまう。引き留めてしまっただろうか、申し訳ない。
容器の中に入っているカフェラテはエスプレッソとミルクが二層に分かれたままになっている。これではまだ未完成だ。
差されたプラスチックストローで混ぜることで、螺旋状にエスプレッソが全体に広がり、香ばしい匂いが際立つ。
この清濁併せ吞んだ色合いがたまらなく好きだった。この世のものではないような時間が胸に広がる。その余韻を楽しみながら、カップを持ち上げると円状の紙に豆の名前が書いてあった。
『コスタリカ・イエローハニー』
『瑞々しいコーヒー果実の甘みをそのままに』
僕はコーヒーを人物として捉えるのが好きだ。
第一印象は少女のような名前だと思った。
改めてコスタリカ・イエローハニーの香りを楽しむと、ミルクと混ざった彼女はより一層甘みを帯びている。
コスタリカというのだから、おそらくはコスタリカが彼女の故郷なんだろう。日本から出たことのない僕は、恐る恐るストローに口を近づけた。しかし抱いていた不安は、口の中に広がる甘さで搔き消される。
弾けるような甘さだ。
甘い。ともすれば、チョコレートのような甘さよりも、果実味のある甘さだった。一口目から驚かされる。何より驚いたのは後味の良さだった。忘れられない残り方をしていた。舌先は水でも飲んだ後かのようにすっきりしているのにも関わらず、喉に近い部分で香りが滞留している。
たった一口で、ぼやけていたコスタリカ・イエローハニーという人物像がはっきりと僕のなかで形成されていく。僕はすっかりコスタリカ・イエローハニーに魅了されていた。
これは、いいな。いいカフェラテだ。二口目がすぐにでも飲みたいが、わざとじらすようにしてストローを迎える。
口ではない。鼻の奥までカフェインが届くような感動に包まれた。
まるでひと夏の思い出に出てくる少女そのものだ。髪が短く、日焼けした小麦色の肌のまま、河原を駆けながら黄色いスカートを揺らす。
お転婆娘な彼女が、このプラスチック容器のなかで踊っているのかもしれない。
僕はストロー越しにコスタリカ・イエローハニーと過ごしたありもしない青春に思いを馳せながら、しばらくパソコンを閉じて読書に深け込んだ。片手間に飲んでしまうにはもったいないとさえ思えた。
一時間も経てばコスタリカ・イエローハニーは溶け出した氷によって甘みが抑えられていく。それはまったく別の美しいコーヒーへと変貌していくかのように、お転婆娘はひとりの美しい女性へと成長を遂げる。
「見違えたね。最初は君だとわからなかった」と言って、久しぶりに会った彼女と思い出話に花を咲かせるが「昔はそんなこともありましたね」なんてやり取りに寂しさを覚える。果たして僕はコスタリカ・イエローハニーにとって、どういう存在なのだろうと考える。しばらく会っていなかったくせに、親戚同士などの集まりで再会した彼女をみて焦りのような感情も芽生えたりするのだろうか。
甘さと切なさは紙一重だった。どうにか紛らわそうと思って口をつけると容器はいつの間にか空になっていた。コスタリカ・イエローハニーとの出会いは、僕に覆すことのできない寂寥感と成長という言葉の意味を教えてくれた。成長した明日の僕はきっと、書類を忘れることなく市役所へいくことができるだろう。
僕はその出会いに感謝しつつ、閉店時間を静かに待った。
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