9.悲しみの全てが涙ならば
ある昼下がり、私はいつものようにホールの窓辺でひとり本を読んでいた。
暫くして、ある女性患者さんが看護師さん、ワーカーさんに連れられて近くのテーブルに座った。
その患者さんは最近やってきた方で、もちろん私は彼女がどのような病気や事情を抱えているのかは知らない。恐らく入院して数日経ち今後の治療方針や退院後のサポートなんかを説明しているのだろう。
視界の隅に彼女たちをとらえながら、私はそんな風に気に留めず読書を続けていた。
彼女の様子がおかしくなったのは、3人が話し始めてすぐのことだった。
急にケラケラと彼女が笑う声が耳に入ってきた。それまで楽しげな雰囲気は感じられなかったので驚いて反射的に目を向けると、職員たちはいたって真剣な表情でいたから異様な光景だった。
彼女は楽しくて笑っているというより、職員たちを嘲るように腹を抱えて笑っていた。
「ウフフフフフ……アハハハ! もうおかしくてしょうがない! フフ…… 笑えてきちゃいますよ! 笑えるでしょう……ウフフ……なんで笑ってないのよ、ねえ……ねえ!!!!」
「私はこんなに苦しんでるのに、こんなところに閉じ込められて……ウフフフ……なんであんたたちは化粧したり髪伸ばしたり……そんな髪飾りなんか付けてさあ!!!! ねえ!! 見せつけてるの!?」
彼女の尊厳のために伏せるが、彼女自身がこれまで経験したらしい苦痛を喚き散らして目の前の職員を罵倒していた。
でも私が昨日、彼女本人から聞いた話とは食い違うことがかなり多い。
——そうか、彼女はそういうタイプの症状だったか。
私も頭の中では「立ち去ろう、早く逃げなきゃ、早く立ち上がって何も聞こえていなかったように病室に戻らなきゃ」と思っていたが、気づいた時にはもう脚が動かなくなっていた。
この時点でもう、働いていた当時に上司や部長に怒られた時のことがチラついていた。
まさしくフラッシュバックだ。
フラッシュバックというと、”その時に戻ったかのような感覚” とよく言われるが、私の場合、過去の映像そのものが目の前に繰り広げられる、ということはない。
耳の奥で元上司、部長、社長に言われたことがボイスレコーダーのように鳴り、自分の感情が当時に引き戻される。
いま目に見えているのは怒っている上司の顔……ではなく、病棟のホールの時計。またあの時のように怒られているわけではないのは分かっているが、感覚だけが当時にいる。
職員たちは彼女を
依然、怒りながら笑い続けている。
「ウフフフフ……もうどうしようもないよ、こんなところまで来てさ……みんな私のことヤバイやつだと思ってんでしょ! みんな死ねばいいよ! 自殺して死んじまえよ!!!」
少しでも動いたり視線を逸らしたりすれば彼女をもっとヒートアップさせるかもしれない、それが怖くてホールの時計から視線を外せないまま動けなかった。
暫くして彼女も病室に戻って行ったが、私は動けないまま耳を塞いで号泣していた。
頭の中で、あの頃の音が録音されていたかのように再生され、自分の感情も蘇る。
「雨季が自ら提案してくれた企画なんです」
(違う……「企画、やる気がないなら出さなくていいけど」って言うから慌てて出しただけなのに……)
「そうなの! すごいじゃない! ずっとこういうのがやりたいって言ってたものね!」
(私がやりたいのはこんな付け焼き刃みたいなやっつけの企画じゃない……)
「私がぜんぶ教えちゃうと雨季の企画じゃなくなるでしょ。雨季の企画なんだから」
(私、企画なんて進めたことないのに……本当に私のやりたい企画なんかじゃないのに……)
「あの、今度初めて私が主導の企画を進めることになって……、先輩、アドバイスとかいただけませんか?」
「企画通ったんだ! すごいね雨季さん、まだ2年目なのに! アドバイスって言ってもねえ……、僕も自分主導の企画なんてやったことないし。雨季さんならきっとできるよ。何か僕にできることがあれば何でも言って!」
(またこれだ。「雨季さんならできるよ」ばっかり……)
「どうしてこうなる前にもっと早く私に聞かなかったの? 周りを頼れば何とかなるんだから、1人で抱えようとしないで、ほら……」
(あなたが「私に何でも聞くな」って言ったから自分なりに進めてたのに……周りだって頼ろうとしてみたけどみんな「すごいすごい僕/私になんか」って腫れ物みたいに見られるだけだった)
「こんなんで大丈夫なの!? 初めての企画でこんな悲惨なようじゃ、私だったらもう一生企画なんて上げられなくなっちゃうわよ! 社長も「絶対に成功体験にしろ」って言ってるんだから……」
(失敗から学んで成長するなんて戯言だったんだ……もう一生企画上げられなくなるほど悲惨なんだ私……成功体験にしろって、私にどうしろっての)
「これだけやってこうってことは、そういう内容だったってことね。今回はもう失敗として、それでどこまでやれるかじゃない?」
(本番、明後日なんだけど……私は失敗に向かってあと2日過ごすわけ? ああ、そうか、ずっと失敗に向かってたのか)
「私も初めて企画書出したのなんて何十年も前だからさ、その当時の感覚なんて覚えてないのよ。何がわからないか言ってくれないとこっちも教えられないの」
(何が分かってないのかが分からないんだけどな……目線を下げようっていう気持ちはないわけね。だめだ、ここで泣いたら負けを認めたことになる。耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ)
「みんな死ねばいいよ! 自殺して死んじまえよ!!!」
(私だって死にたいよ、もう耐えるのにも疲れたんだから。でも死ねなかったんだよ。それでこんなところにまで来て生きてるの自分でもおかしいと思ってるよ。毎朝目が覚めて「ああまた今日も生きてるのか」って天井を眺めて起きるのに)
どこでそうしようと思ったのかは覚えていないが、泣きながらナースステーションの扉をノックしていた。
出てきた看護師に頓服を頼み事情を説明すると、
「気付けなくてすみません……」
と、謝ってくれたのが少し嬉しかった。
頓服を飲んで病室に戻っても、会社で辛かった当時の感情が次々降ってくる。
私はまだあの夏から時間が止まっている。
「助けて」「本当はやりたくない」「苦しい」と言えずにこんなところまで来てしまって、ここでもまだ言えずに固まっていた。
こんな最果てまで来ても嫌な記憶から逃げられないんだ。
ずっと逃げたくてこんな風になったのに。
逃げるにはやっぱりもう……
——死ぬしかない?
それから数日間泣いて過ごした。
家族が見かねてやって来た面会でも、
「私はやりたくなかったのに! あんなカスみたいな企画のせいで辞めたくなかったのに!」
と15分間泣きじゃくっていた。
あの時会社で耐えた分の涙も、身体中の水分も、流しても流しても止まらなかった。
だが、自殺未遂や自傷行為に手を出すことはなかった。
ある曲に出会って引き留めてくれた。
フリージアンの『
私はこの曲にかなり救われた。
今でも聴いて、会社で辛かった頃や病棟で泣き続けていた日々を思い出す。
思い出して、拳を強く握り締め脚にしっかり力を入れる。
家族や周りの人は、私が苦しんでいる様を見かねて
「すぐに忘れられるよ」
と言ってくれたが、私は忘れたくない。
夢を叶えて憧れの業界で働いていたことは誇りであり、すべて忘れてしまうのはその誇りまで否定してしまうような気がする。だから、すべて忘れてしまいたくはない。
悲しみだけが涙みたいに流れていって、消えてくれたらいいのに。
いつかは大好きなあの業界に戻りたい。
例えまた苦しむことになろうとも、今度こそ身体が使いものにならなくなっても。
あの業界にこの身を捧げる人生にしたい。
それは今ではないのだろうけれど、一度やめようと思った人生だ。私の人生はあの日で一度終わっている。2回目くらい、好きに生きよう。
『今度こそ君だけは……幸せにしてみせるよ』
なーんて言ってくれる彼はあいにく現実には居ないので、自分で幸せになるしかない。
今度こそ、幸せになってみせる。
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