第106話 外伝「月の花」7

 無言でいると、彼はわたしの正面にゆっくりと歩み寄った。初めて見かけたときには慣れない長衣をもてあましていたが、今は荘厳にさえ見えた。

 彼はわたしの前でしずかに片膝をつき、さしだされた指輪をいったん自分の手に取り、それからわたしの手を恭しく捧げもって、わたしの中指にそれを嵌めた。

「どうぞ、そのままお納めください。私の無骨な指にそれはあいません」

 彼の手は温かく、背はわたしと変わらないのにその手は大きかった。わたしは自分の前で跪く少年の顔を見た。

 いや、それはもう、少年と呼ぶには柔らかさを失った男の顔だった。

「私はすでに充分すぎるほど、貴方様からご厚情を賜りました。貴方様にはただならぬ恩義を感じております。ですから、その指輪は受け取れません。

 そしてまた、夏至の日の近侍の件、ご推挙いただきましても私はお受けできません」

「このわたしが推挙すると申しているのに」

「されど私はいずれこの都を離れることは決まっておりますゆえ、どうぞその役目は貴方様のおこころに適う方をお選びください」

「なぜだ」

「貴方様からいただいたお言葉ゆえでございます。私は、貴方様によって自分の本当の想いを知らされました。もう自分には嘘はつけないのです」

 拒絶されたのがこちらであることに気がついて、わたしの胸は一気に冷えた。

 わたしの寵を、優遇を、そして命令までも彼はこの上ない礼儀正しさで撥ねつけたのだ。

 自分の指先が無様に震えるのを見た。

 彼はそれを握り締め、わたしの瞳をのぞきこむようにして続けた。

「私が帝都におりますのはおそらくあと一年のことと思います。私は毎月、朔日の夜には《死の女神》の神殿へ詣でます。貴方様がいらしてくだされば、それに勝る喜びはありません」

 わたしはその手を振り解いた。

「……さがれ」

 彼はわたしの顔を見つめ、彼から目をそらすのを見て、胸を痛めるような表情で膝をおこした。

 長衣の揺らめきを耳に残し、わたしはぎゅっと目を閉じた。

 思い出すにつけ、彼はわたしの友人のような顔をしながらも、わたしが皇子であることをひとときたりとも忘れたことなどなかったはずだ。さらには、彼はわたしを無位の人間であるなどと貶めたこともないだろう。

 けれどそれは、わたしの鬱屈を理解していないということと同じではない。

 彼は、わたしが相手に望むとおりのことを今までしてくれていたのだ。

 わたしは友人に持ちたかった。誰もが誇りに思う、その名を聞いて嘆息するような栄えある友だ。

 わたしはすでに学士院に通わずともいいだけの学識がある。それなのに陛下がわたしに帝都学士院に通えと命じたのはそれゆえだった。

 あの場所では、身分は一切関係ない。学識と頭脳だけがものをいう。

 現実は貴族の子弟に占められていたとしても、今の大神官のように商人の息子であろうと、優秀でさえあれば高位の身分の相手とも堂々と渡り合えるのだった。

 皇帝陛下という立場の腹違いの兄は、わたしの母よりも身分の低い女の子供だった。

 彼を皇帝に押し上げたのは、幼いころからの友人たちだ。近習や近衛兵、はたまた当時はただの神官であった大神官や、書記官であった今の宮宰長たちの力があって、彼は皇帝の位にのぼった。

 たとえようもない虚脱感をおぼえ、わたしは椅子に腰掛けたまま頭をかかえ、用意された推薦状を見おろした。


 わたしはルネを推挙した。

 彼が本当に、皇帝陛下の命令にまで背けるのかどうか、確かめたかったのだ。

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