第98話 妻
とはいえオレの苦しみは自業自得という名の因果応報であり、ことさらに嘆いてみせるのはオレがそれだけ弱い人間だという証に他ならない。または「語り手」としての本能で、自身の恥部を晒してみせているだけにすぎない。廉恥心なぞというものはオレにはない。ましてオレは大貴族として育てられた人間でもなかった。いっときは捨て子としてエリゼ派の修道院で養われた。そういうオレには貴族としての矜持も政治家としての知恵も徳も何もなかった。
ところが、だ。
賢人宰相と呼ばれたあの男には、何もかもがあった。富も権力も、何もかも。
そしてまた、その妹、かつて王弟に嫁いだ美しく才長けたエリーズ姫にも欠けるものはなにもなかった。
だがオレは、知らなかった。
ほんとうに知らなかったのだ。
あのふたりが兄と妹でなく、真実恋人同士であったと。
それだけでなく、あのふたりの秘密の恋がエリーズ姫の夫、つまり王家の人間を死に至らしめたことも。
『歓びの野は死の色す』を上梓し意気揚々とモーリア王国に詣でたオレを、彼らはどんな気持ちで迎えたのか、オレにはわからない。記述はなかった。はじめからオレに託すつもりで破棄したわけでもあるまい。恐らくは、おそらくは、と断るが、彼はそれを記すことすらできなかったのではないか。
ヴジョー伯爵家の近親相姦の物語を、彼らふたりがどんな気持ちで読んだのか、オレは想像することがむずかしい。
彼ら二人は、王弟殿下を殺すつもりはなかった。
いや、もっと正確に記すべきだろう。
彼らは自身の身を守っただけにすぎない。
何故なら、王弟殿下の愛人がエリーズ姫殺害を企てていたから。
その不届きな愛人の命を絶つはずだった銃は、王弟殿下を襲った。
彼らの国王は、じぶんの叔父の死を不審におもっていたようだ。後ろ盾のない少年王は賢人宰相と呼ばれる男を頼りながらもどうしようもなく嫉妬していた。
だから、その男の「嫉妬」を許しはしなかった。
讒言により投獄されたあの男は釈明を一切しなかった。
彼が国庫に手を付けたことはない。つけるはずもなかった。彼は彼で、モーリア王国の財政難をもっとも憂いていたのだから。
だが、
じぶんが国王に恨まれていることを知っていた。
赦しを乞えば、ゆるされることもまた。
国王の欲しがっていたのは復讐の残酷さではなく、おのれを神のような寛容で彩る甘えであったから。
あの男は、だが、そういう人間に「やさしさ」を振りまいて愧じないでいられるほど惰弱ではなかった。
別の言葉でいえば、たんに王弟殺しの責任をとったのだ。
だが、
オレは問いたい。
オレはどうしても問いたいのだ。
エリーズ姫は、どうするのだと。
じぶんが死ねば、彼女が生きていないと思わなかったのか。
あの賢く美しいひとが生きてはいられないと想像してなお、自ら命を絶ったのだというのなら、オレはあなたを絶対に許さない。何があろうとも、許せない。どうやっても許せないのだ。
オレは間に合わなかった。
エリーズ姫の死に。
オレは古い人間だ。
騎士ならば、たとえ生き恥を晒そうとも、愛する女(ひと)を守るべきだ。
そう思いながら生きていて、とうのオレが彼女たちに守られていたと知る愚かな男だ。
だが、だからこそ言わねばならない。
獄中であれ、あのひとの愛があなたを見捨てることはなかったはずだ。国王はエリーズ姫をも渦中に引きこむ意図はなかった。あなたが頭をさげれば、それですんだのではなかったか。
まして、その後のモーリア王国の暴挙も食い止められたのではないか。
あなたが生きてさえいれば。
あの若い国王の侵略、それ自体はモーリア王国の繁栄の証とみる歴史家もいる。だがオレは、運よく征服を逃れた国の主としていうが、、それはあの国の過誤ではなかったか。守るべき国土とはなんなのか。オレの素朴はたぶん、エリス姫に哂われることだろう。
さらには、妻を孤独のなかに置き去りにしたオレがいう台詞ではないとわかっている。だが、オレは妻を安全な場所においたつもりでいたのだ。連れてなどいけるはずもない。そう考えていた。
安心していた。いや、安心しきっていた。
あの場所で、あの賢明なひとを脅かすもののないことを。
ところが妻は、はじめからオレの腹心である男に口を封じられていた。
オレはただの国主ではない。
あろうことか死の女神の祭司なのだ。
なのに、それなのに、もっともじぶんのそば近くいた女性を虐げ、孤独のうちに死なせた。
それだけでなく、アウレリア姫をもきっと苦しめた。
あなただけを愛すると誓い、離れてもこころはあなたにと言い置いて去りながら、けっきょくのところ妻を愛した。しかも妻が死ぬとわかってから、それと気づいたのだ。
この世にこれほど愚かな男がいるだろうか。
何故オレがこの国始まって以来の男性葬祭長になどおさまったのか、オレはそれが知りたい。
訂正しよう。
オレは、オレのことがわからない。
もしもそんなものがあるのだとすればだが、オレの運命、その役目、そうしたものがまったくもってわからない。語り手であるのに。否、語り手だからこそ、か。
オレはなにも知らない。知ることが何もない。
それでも、
それでも、だ。
イズレニセヨ、《夜》ハ来ル――
今度こそ、こんどこそは、決着をつけるのだ。
この《夜》に。
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