第91話 「夢の虜囚」

 エリス姫の呪い――それは、『騎士』に手を触れるものへの警告にとどまらず、この世界への呪詛がこめられている。


 騎士に手を触れるものあらば、太陽もろとも地は崩れ去り

 青きひなげしをみだりに摘むものあらば、そのもっとも愛するものを奪う


 エリゼ公国に山がないのは知ってのとおり、この国には火山帯がない。地震とは無縁の土地柄だ。いっぽうで、夜が明けないという恐怖は古代から語られてきた。日の神が殺される伝説――つまり、「日蝕」である。

 月の神が兄の日の神エリオを陥れる神話は古来数多く伝えられている。この神話に由来して、月神の信徒には暗殺を生業とする秘密の一派が存在するといわれてきた。古くは賢帝時代の書物にその記述があり、またエリス姫の時代にはその存在が真実のものとして明るみに出た。

 トマ・クレマン――史上もっとも名高い月神の暗殺者である。

 ポンティニー子爵家に生まれたトマは、母方の姓クレメンティー(クレマン)を名乗っていた。彼が、いつ、どのような経緯で月の神の信徒になり、その特異な修行をつんだのかは未知のままだ。月神の神殿は彼をそうとは認めなかったし、またいちどは神殿騎士の黒衣を着せた女神の教団も、その素性について多くは語らなかった。

 さればこそ、オレは彼を【召喚】したのだが、応じてくれたことは一度もない。その口を割ろうとするこちらの下心が見透かされているのだから当たり前であろうが、死人に口なしとはよく言ったものだ。

 オレはかつて、この『歓びの野は死の色す』の語り手であった。いや、正確にいえば、その文章を綴ったのがオレであったというだけのことかもしれない。

 テクスト(文章)は、いちど発表されてしまえば後はもう作者の手を離れてしまう。留めおきたいのなら、誰にも見せぬことだ。それ以外、物語が生き延びようとする力を封じることなどできやしない。つまり、いったん発表されてしまえば、どう消費蕩尽されようが文句を言えた義理じゃない。

 著作権? オレの生きてたのはあなたの生まれる何年前のはなしかな? ああもちろん、生きてる間はそれなりに儲けさせてもらったよ。これが何のかんのといちばんに筆写され、また印刷された。だが、まあそれはオレの力じゃなくて、《夜》という主題の面白さだろうよ。

 オレはもの書きらしく自惚れも強いが、それなりに世間で認められた程度にはものが見える。このオレの、そのほかの仕事で歴史に残るに値するものは、俗謡と民話の類を蒐集した『野の花集』に他ならない。むろん、ちいとばかしひとの口にのぼった詩歌もなくはない。だがそれは、オレのいた時代を代表する詩というだけで、百年単位でみれば他にも優秀な詩人がごろごろいたからな。オレは、ひと時代を築くほど偉大な才能の持ち主ではなかったよ。その証拠に、オレの詩だけで一巻をあてられた全集本はさほどない。あと百年もたてば、もっと減るだろう。そんなものさ。

 ああ、そういえば、オレの仕事で評価されているのはまだあった。

 『随想集』だ。

 例の、賢人宰相殿の備忘録をまとめたものさ。

 ったく、あの男、死んでまでオレを働かすかと頭が煮えたが、オレは、あれを読んで変わったよ。

 オレがいかに、自分のためにしか生きていない子供なのか思い知らされた。施政者としての見識、また貴族としての矜持、ありとあらゆる生き方の見本がそこにあった。オレの後半生が、ひとさまからの謗りを免れるものになり得たのは、あの男のおかげでもある。

 そんなわけで、エリス姫の呪いから、はなしが逸れたのは他でもない。

 オレの目の前に、【召喚】してもいない男が立ちはだかっているという不具合によるものだ。

「アレクサンドル様、不具合とはつれないことを仰いますね」

「アンリ・ド・ヴジョー伯爵、オレの語りを邪魔するとはいい度胸じゃないか」

 十五歳という年齢のオレより頭ひとつ高い長身で行く手をはばむのだから始末におえない。この男、オレの執政時に片腕であったと書物は語るが、どうしてどうして、事実はオレの邪魔ばかりしてくれたのだ。

 黒衣の騎士は長い腕をこちらに伸ばし、やすやすとこちらの頤をとらえた。オレがその手を強く叩いてふりはらうと――厄介なことに「実存」ではこいつの力には敵わないとこれで証明されてしまった――相手は薄い唇を半月にしてみせてわざとらしく手をひっこめた。

「私がいなければ幾度死にそうな目に遭ったかわからないくせに、そう言いますか?」

「オレは疾うに死んでるよ。って、おい、待て。こちらの思考は筒抜けなのか?」

「私には、貴方様の声がとてもよく聞こえます。生きておいでの葬祭長閣下よりもね」

 ちっ。

 他にもオレが【召喚】されているがための不具合なのか、それとも【維持機構】のぶれなのか、よくわからん。ともかくも。

「伯爵、そこを退け。彼らのはなしが遠くなる!」

「わからない御方ですねえ。私がここに【召喚】されているのは、貴方様に聞かれたくないと誰かが思っているからじゃありませんか」

 翡翠色の両目で斜めから見おろされて鶏冠にきたが、この男の謂いは検討に値する意見ではあった。オルフェ七世か、はたまた空木殿下か、【維持機構】そのものか、そのどれにも一様に理由があるように思うが、これでははなしが進まない。

「しかしっ」

 反駁を、相手の唇が強引に奪っていく。

 いったい誰が、このオレ様の口を塞いでいいと申し付けた!?

 両目をしかと開けて睨みつけるが、相手は恍惚として目を閉じている。ったく、聞けっつってんだろうが!

 胸を押し返すと、両手首をひとつ手に重ねて持たれてしまう。ええい、この馬鹿力がっ。生前のオレもこいつに羽交い絞めにされて危うく難を逃れたものだが、こうも簡単に押し潰されるとむかつくぞ。それにしても、オレときたら、なんで十五歳の姿なのかよくわからんよ。こいつとこういう関係になったのはもっとずっと後のはなしなんだがな。いや、そういうことじゃなくて。

 アンリ、お前、オレが抵抗できないと知って遠慮がないぞ。好き勝手に触るな! そこは……っ、おい、よせって、やめ……っ! 握るな、そこはっ!!

 おのれ、このオレ様の声をどこまでも無視するか。

 そうか、そういうつもりなら、こちらにもやりようがある。

 退却だ。

 【維持機構】を一跨ぎしようとすると、気配を察したアンリがこちらの頬を大きな手で鷲掴みにした。合わさった視線の熱に、オレのほうがのぼせた。お前、どうしてそういう目でオレを見る? こういうときだけ、卑怯だぞ。オレは口が達者だが、お前に黙られてそうやって何もかもを汲み尽そうとするように息を凝らして見つめられると弱る。 

 仕方がない。

 オレは黙って相手の顔を見あげ、そのことばを聴き遂げた。

「これ以上は、踏み込みすぎです」

「……分かっている」

「御自分を【召還】なさるのはもうおやめください。貴方様には咎はない。誰も、貴方を責めたりはしません。ですからもう、御自分を許してさしあげてください」

 【維持機構】が硬直し、つづいて屈曲した視界に膝からしたが溶けた。オレは、伯爵の端正な相貌を眼の裏にとどめおくことさえできず、手繰り寄せた糸目を指にからげようと必死で両腕を伸ばしたが、何も、触れなかった。

 なにも。

 知っている。

 オレは、それを知っている。

 否、オレだけがそれを知っている。

 オレは、罪人なのだ。

 ひとの秘密を暴き、それを曝した罪に慄いている。


 眼を開けると、そこは、見慣れた自分の執務室であった。

 オレは、椅子に座ったまま気を失っていたらしい。鵞ペンの先で、失態を恥じるように身を縮めた文字は、そのまま見たこともない単語に変じ、意味どころか音をさえ成していない。

 吐息とともに天井を仰ぐ。花綱模様に飾られたそこを、幾人の女たちが眺めたことであろう。そう、この場所は本来、男には許されぬ居室であった。

 そしてまた、夢のなかと違いオレは十五歳の少年でなく二十五歳の青年であり、エリゼ公国初の男の葬祭長としてこの大陸に知らぬもののない人間で、また、たったひとりの肉親である兄を失ったがゆえに事実上、この国の主になったばかりである。

 兄オルフェの死は、このオレを暗殺しようとする企てが明るみに出たせいだ。毒を煽っての自死だが、その事実を知るのは今となってはこの世でオレと伯爵だけだ。

「病死」と偽りの死亡記録を神殿に残された兄はオレの椅子の斜め後ろに立ち、生前とおなじ柔らかな笑みを浮かべて口にした。

「ねえアレクサンドル、自死した人間は女神に名前を覚えてもらえないものと思っていたけど、違ったよ」

 兄はオレの手から鵞ペンをとりあげ綴りを書いた。オレとは違う、手本にしたいような美しい筆跡で「アレクサンドル」と……

 たぶん、オレは狂っているに違いない。夢の虜囚と成り果てて。


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