第79話 オルフェ七世と橘卿

「アンリエット! アンリエット、いないのか?」

 オルフェ七世が青銅製の隠し扉を押し開けて目にしたのは、名前をよんだ当人ではなく、華奢な少年の姿だった。少年が闖入者に声をあげなかったのは驚愕のせいに違いなく、片手で覆えるほどの小さな顔は紙のように白くなっていた。

「し、失礼! まさか他にひとがいると思わなかったもので……」

 謝罪を口にしながら、当然のことオルフェは気がついた。もしや、いま彼が目の前にしている人物は、あの神秘の王国「鳥首国」から派遣された弱冠十三歳の「大使」ではないのかと。そして、少年のほうも同じく察した。自分の前にあらわれた人間こそ、次期葬祭長「オルフェ七世」であると。

 公の人間であるとみなされる人物同士、非公式の会見であればあるほど相応の政治的配慮が必要とされる。ましてや、こうした不慮の事故の場合はなおさらだ。

 さて、オルフェ七世としては秘密の隠し扉の件さえ伏せておくことができれば、そ知らぬ顔で退散すべき状況ではあったのだ。しかしながら、彼は堂々とそこから出てきてしまった。あまつさえ、この執務室の主の名前を敬称もなく呼びながら。

 間抜けである。

 まったくもって間が抜けている。

 しかも、彼は古神殿にて精進潔斎の身の上であることは、この国の誰もが知っていることなのだ。この秘密の抜け道が「古神殿」に通じていると、それまでも異国人に悟られてしまったのだ。

 アレクサンドル・デリーゼの記した書物『歓びの野は死の色す』でこの国に地下道があることは広く知られている。そこには、古神殿と通じる道は「君主の執務室」にあると書かれていた。しかしながら現実は、北向きのこの「宰相の次の間」にあるのであった。

 そして、聡い少年は、黙りこくった青年の顔を仰ぎ見て、その胸中をかけめぐる想いを正確に見抜いたようだ。

「お初に御目文字いたします。鳥首国から参りました」

 みずから身分を明かしたのは、彼にとって初めての行為であったに違いない。オルフェは少年の古風で美しい発音に導かれるように古式にのっとって名乗りをあげ、彼ら一行の訪問を喜んでいると正式の会見であるように伝えた。つづいてどう言葉をつごうと頭を悩ました彼に、少年が告げた。

「ヴジョー伯爵令嬢アンリエット様でしたら、もうしばらくでお戻りになられます」

 オルフェは丁寧に礼を述べながら、この失策と非礼が彼女に知られた日には、どんな罵詈雑言を浴びせかけられるかわかったものではないと考えていた。とすれば、このいかにも怜悧な少年に沈黙を強いるほうが賢明だ。しかしながら彼には、タイクーンの名代としてはるばるやってきた大使に頼みごとをするために必要な修辞技法のひとつも備わっていなかった。

 結果、不用意な沈黙がそこに落ち、彼らは視線を向かい合わせた。

 雨音さえも消し去るような静謐は、互いのひとみにうつる自身の姿に、なにか当たり前すぎるほどの懐かしさを感じたことでいやました。

 オルフェにとってそれは、まっすぐな黒髪に黒い瞳への既視感であり、また平面な鏡のうちに見慣れていたはずのものをあらためて立体として直視する新鮮な感覚でもあった。彼は相手の黒々とした双眸、そのつりあがり気味の、切れ込んだ眦の縁が赤く見えるほどに青白い眼球とひとみの深さに引きずりこまれるようにそれを覗きこみ、つづいて頬骨の高さに目をとめ、うすい頬、こづくりな鼻と朱色の唇、赤子のように小さな頤、その顔をとりかこむ艶やかな黒髪をじゅんぐりと眺め、いまいちど、窪まない眼窩とそのうえにのった柳の葉のような眉を見て、そのしたの両目がすこしも動かずにいたことに気づき、おのれの視線の非礼さに赤面してうつむいた。

 彼は、自分の無作法が目の前の高貴な少年を不愉快にしなかったかを気に病みながら、てきとうな謝罪のことばを思いつけずにいた。いまだかつて、彼はこんなふうに誰かを見つめたことはなかったし、またそれが「異国」の「少年」であるのが気まずかった。  

『どうしてこんなことになったのか、残らず話してもらおうか』

 そうして俯いていた彼の胸に、ふと、ほとんど聞こえないくらいのちいさな可愛らしい問いかけが触れ、思わず顔をあげた。そこには彼と同じく頬を染めてうなだれた少年が立っていた。

「あ……も、申し訳、ありま、せん……」

「いえ、その」

「あの、忘れてください。いまの、その……」

「アレクサンドラ姫のせりふ、ですよね?」

 オルフェの問いに、少年は恥ずかしがりながらも首肯した。

「タチバナ卿におかれましては、わが先祖アレクサンドル・デリーゼの『歓びの野は死の色す』を読んでくださっているのですか?」

「ええ。拝読いたしました。その他の著作も、手に入りましたものはすべて読んでおります」

 今回の使節団には演劇や文学に関する専門家もいるとは聞いていたが、まさか大使自らがこれほど流暢にこの国のことばを操り、また興味を示しているとは思いもよらなかった。オルフェは相手の国のことを何も知らない自身をかりみずにただ感激し、またよい口実を得たと口をひらいた。

「では、地下道の秘密の抜け道がこの部屋にあって驚かれましたでしょう?」

「いいえ。アレクサンドル葬祭長のことですから、事実をそのままに書くとは思っておりません」

 幼いころ君主の執務室にそれがあるとばかり思っていたオルフェはいささか気分を害したが、大使のつぎの言葉には大いに安堵した。

「アレクサンドル一世猊下が秘密にされたこと、それを暴くような振る舞いは天に誓っていたしません」

 あらたまってオルフェが礼を口にすると、小さな大使は微笑んでつけたした。

「それに、わたしは二度とこの国に訪れることはありませんでしょうし、それだけでなく、まつりごとに関わることもないでしょうから心配には及びません」

「タチバナ卿、それは?」

「兄にかわりまして、もったいなくも、天子さま御自らがまつりごとをなさると報せがまいりました。よって、いまのわたしの地位ならびに使節団の立場は不明です」

「あなたや御一族のお命は?」

 思わず声をあげたオルフェに少年はひとみを大きくし、財産の没収と蟄居隠棲は免れませんでしょうが、断首などということはありませんと落ち着いた声でこたえた。そのようすに、オルフェにも、少年が出国前からなんらかの覚悟をしてきたのだと知れた。そしてまた、こんなときになんと言えば外交上ふさわしいのか、はたまたこの異国にいる孤独なひとの慰めになるのか、そうしたことも一切わからない自分にほとほと呆れ、そのむねを素直に口に出して謝罪した。

 鳥首国の大使は、この、次の葬祭長になるには純朴すぎる青年を小さな黒いひとみにうつして穏やかに、ひそやかに微笑んだ。それからゆっくりと首をふり、謝っていただくようなことではないのです、といった。そして。

「わたしはこの国に来ることができて幸福です。青い雛罌粟も見ることができましたし、明後日には、かつてないと謳われる、初めての《夜》を体験できるのですから」

 それを聞いたオルフェの顔に、今までにない緊張が感じられた。大使は不審に思い頤をあげ、この青年がこの部屋の主の名前を呼んでいたようすを思い出した。あれはなにか、ひとが予想もしなかったことに出くわしたときに出す声であったように思う。

 大使はただ、相手を見守った。不用意な質問はこの場にはふさわしくなかったし、また、そのふるまいにはどこか子を見守る母親のごとき冷静と痛いような情熱があった。

「……《夜》は来ない」

「猊下?」

「《夜》は、永遠に来ないのです」

 鳥首国の大使は、その理由を尋ねなかった。さきほどのオルフェの視線然り、異国人、つまり部外者、疎外された存在であることをこれ以上なく感じていた人間に問いをたてられるはずもないが、それでも、期待していたものを裏切られたひそかな憤り、あるいは強烈な反撥が渦巻くのをとめられなかった。

 しかしそれはいつものごとく小さな胸におしこまれた。だが、飲み込めなかった不満が喉奥にせりあがり危うく言葉になりかけた。

 その胸中でくりかえされた詩句こそが、馴染み深い、


 イズレニセヨ、《夜》ハ来ル――


 であることをさえ、オルフェ七世は知ろうとしなかった。

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