第77話 オルフェ七世、『騎士』の開放をのぞむ

 その来訪を知らされたのは、昨日のことだ。

 次期葬祭長たるこの僕、オルフェ七世にこんな間際まで知らせがないのは何かの陰謀かと声をあげて教団本部を糾弾すべきだったように思う。

 《夜》を目前に、古神殿に引きこもったままの僕には、世間の情報はなにも入ってこない。集中のため、外出はおろか連載小説の続きが気になって仕方がない新聞でさえ差し押さえられているのだから!

 そうやって心の底から腹をたてていたはずなのに、僕ときたらアンリエットのあのすまし顔になにひとつ言い返すことができなかっただけでなく、多忙の公爵――つまり僕の双子の兄――にかわって、タチバナ卿ご一行を古神殿に案内する役目まで仰せつかってしまったのだ。

 僕だって東の彼方の鳥首国がどんな国かは知っている。大陸列強が手薬煉をひいて待ち構えている神秘の王国だ。兄がかの国と条約を結ぶべく多大な力を尽くしたことも理解しているつもりだ。それに、この古神殿の主は他でもないこの僕だ。他国からの貴賓であれば、僕自らが出迎え、ご案内申し上げるのが筋だろう――常ならば。

 エリゼ市内に厳戒態勢がひかれつつあるこの時がどんなに大事なのか、みんな本当にわかっているのかと不安になる。

 この僕が、《夜》を前にした次期葬祭長だということを忘れてはいないだろうか?

 死者たちを召還すべく精神を修練し、長丁場の《夜》をたえるよう肉体を養い、澄明な鏡のごとこころ平らかに安らがねばならないはずなのに、僕はアンリエットの奴婢のように使われている!

(僕の知らないところで、何かが起こっている。そうは思いませんか?)

 問いかけに、声がこたえた。

(オルフェ七世よ、いいかげん、無垢な小娘のように振る舞うのはよせよ)

 アレクサンドル一世猊下が苦笑した。僕はここやっと、この偉大な葬祭長を昼日中よびだせるようになった。呼び出せるだけじゃなく、この方に眠りの半分以上をもっていかれて、かなり限界にちかい。それでも、この方のこうした来訪により《夜》について教わることがあるのは有り難い。

 ただ、今回のことはどう考えても僕には負荷が大きすぎる。

(そうでもあるまい)

(猊下?)

(これはある意味、またとない好機と言えようが。相手はあの鳥首国ぞ? アンリエットはそれも計算のうちだと思うがな)

(彼女はそうでしょう。なにしろこの分野の専門家ですからね)

(ではなぜそこまで突っ込んで詳細を尋ねない)

(それは)

(婦女子を頼りにするのは恥ずかしいとでも思っているのか?)

(まさか! この国に生まれてそんな偏見を持っているわけではないですよ。ですが)

(そなたが彼女を好いていることくらい、あちらは疾うにお見通しだぞ?)

(……はっきり言いますねえ)

(言うさ。オレは意気地のない男は嫌いでな)

(片想いなのはもうわかってますよ)

(わかっているなら堂々と告白して振られてくればよいではないか。清々するぞ? そなたは万に一つの希望にすがって決着をつけるのを恐れているだけの臆病者さ)

(否定はしません。ですが、そんなことより《夜》の)

(話をずらすな愚か者め。そなたはアンリエットに頼みにされて嬉しいのだ。でなければ、いそいそと式服に着替えて彼女を待ちはしまい)

(それは……そう、です)

(アレクサンドル五世が多忙なのは事実だ。先ほど覗いてきたが、彼は彼で政教条約の締結にむけて試案づくりに追われている。それもあって、今までなら教区ごとの神殿と参議会が仕切る《夜》の警備体制も、エリゼ市の警察機構と共同で行うようだ。船頭多くてなんとやらで、いかにも面倒そうだったぞ?)

 口の端に苦笑をうかべた美貌の少年が僕を見あげた。その葡萄酒色の両目には、政治向きのことを一切兄任せにしている僕へのかるい揶揄と非難がみえた。

(兄は僕と違って抜け目がなくて、政治の駆け引きや金儲けが得意なのです)

(それはそうだろうな。この度の鳥首国使節の件といい、政教条約の試案づくりといい、彼にはエリゼ公国歴代君主の中でも図抜けた才能の持ち主だとの自負心もあることだろうよ)

 彼はそこでことばをとめ、ゆっくりと瞼をふせてうつむいた。目を閉じただけで、その相貌になにか柔らかで、慎ましさとでも呼ばれるような静謐が宿り、僕はこの口の悪い尊大な少年の隠れた一面を垣間見た気がしてどぎまぎした。

 そして次の瞬間、彼は顔をあげて僕の瞳を射抜くように凝視した。

(オルフェ七世よ、そなたはそなたで超国家としての《死の女神》教団を、その将来をどう見据えているのか詳らかにできるか?)

 それは、考えている。考えているとしか、僕にはこたえられない。

 その逡巡を見透かしたように、猊下が鼻をならした。

(アレクサンドル五世はモーリア王国などより神殿機構そのものを重く受け止めているよ。それは、お前さんも同じく感じているだろうがな。保守的な《太陽神殿》などと違い先鋭的な教義をもったこの教団が非難や批判はありこそすれ、他国やそのほかの宗教団体から表立っての排斥行為や物理的な攻撃に晒されることなく無事だったのは、ひとえに女神のいるこの国とその教えを守る『騎士』がいたからだ。違うか?)

(違いませんね)

(では、何故、『騎士』を解放する? この世はまだまだ男たちに都合よく、女たちに過酷な状況を強いてはいないか? 弱きもの、力のないもの、子供や老人、そうしたものたちに不利な世の中ではないか?)

(そうです。ですが)

(お前さんは男だ。男で、大陸でももっとも歴史の古い名誉あるエリゼ公爵家に生まれ、読み書きができ、金に困ったこともなく、五体満足で、なおかつ葬祭長になれるだけの特異な才能がある。さて、お前さんは本当に、虐げられたものの苦痛が理解できるのか? そうしたひとびとの声が聴こえるのか?)

(それは……)

(まあ、それは理解できると言えまいな。オレ様の糞意地の悪い質問に躊躇してまともにこたえない分だけは、見どころがあるよ。エリゼ派初代僧院長ジャンのことばどおり、『私はそこに居ることすらもできない』だ)

 エリゼ派と呼ばれる《太陽神殿》の一宗派は、それまでの男性中心的な教義を改め、女性にも様々な権利を付与すべく活動した賢聖ジャンを始祖としている。聖ジャンなどと呼ばれることがあるのは、彼の思想の一部が《至高神》の教義から霊感を受けているといわれモーリア王国にも信徒を拡げたことによるが、エリゼ派という名称の通り、現実的には女神の神殿の教えとの融和こそが彼の願いであったと思われる。ただし、ややもすれば貴族的で、また富裕商人層に受け入れられやすく狭い範囲にとどまっていた女神の神殿の教えに比べ、ジャンのそれがモーリア王国とわが国西部の農民や下層階級のひとびとに広まったことは事実だ。

 その教えをもっとも必要としていたひとびとに、女神の教えは届かない。そういう批判は常にある。現状を正直にはなせば、僕たちのできることはあまりにも少なく、見通しは暗い。

(猊下は、エリゼ派にひととき身を寄せておいででしたね)

 その複雑な生い立ちに触れると、少年はうすい肩をすくめてみせた。

(彼らに拾われたのさ。おかげでオレは、《太陽神殿》の教義も齧っているぞ)

(まったく、数奇な運命とはあなた様のそれをいうのだと感嘆しますよ! 僕なんて、この狭いエリゼ公国の、さらに小さな古神殿で暮らしただけで、見識なんてものが備わるはずもないですよね)

(ならば、外に出るがいい)

(無理ですよ。《夜》があけて『騎士』が帰れば、あなた様のおっしゃるように、この国の守りは薄くなります。それで、死者を召喚できる葬祭長まで国外では女神の神殿の徴が何もなくなってしまう)

(オレが思うに、その、しるしのないことを、わが民人は率先して選んだのだと思うのだがな?)

 何かに捺されるしるしとは、みずから望んで身にまとおうとするものであるとは限らない。その殆どが、他者からの一定の押し付けだ。それは当事者本来ののぞみを捨てさせ、他者の期待する身振りを規定し、それに従わせる暴力に似ている。

 僕が『騎士』を彼の時代に帰そうと努力するのは、彼の背負うもの、彼にかけられた呪縛そのものを解いて、彼を自由にしたかったからに他ならない。彼はどうしてか、時を知らず咲きつづける青い雛罌粟にとりまかれたこの国を守るために生かされている。まさに「騎士」として、エリス姫が己の命を懸けて守り抜いたこの国を、その大地を他国の侵入から防ぎつづけている。

(オルフェよ、オレたちの決定が今後の国の将来をきめ、むろんそれは臣民や信徒の了解を得たことだが、もし、この国が滅びるとしても『騎士』を帰すか?)


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