第72話 アンリエット(筆名アンリ)、名画『白のエリス姫』について語りだす

 わたくしの部屋には、美術品の愛好者・蒐集者であれば全財産をなげうっても惜しくないと思うにちがいない、三百年ほど前の名画があります。

 『白のエリス姫』。

 帝都の黄金宮殿から帰国してのち一生涯、黒衣に身をつつんだとされるこの女性のきわめて珍しい純白の半身像です。洞窟のような不可思議な背景と、陰影にとんでなお光暈をまとったお姿は女神そのひとと目されるもので、すこし凝った美術書などでは『顕現』ともよばれています。

 また、この絵はいっぱんに結婚の儀式にのぞんでのもと思われていますが、歴史的事実においても服飾史的にもそれは誤りで、冬至の日に太陽神殿に参拝した記念の絵というのが正解のようです。

 今でも廃れない習慣ですが、女神の信徒が冬至の日に太陽神殿に詣で、太陽神の信徒が夏至の日に女神の神殿におとなうことは当時でも珍しくありませんでした。

 それから、特筆すべきは彼女のお召しの服地には、この地の名産となったレースが使われていないことです。それは、この絵が画家にとってきわめて個人的な理由で描かれたものか、エリス姫自身がこれをだれにも見せることがないと決めて描かせたものだとする学説のとおりです。

 自身の美貌を知り尽くした彼女は、ことあるごとに自分の絵姿を描かせ、それを国外へと広めてこの地の特産品である毛織物やレース、または宝飾品の流行を担うべくつとめたというのに、画布に描かれたこの姿はつましく質素でさえあります。

 けれど画家の眼は、彼女のその艶やかな黒髪を愛で、雪をも欺く肌を愛撫し、くつろいだ笑みをみせる唇をなぞり、肉体の線の華麗さを味わいつくすようにとらえています。それだけではなく、誰よりも美しい姿かたちをした彼女の、もっとも美しいのが精神の気高さだとでもいうように、その顔は生気に満ち溢れて瞳には圧倒されるほどの強い力を宿しています。

 わたくしは、女の顔をこんなふうに描く画家を他に知らない。いえ、こんなふうに自分の顔をかかせた女を知りません。

 それは微笑んでいながらも文字通り不屈の意志漲る相貌で、このエリゼ公国は彼女がいなければけっして生き残れなかったにちがいないと思わせる肖像でもありました。

 このエリス姫こそが、《夜》の主役であり、エリゼ公国の運命をさだめたひと。

 《夜》。

 ああ、それは、どんなにかわたくしのこころをかき乱すものでしょうか。

 わたくしは、黒衣のエリス姫はまさに夜の女王であり、大陸でも珍しい女公爵であり、なによりもまず《死の女神》の寵児であると思っていましたが、この姿をみるとまた違う気持ちになるのです。

 彼女もまたわたくしと同じ「女」であったのだと、それをだけ思うのです。

 わたくしの名はアンリエット。

 名前だけ記してみても、その綴りで女性であると知れるでしょう。

 エリゼ公国の言語はモーリア王国とそれと同じで、この大陸で多くのひとびとが使うことばでもあります。さらに正確にいえば、このことばは北方の王国であろうとも、また東の国の植民地であろうとも、王権や貴族制が残る土地ではいまだ生き生きとしたひかりをもたらすものと思われています。

 帝国の衰微と崩壊にともない興隆したモーリア王国は、その言語をもこの二百年の間に堅牢にし、文法家や詩人、小説家たちによって磨きあげたのです。そのことばは美しく、なによりも明晰であるといわれています。

 でも、このことばを使いつづけることにわたくしは躊躇いがある。

 男女の性の揺らぎを受け入れながら、ことばだけそのまま二項対立におさまっているのはおかしい。そういう議論も今後かわされてしかるべきと思うのです。

 実をいえば、わたくしはエリゼ公爵様の副官にして詩人であり小説家でもあります。ただし筆名ではアンリと、三百年前の知将アンリから頂戴しました。その名は、わが伯爵家でも、もっとも栄誉ある名前のひとつでもあるのです。

 わたくしの詩は公爵様の教師であった帝都学士院の桂冠詩人の目にとまり、まずはエリゼ公国貴族の幼い少年の書いたものとして賞賛を浴び、つづいてそれは性別を偽ってものを書く女への批判として読まれ、いまではエリゼ公国の政治的旗印として認識されています。

 いったん自分の手をはなれた作品をとやかくいうのは作者としてしてはならぬ行為ではあると断ったうえで、あえて、どう読まれようとかまわないと開き直れなかった自分がいるとだけ告白します。

 もしも男であれば傷つかなかったかもしれないと思う痛みが、わたくしを変えました。《夜》の研究に自身を追い込んだのは、ひとえにそうした理由からです。弱く、もろく、支えのないわたくし自身の立場を、いまだ何の裏づけもなく、さりとてそこに確かに在るという、謎めいて美しい《夜》へと埋没させていくのは快いことでもあったのです。

 《夜》とは、究極的には演目であると喝破したのが、かの偉大なアレクサンドル葬祭長猊下ですが、わたくしはそれに注目いたしました、

 わたくしの推し進めた研究のひとつが、《夜》を「物語」として捉え、それぞれの流布本・異本を扱うようにして分析することでした。これは、さして目新しい方法ではありませんでしたが、東方の雅なる鳥首国の演劇との相似性や差異をみいだすことと相俟って、なかなかの成果をあげたのです。

 余談ではありますが、《夜》の登場人物たちは自分自身をかたるさいに名前をなのることがありました。これをみてもわかるように、初期のころの《夜》はきわめてたんじゅんなつくりの小噺とさほどかわりのないものでした。アレクサンドル猊下はそれをよしとせず、『歓びの野は死の色す』にみるような長編として再生させました。

 (ただし、名前の応答と人物に関しては、いまのところ階級と性別など複雑な要素がからまっていると思われています。身分や地位の高いものほどおのれを説明し語ろうとはしない傾向にありますが、例外もあるのは知ってのとおりのことです)

 この、アレクサンドル猊下。

 わたくしは、ため息とともに自室の壁にかけられた肖像画をみあげます。

 実は、先日までここにあったのは件のエリス姫の兄君であるオルフェ公爵のものであったのです。しかし、わたくしの公爵様はその絵を市庁舎の入り口へと運ばせて、アレクサンドル猊下のそれへと変えてしまわれました。

 この、今となってはエリス姫よりも著名な葬祭長を、なんと表現していいのかわたくしにはわかりません。お召しになっているのは襟元と袖口に豪奢な純白のレースを散らした黒衣で、手には青い雛罌粟の花とその実をもち、いかにも権高そうなお顔つきでこちらを睥睨しています。

 わたくしの知るかぎりいちばん似ておいでなのはいまの公爵様のお姿で、両性具有的美貌をひときわ特徴付ける女性的に大きな葡萄酒色の瞳の妖艶さは筆舌に尽くしがたいほどです。エリゼ公爵家の美貌は太古より知られていますが、十五歳にして《夜》を呼び葬祭長となった異例の出世と、よくもわるくも大陸全土を震撼させた《夜》についての小説を書いた異能をもってしても、選ばれた方であったと申し上げるほかはないのかもしれません。

 ひそかな愛人であったとされるわが先祖のひとりが、この方からの手紙を所持していなければ、この麗しく才知溢れた方にもひとなみの苦悩があったとわたくしは想像できなかったことと思います。そして同時に、この時代から、わたくしに流れる血はこのような方を賛美してやまないことが可笑しくなるのです。

 わたくしは、そうやって誰かの秘密を知ることが許される立場にいます。

 先日、エリゼ派の神官が政教条約締結推進会議のおわったあとわたくしを訪ねきて、《死の女神》教団の智慧を解放することこそが条約の根幹ではないかと熱弁をふるったものですが、わたくしはそれを否定しました。

 《死の女神》に秘密の智慧があるかどうかは本当のところ、大事なことではないのです。神秘であるがゆえに崇められていると非難されるいわれはなく、そのように女神を定めて囲い込もうとした側に問題があると説明しても、彼には納得がいかないようでした。エリゼ派でさえこうなのですから、この大陸のほかの殿方とはなしても会話自体が成り立たないのは当然なのでしょうか。それとも、今のエリゼ派は創始者ジャンの意志を受け継いでいないと非難したほうがよかったのかもしれません。きちんとそういえなかったのは、わたくしがまだ、この仕事に自信がないからなのでしょうか?

 よその国では上流夫人といえど慈善活動か家庭教師くらいしか認められていないというのに、この国では女性にもちゃんと参政権があります。女公爵を何人も輩出したせいだけでなく、やはり女神の教団の努力があったからです。

 わたくしは恵まれている。

 そうは思うのですが、その分の責任もまた重いのです。

 兄と弟が時を同じくしてレント風邪で世を去ったとき、父が暗い顔をしてわたくしを見ました。貴族であることを誇りにしてきた我が家では、主君にさしだせるものは何であれさしだしてきたのです。

 わたくしの婚約者であった男性もレント風邪でなくなったせいもあり、わたくしは兄にかわってこの宮殿の一室を得ました。

 孔雀石と黄金に彩られ、雪花石膏の壷がおかれた豪華絢爛たる執務室。

 さすがに、宰相の名をたまわるわけにはいきませんでした。《黄金の丘》に隠居していた父がきゅうきょ登城して再びその任につきましたが、三十の兄と十六歳の弟がふたりでこなしていた仕事をわたくしと父でこなすことには無理があるとしかいえません。そう申し上げたところ、公爵様は、できなければ解任するまでだと鼻で笑われました。つづいて、エリス姫にできてそなたにできぬことがあろうかと、つけくわえられたのです。

 祝いなのか脅迫なのかわかりませんが、わたくしがこの部屋をたまわってすぐ、さきほど申し上げました『白のエリス姫』の絵が届けられました。

 本来なら公爵様の私室におかれるのが相応しい逸品は、あの奇矯なふるまいをされることでは誰にもひけをとらない方のひとことによって、わたくしへと下げ渡されたのです。もちろんわたくし個人の財産になったわけではなく、ただ場所を移動させられただけのことではありますが、この国の至宝(いえ、この大陸の宝でもあります)をこんなふうに投げ与えられて、わたくしはいったいどうしたらいいのでしょうか?

 と申し上げましたが、わたくしはほんとうのところ事情を知っています。

 公爵様は、エリス姫がお嫌いなのです。

 いえ、憎んでおられるのです。

 エリス姫が、『騎士』のただお独りの方だから。


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