第70話 名乗らぬ人物(弟)、『歓びの野は死の色す』について語りだす
『そろそろ刻限であると、時が告げていた。
帝国皇帝たるその男に誓いを遂行しろと迫るのは、血の戒めに他ならない。
皇帝アウレリウスは《夜》の訪れに金色の双眸をとじて闇の最奥に呼びかけた』
今現在、《夜》を記した書物でもっとも評価されているのは、このアレクサンドル・デリーゼの著作『歓びの野は死の色す』だと言われている。
自身、葬祭長であった人間の処女作。
手許にあるのは、さいきん出版された豪華挿絵入り復刻版。帝都学士院(帝国がなくなったというのにこの名前は廃れない)で修行を積んだ銅版画家畢生の大作に彩られた書物は大陸中で売れたという触れ込みだった。限定何部と刻印された贅沢品は、革張りの装丁も麗しく、僕を心地よい陶酔にひきこんでくれる。
むろん、《夜》についての書物はこれ以外にもたくさんある。
エリゼ公国の歴史を俯瞰して、この《夜》について語らずにすむとは思えない。少しでも歴史を知るひとなら、大文字で《夜》といえばエリゼ公国のこの「時」をさすと了解しているはずだ。
僕はこの本の著者アレクサンドル猊下と、ある結論に達していた。
正直にいえば、僕はすこし怖がっている。
この三百年、帝国皇帝アウレリウスを呼び出した葬祭長は誰もいない。
でも、僕たちは「皇帝」を呼び出さずには、あの『騎士』を《夜》に帰せないと結論付けてしまったのだ。
ほとんど消えかけた花綱模様の天井をあおぎみて、ああ、これは「エリス姫」の癖だったなあと思い返せば、ひとりでに口許が緩んでくる。
僕は、彼女のことがわりあいに好きらしい。
今世紀初頭に大陸を席巻した神殿修復の嵐のなかで、この古神殿には手をつけぬよう僕たち《死の女神》の教団はがんばった。がんばったとしか言いようがないくらい、強硬に反対した。善意の輩のやぶからぼうの情熱ほど、厄介なものはこの世にはそうはないのだった。
今では市庁舎となった宮殿には、隣のモーリア王国からきた技師が瓦斯灯をたてたという。あたらし物好きで洒落た公爵のすることらしいとみなが好意的に判断してくれたようだけど、僕はあまり好きではない。こんなことをいうと、僕たち兄弟の仲を疑われてしまうから大っぴらには口にできないけどね。もちろん、兄は僕の悪口なんてものともしないだろうし、民主的で進んだ君主と思われるためなら何でもするにちがいない。あのひとはああいうひとだし、僕は僕だ。
両親が大陸中に吹き荒れた「レント風邪」でいっぺんに亡くなって後、僕たちふたりはこれでもうこの国の貴族政がなくなるものと思っていた。この機を境にわが国にも共和国精神なぞという有り難いものが満ちるに違いないと信じていたのに、結果はこれだ。
兄は公爵位をついだし、僕は亡き母の地位を襲い「葬祭長」になる資格試験を受けるようすすめられる始末だ。
進歩的という概念はわが国にはないのだろうか?
僕の大いなる疑問には、昨日の定例会議のあとでアンリエットが白金の髪を揺らしてこたえてくれた。
そういう安直な思考判断自体を戒めるのが得策と思いますがね。
「エリス姫」の異性装もかくやというほど艶かしい幼馴染は、僕の兄が女装をしているときにはすすんで男装を引き受けた。背の高い彼女の騎士姿はなにやら倒錯的で妖しいが、兄の副官であり市長補佐である彼女は裳裾をひいて働く苦労を嘆いているので、実際ああした女性の格好は面倒なものなのだろう。
もちろん、僕は女装などしたことがない。兄と違って、僕はそのあたり、どうやら旧弊的な価値観に縛られているらしい。
十年ほど前までは狂気の沙汰と思われて廃嫡騒ぎにもなった兄の奇癖は、いま現在、陰口をいうものはあればこそ、表立って非難するものはいなくなった。三年前、隣のモーリア王国とあわや交戦かという一大事に兄が単身かの国に乗り込んで危機を救って以来、誰もが兄を尊敬している。
僕も根回しはした一員でもあるが、まさかこれほど華麗な成功をおさめるとは思わなかった。ちょうど寒波が襲ってきたこともあって、運がよかったとしかいいようがないが、運も実力のうちなのは古代以来自明のことだ。
手札はむろん、こちらにあった。
革命後、いったん壊れた王政が復活したとはいえ、新国王の血筋に疑問をもつものたちも多く(なにしろほとんどの王族が断首または私刑にあって殺された)、また《至高神》の神殿側も民衆へどう接したらいいかわからない混乱期のことで、ひたすらその隙につけこんで世論を攪乱し、兄は国王を色仕掛けで懐柔した。《至高神》の禁欲的な修道院で育ったとされる新国王は非常に無垢に育てられていたようで、兄の手管にころりと落ちたというはなしだ。
眉唾、話半分にしても、わからなくもない。僕でさえ、兄がたまに魔物めいて見えるのだから。
エリゼ公爵家の人間は半分、魔物なのだ。
そんなわけで、いずれ政教分離だなんてことになるとしても、また貴族制度そのものがこの国から失われたとしても、僕たちエリゼ公爵家の血筋は生き延びることだろうと思われている。僕自身はその確信はないのに、ひとびとのほうがそう決め付けているのだから、そういうものなのかもしれない。
よその国の歴史家たちもそういうのだから、そうなのだろうと思い切れればいいけれど、当事者っていうやつはそうはやすやすと安穏とできないものだ。
とはいえ、各地の《死の女神》の神殿は革命のときも悲惨な打ちこわしにはあっていない。この国はよその国とは勝手が違い、革命どころか急進的な動きは一切なかった。それもこれも全て、『騎士』がいたおかげだとみな信じている。
それでも僕は、『騎士』を《夜》へ帰したい。
帰してあげたいのだ。
兄は、自分の恋した男を遠くに追いやるなんて馬鹿だと笑う。べつに恋をしてるわけじゃないけど(ただし、彼に執心しているのは事実だ)、僕も自分を馬鹿だとは思う。
自分たちの地位を安んじてくれる存在を無に帰そうというのだから。
でも、そういう兄だって、僕の意見に反対はしない。
いや、してはいけないと思っているのかもしれない。
このエリゼ公国が不可侵であるのは、『騎士』のおかげだ。けれど、彼に頼るのをよしとしては、いずれこの国は駄目になると考えているのだろう。
この計画をアンリエットに話したところ、彼女は翡翠色の瞳をしばたいて、あら、なかなか美形ですのに姿を見られなくなるなんて残念ですわね、とあいもかわらず頓珍漢な感慨をもらして微笑んだ。
脱力した僕に、彼女はいつもの声でつづけた。
公爵様は、どのようにお考えで?
僕は、そのときこたえなかった。
自分で聞けば、と突き放したところ、彼女は肩をすくめるようにして笑った。
そうします。
すらりとした後姿が目の前から去って、椅子に腰をおろした。
あのとき見あげた天井は、煤けた花綱模様が滲んでみえた。そんなことで泣きそうになる僕は、男としてどうなのだろう?
女のように髪を結いひらひらした装束をきていても、兄はこの国の公爵になった。アンリエットは、そんな兄のことを愛している。なにも言わずに国を離れた兄を、アンリエットはどんな風に思っていたのだろう。
あのとき、彼女に好きだと言えばよかったのだ。結婚してくれと膝をついて懇願し、愛していると言えばよかった。
もしくは、兄のいる処に送り出してくれと頼まれたときに、言うことを聞いてやればよかったのだ。危険だなどといって断ったのは、兄に会わせたくなかったせいにすぎない。
僕は、どちらもせずに、卑怯にも黙っていた。
兄が死んだら自分のところに来てくれるとも思えなかったくせに、今また、ふたりの間の不和を解消することもしないでいる。
ああ……。
僕は、こんな調子で葬祭長になどなれるのだろうか?
《夜》が成功せずに『騎士』がその時に帰れなくとも、この国は変わらないだろう。変わらなくともいいのかもしれない。
でも、僕はもう、青い雛罌粟に取り囲まれて生きるのは終わりにしたい。
死の色をした花を、散らしたい……。
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