第64話 ヴジョー伯爵、家臣アンリと作男ジャンの会話を見守る

 エミールの姿が見えなくなって、ジャンがその場にくずおれるように腰を落とし、大きな息を吐いた。全身から緊張が抜けきったように見えたがすぐに我に返り、扉の前に落ちている手紙を拾い、手巾をとりだし慎重な手つきで血痕を拭ってから先ほどまでエミールの着ていた長衣にくるんだ。

 彼はトマの遺骸の前へとすすみ、生成りの装束を脇によけ、身体をまっすぐにして祈りの言葉をつぶやいた。続いてこわごわと顔を顰めながらもその身体に手をかけて、隠しや衣服の隙間になんらかの証拠がないか探りはじめた。無駄とはわかっていたが、確かめずにはいられなかったのだろう。彼は長剣に刻まれたしるしを見て目を眇めたが、しばらくして他には何も見つからないとわかると大きく肩を落とした。帯につるされた財布は空で、葡萄酒のはいった革袋の残りも僅か、指輪はおろかなんの装飾品も身につけていない。裸にするのは死者への冒涜だと思ったらしく、彼はそこで手をとめて今度はきちんと衣服をととのえた。

 彼は膝をついたまま脇によけた長衣から手紙を取り出し、赤い二本線がはいった白茶けた布をひらいてトマの身体を覆った。石造りの廊下から不浄の血と黒衣は消えた。ジャンは細く息をはいて立ち上がり、瞼を伏せて護符をきった。

「ジャン」

 アンリが扉をあけて立ち尽くすジャンを見た。ジャンは黒髪を片手ではらい、顔だけむけた。

「なんですか。神官様の容態は?」

「意識はないが、息はある。それより、拾った手紙を出しなさい」

「嫌だと言ったら?」

「腕ずくで取るまでだ」

 脅迫めいた声音ではない。アンリは、たんに事実を述べているだけに見えた。しかしながら、聞かされたジャンはそれ故に肩を揺らして笑った。

「騎士ってのはいつでもそう。まあ、いいですよ。宛先はたしかにヴジョー伯爵になってるようですからね。ただ、俺が持ってたほうが、神官様のご希望に適うとは思いますがね」

「見せろといっているだけだ。不必要と判断すれば、返す」

 アンリに手紙をさしだしながらジャンがいった。

「なにも殺すことはなかったんじゃないですか?」

 受け取る手は血に塗れたままで、ジャンはそれを見てすぐさま手紙をひっこめた。

「手を拭いてください。証拠品です」

「偽造でもされていると?」

「可能性はあるでしょう。俺なら、多少目利きが出来ますよ?」

 ジャンを見つめる翡翠色の瞳に閃きがよぎる。何かを思い出すように目を眇め、確認した。

「君はたしか、帝都の大神官付秘書室からこの国に派遣されたのだったね」

「『左遷』の間違いですよ」

「殺されなかったではないか? あそこから出るのは、死ぬか出世するかどちらかだと聞いたことがある」

「おっかないことを言いますね。俺は下っ端でしたからね。右も左もわからんうちにヘマをして追い払われたんですよ」

「大神官から指輪を下賜されたまま?」

 それを聞いたジャンが眉をつりあげてから苦笑した。

「聞いてたんですか、人が悪い」

「人が悪いのはお互い様だが、聞き耳をたてていたわけじゃなくて聞こえただけだ。それに、君がわたしに真実を教えるという保証はないよ?」

 笑顔で問われ、ジャンは同じように笑って返す。

「俺が元はれっきとした神官職だと知ってるでしょう? 嘘は厳禁ですよ」

「そうだったね」

 アンリは服の裾で手をふいたが綺麗にならず、肩をすくめた。ジャンは先ほどとは違う緊張した面持ちでその正面をむいた。

「アンリさん、いや、騎士アンリ、あの黒衣の騎士を殺してしまったのは何故ですか」

「始末しておかなければ危険だからだ」

「危険っていうのは誰にとってですか? 抵抗する意志はなかったはずだ。それに、あの顔はどう見てもエミールの肉親でしょう。そのくらいのことも見て取れなかったのですか?」

「気づいてたよ。わたしは彼が逃げる前にこの部屋から出て行かなかったことを君に褒めてほしいくらいだ」

「出てこられなかったの間違いじゃないですか? あなたは、エミールに責められるのを厭って出てこなかったとも言えますよ?」

 アンリが険しい顔つきで口を開いた。

「ジャン、目の前で主君が刺されて剣を抜かずにいられるか?」

「俺は、しませんよ。たとえ目の前で大神官様が殺されようが、しない」

「ジャン」

「俺だけじゃない。その証拠に、神官様の手は剣にかかっていませんでした。ふいをつかれて刺されたとはいえ、逃げずにここに立ち尽くしていた相手を斬り返すことくらい神官様、いえ、ヴジョー伯爵様ならできたでしょう。しなかったのは、その暗殺者が誰から差し向けられているか知りたかったからではないですか?」

「わたしの過失を責める気か?」

「そうとも言いますね。ただし俺は、ヴジョー伯爵家の郎党じゃない。だからあなた方に加担する気もないし、邪魔をする気もない。というよりできないでしょう。俺は無力な庶民ってやつですからね。だけど、無抵抗の人間を打ち倒して恥じない騎士ってやつにうんざりしてると白状しておきますよ」

 アンリはうつむいて腰の剣に手をやった。

 日が傾いた廊下に柱の影が長く尾をひき、その顔を半分暗くした。

「……わたしは、それ以外の生き方を知らない」

 その、正直すぎるほどの述懐に、ジャンは横を向いて頭をふった。

「ええ、そうでしょうね。俺も、それはわからない。お互い様です。

 ただ俺は、本音をいわずに誤魔化したあなたに腹が立った。あなたは激昂して前後を忘れ、神官様が守ろうとしたものを壊しかねないことをした。

 それでも、俺はあなたのしたことを断罪する権利はないとは考えます。自分の命より大事なものを奪われて復讐しないでいられるか、俺はよくわからない。俺が大神官様を刺した相手を刺し返さないのは俺が弱虫だからなのか、そこまであの方を敬愛していないのか、そのあたりがわからなくなっただけです。

 そして、あなたに感謝もしています。エミールの逃亡を見逃してくれた。

 あなたは出てこられなかっただけじゃなくて、出てきてはいけないとちゃんとわかってた。俺はだからあいつを送り出せたし、この暗殺を帝都へと知らせられる手筈をつけられた。ヴジョー伯爵家としてはこのことが外部にもれるのは差し止めなければならないのに、あなたは敢えて許容した。

 だからというわけじゃないですが、俺はこの手紙の差出人が誰か、きちんと見分けてあなたに教えますよ」

 それを聞いたアンリは金髪を血に汚れた指ですいて微笑んでから顔をあげた。

「わたしは君に感謝はしない」

「かまいません。俺がこれを調べるのは、俺も神官様を尊敬してるからです。ほんとうの首謀者を突き止めたいと願う気持ちはあります」

 ジャンがいちど口を引き結び、呼吸をととのえるようにしてからアンリの顔を見据えた。

「アンリさん、これからどうするつもりですか?」

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