第34話 エリス姫、愛人「月の君」を思い出す
そうして黄金宮殿で暮らすようになってしばらくたった頃のことだ。
書き物机のうえにあった手紙の束にその名のあるのを見つけ、月の君は声をたてずに笑った。
手紙を隠す間もないことで、それはむろんこの部屋のほんとうの主が彼である証であり、またおれが自分の侍女たちを遠ざけられてしまったが故の不始末だった。
実をいうと、彼がここをおとなうことがない日にもその耳に何もかもが入っていることだろうと、おれはすっかり諦めていた。
月の君は、ルネのことを知っていた。
帝都学士院の最優等生になりながら故郷に帰った奇特な青年というのが、ルネのことを記憶するものたちの評価だった。
帝都で職を望めば宮廷であろうと太陽神殿の最高府であろうと高い地位を得られたはずなのに、そそくさと帰り支度をしたルネを笑うものたちの声だ。
しかしながら、月の君の評価はそれとはすこし違った。
かわいげのない少年だった、と彼はいった。
あれでは出世は望めまいとつづけ、本人もそれを十二分に自覚していたはずだと苦笑した。
当時のおれにはそのあたりのことはわからなかった。
ただ、これには返事を書かないのかと問われて、身を竦めた。
あなたが書くなというなら書きません。
おれは愛人気取りでそうこたえ、すぐさまそれを羞じ、相手の意にそう返事かどうかだけを気に病んだ。
侍女たちは息を凝らすようにして、主の表情をうかがっていた。彼はその視線を疎んじて白い手をかるく払って彼女たちを追いやった。いつの間にか、侍女たちはすっかりその仕種に慣れてしまっていて、安堵の吐息さえつきそうな顔で姿をけした。
おれは心細さをおしかくして前をむいた。
すると、彼は淡い青灰色の瞳をほそめ、おれの手から手紙をとりあげて部屋を横切りながら読みはじめた。
中身を読まれることについての憤りもあったが、それ以上に、自分とルネの関係に立ち入られるのを恐れていた。
もちろん、彼はそれをすぐに読み取った。
恋人か?
教師でした。
教師ね。町方の物語では、貴族や金持ちのむすめの処女を奪うのはたいてい教師の役目のようだがな。
月長石のように揺らめく瞳にあからさまな嫉妬があるとも見えず、さりとて寛容にゆるす口ぶりでもなかった。
彼はそのまま寝室へとむかい、鞣革のスリッパを脱いでひとりで寝台に寝そべった。
故郷とちがい、低くてやたらと広い寝台におれはいつまでも慣れなかった。午睡の習慣にも親しめず、彼がその時間になるとここへ訪れて昼日中に求められることも厭わしかった。
あとを追う形になったおれは、兄君である陛下よりもひといろ淡い金髪を絹張りの枕に散らし肘をつく男へと、ようやくの思いで口にした。
返してください。
彼は片手で手紙をひらめかし、なぜ、と尋ねた。蜜酒を煽るような顔つきでこちらの動揺をくみあげて、彼は微笑んでいた。
わたくし宛ての手紙です。
エリス、おまえのものなぞこの宮殿にはひとつもないと教えてやったのにわからないようだな。
たしかにそれは事実だった。この部屋も調度も何もかもが彼に与えられたもので、それでも手紙は自分の持ち物だと主張したつもりだった。
わたしはおまえのところに来る手紙をすべて没収することもできるのだよ。
それもまた事実ではあった。
けれど、そんなことを公国の姫として許すつもりもなかった。
どのような権利があって、エリゼ公爵や大教母の便りを盗み見できるとおっしゃるのですか。
そのこたえには、彼は喉をそらして笑った。
たとえ皇帝陛下であろうとも、女の部屋で嫉妬心ゆえに他の男からの手紙を盗み見た者を罰することはできないだろう。
彼のいうことばの白々しさに、おれは笑ったようだった。
それを見て、彼は気分を害したらしい。
ここへ来い、エリス。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます