第32話 美貌の公子オルフェ、女戦士の姫君アレクサンドラの涙を見る

「アレクサンドラ姫?」

「もしもあたしが戻らなければ、帝都へ使いを出すようヴジョー伯の母上に頼んできた。それから、あたしの配下もこの街を離れるよう指示してある」

「では、貴女を殺せば期せずしてこの国に帝国軍を呼び寄せられるということですか?」

 ぼくの問いかけに、彼女は微笑んだ。

「あたし一人の命はそんな重くない。さっきはああ言ったけど、あたしが死んだからって陛下が復讐のために兵を動かすことはない。でも、あたしがへまする程度にこの国は厄介だって証にはなるだろうし、この国を是が非でも守りたいと願うあなたの意志は陛下に伝わると思う」

「ぼくが、自分の妻になる予定の、皇帝陛下の姪の姫君を暗殺しようと企てたとしても?」

 姫君はそこで陰惨な笑みをうかべた。

「それは、陛下が悪い。

 もともとあたしはこの婚姻には反対だった。

 皇帝の威信で物事が動くとは毛筋ほども思っていないくせに、それが通じると人々には思わせたいのだから。この国にとってはいい迷惑だよね。

 モーリア王の進軍を食い止めよと命じるなら、兵を動かすなり武器を調達するなりして後援するのが本筋だ」

「けれど、今の帝国にはそれだけの資金はない」

 ぼくのことばに、彼女はひどく醒めた顔をしてこたえた。

「そのとおり。戦争にはどうしても金が要る。逆に貧しいから奪うともいえるけどね。さきの皇帝まで続いた豪奢は借金となって膨れあがり、今となっては人々の反感を買うだけだもの。自分の子供を銀行家の娘に売りつけるほど、さきの皇帝は返すあてのない借金に困りきっていた。

 おかげでこの三十年、陛下は引き締め政策しか出してない」

「エリスは」

「エリスがどれほど贅沢をしようとも、国庫は傾かないようにできてたからね。しかもそれが槍玉にあがればすぐさま排斥できる」

「辺境の小国の公女だから」

「そう。あくまでも、皇帝の血筋ではないものとして処断する。エリスはいつでも死ぬ覚悟でいたみたいだったよ」

「ぼくのしたことと、どちらが酷いですか?」

「それは、あたしの決めることじゃない。エリスに訊きなよ。その機会があればね」

 機会――その言葉に、ぼくは身を震わした。

 もしも、もしもアランがエリスを元皇族に渡すのでなく、この国を簒奪せんがために動いたのだとしたら……またはモーリア王に引き渡すために拉致したのだとしたら……もしくは私怨のためにエリスを攫ったのだとしたら……

 私怨?

 心臓が、妙な感じに脈打ち始めた。

 これは、何かの予兆だろうか?

 私怨など、何もないはずだ。

 エリスとアランは言葉も交わしたことがないのだから、せいぜい顔を見合わせた程度で……そう思うのに、ぼくは、何故、こんなに不安なのだろう。

「あたしは、この国がどうなっても構わないとまでは思わない。でも、エリスに何かあったら、こんなことを仕出かしたことを呪い死にたくなるほどの目にあんたを遭わせてやる」

 それでも、ぼくはその恫喝に怯まなかった。

 すでにもう、ぼくは自分が《死の女神》の腕に抱き取られる資格はないと思っていた。《至高神》やらという、裁きの神の懲罰にかかるのは覚悟した。

 それでも、この姫君が何故、そんなにぼくの妹に恩義を感じているのかだけは知りたかった。

「貴女は、どうしてエリスを救いたいのですか?」

「エリスだけが、あたしに、好きなように生きていいってくれたから」

 緑色の双眸に見る間に大粒の涙があふれ、汚れた頬を濡らしていた。

「皇族の姫にならずともいいし女戦士の島を治めなくともいいって、そう、あたしの親や、陛下にかけあってくれるって……あたしにかわって皇后になってもいいって、そう、いってくれたから……。

 ただ自分の好きなひとと恋をして結婚して、誰かの欲望や野心の犠牲にならずにすむよう……、あたしを守って、くれ…うと、し……から……」

 高揚した彼女のすがたを見て逆に冷静になったぼくは、やはり死ぬのは嫌だとまっとうなことを考えはじめていた。その一方で、その肢体からたちのぼる、噎せかえるほどの潤沢な花の香りに、それがおそらく南国の花であろうと想像して、ぼくは遠い昔に憧れた異国を想っていた。

 それにしても、こんなに涙を流して泣いているのに、このむすめは我を忘れるというようすはまるでなかった。部屋の外への警戒も怠らず、ぼくの息遣いにも注意をはらっていたのだ。

 だから、ぼくがそんなふうに意識を外にむけたとたん、途切れとぎれのことばを恥じるように姫君は涙をとめた。

 ぼくは、ぼくとこの国に訪れた最大の好機を逸したことを思った。

 目の前で泣いているこのむすめを捕らえれば、十分に帝都の皇帝陛下を脅せるだろうと検討をつけながら、ぼくにはそれだけの気力も体力もなかったのだ。

 先ほどの不安を遠くに追いやり、ぼくは本来の自分に立ち返った。いや、少しは正気に戻っただけのことかもしれない。

 大事なものは何か、考えるより前に明らかだった。ぼくは真実、それをだけを望んでいたはずだった。

 ただたんに、この国が生き延びる道を……。

「貴女にとってエリスが大事なように、ぼくにとっては何よりもこの国が大事なのです。エリスを救うことよりは、この国の安全をぼくは買いたい」

 その一言に、彼女はぼくをまっすぐに見据えた。

「だからエリスを犠牲にすると? さっきも言ったけど、安全なんて何によっても購えないよ」

「それはもちろんそうでしょう。ぼくの欲しいのは保証です。ここが今でも帝国領であるという証が欲しいのです。陛下の姪御などという代わりのきくものでなく、帝国軍のたしかな援助を約束してほしい」

 ぼくの意志が固いことに、彼女はゆるゆるとかぶりをふった。

 それからしばらく、互いに無言ですごした。

 瞳を伏せた姫君があたまのなかで何事かを想像し計算し、考えつくそうとしているさまを、ぼくは息を潜めて見守っていた。

「それじゃあ、あたしからも条件を出す。

 あなたがあたしの出す試験に合格したら、『保証』とやらをさしだすよ」

 ぼくは否も応もなくただうなずいて、今度こそ、ぼくの先祖だといわれる《死の女神》のことを想って嘆息した。

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