第10話 美貌の公子オルフェ、ヴジョー伯爵の妻ついて語る
ぼくは、ルネ・ド・ヴジョーの妻と寝たことがある。
あの、少しも魅力などないような女に迫って、無理やりに関係を結んだ。
ぼくは物心ついて以降、いつでも相手に不便をしたことがなかった。
地位があり、美貌があり、しかも生まれつき心臓が悪いという、どうしようもない不幸を背負っていた。
ぼくが少し拗ねたり涙を浮かべたりすれば、男でも女でも、ほだされた。その胸にぼくを抱きとってくれた。
ただ、あの女だけが違った。
ぼくの涙を信じなかった。
好きだという言葉も、信じなかった。
愛しているといったのに、それさえも、耳にいれようとしなかった。
ぼくは彼女を憎んだ。
今でも、憎んでいる。
頑丈だといったのに、病などしないと笑ったのに。ぼくの手首のほうが自分より細いとぼくを嘲ったくせに……
ぼくをおいて、先に死んだ。
ひとりで、誰にも看取られずに死んだそうだ。
ぼくは、ルネ・ド・ヴジョーをも憎んでいる。
あのひとを、孤独に死なせた夫を許せないでいた。
それは自分も同罪だと知っていて、それでも、遠い異国へ嫁いだ彼女を大事にしなかった男を憎んだ。
ぼくには、彼を殺すだけの理由はない。それでも、彼の幸福を邪魔する権利はあっていいと……そう、願っていた。
「オルフェ殿下?」
耳慣れた声に、肩を震わして振り返る。
そこに、ぼくに妻を寝取られた男が立っていた。
「殿下、こんなところにお独りで、どうされたのですか?」
ぼくは内心、ひどく焦っていた。用意のないときの自分はこんなにも心弱い。鼓動が乱れ、浅く息をついだぼくを、ルネは心配そうに伺い見た。
ばつの悪さに、ぼくは大理石の床を見つめてうなだれた。
「もしや、エリス姫からこちらの壁掛を取り戻してほしいと頼まれたのですか?」
どうこたえようかと思案していると、彼はこちらへとまっすぐに歩いてきて、すぐ横に立って壁面を見た。
「私はいつも、あの騎士が殿下に似ていると思うのですよ」
ほら、と彼は指をさした。
ぼくはつられて顔をあげた。
そこに、黒い甲冑を身にまとった金髪の騎士がいた。
ぼくには、その人物が自分に似ているとは思えなかった。
その騎士は皇帝陛下の甥にあたり、この物語の主役とも呼べる人物だった。
たしかに名前こそ同じオルフェだとは知っていたが、勇猛果敢な偉丈夫で、騎士のなかの騎士とでもいうような男だったからだ。
「主役ですから、他の人物と違って黄金と銀の糸をふんだんに使っているそうです。あの、黒く見える甲冑は銀糸を使っています。八年前は輝いて見えました。お隣の皇帝陛下は貝紫で染めた高貴な赤紫色が美しかったのですが、すこし退色してしまいましたね」
「随分と詳しいですね」
「古神殿に通ううちに、当時はご存命だった大教母様に染色や刺繍のことを教わりまして、すこしずつ覚えました」
「あの大教母が、よくも太陽神を崇める伯爵に講釈しましたね……」
彼はそこで苦笑した。
「ご推察どおり、初めから教えてくださったわけではありません。通ううちに、徐々におこころを開いていただいたのです」
ぼくは曖昧にうなずいた。
大叔母にあたる大教母をぼくは苦手にしていた。嫌いだったわけではないが、近寄りたくなかった。
彼女は、ひとの寿命がわかる人間だった。
彼女の目に触れることをぼくは恐れた。尋ねれば、問い合わせた本人の命数であれば、教えてくれるという噂だった。
「亡くなった奥方は、太陽神の信徒ではなかったのですか?」
ぼくは、核心に触れることを問うた。
ぼくと彼女のことをこの男が気づいているのかどうか、ずっと不安に思っていた。
こんなに胸が苦しいのなら、いっそ打ち明けて決闘でも何でもすれば事がすむとまで思った。
ぼくだけのことなら、告白してもいい。
けれど、死者になってしまったあのひと、口のないあのひとがそれをどう思うのか、ぼくには判断ができなかった。
生きている間、ぼくは彼女の意思をことごとく無視した。
逢いにくるなといわれれば押して通った。
そんなことを口にするなと言われれば、何度もくりかえした。
それだからこそ、今になって、ぼくは臆病になっている。
「彼女はもちろん信徒ではあったでしょうけれど、神の功徳など単純に有難がるような愚かなひとではなかったですし、また一方で、父の書物を大切にするような子供っぽいところもあったひとでしたからね」
「書籍とは、さきのヴジョー伯爵の?」
「ええ。父と同じく他愛もない、騎士道物語などの好きなひとでしたよ」
ルネはそういって微笑んだ。
「私は彼女がこんなものを作っていることすら知らないで過ごしました。遺品を整理する際に、彼女の乳母から聞いたのです。古神殿に献ずるようにと言っていたそうで、そんなことまでも他人任せでした」
彼はそこで瞳を伏せた。それから、こちらを見ないままで彼がきいた。
「殿下は、ご存知でしたか?」
「ぼくは……」
知っていた。
彼女の部屋にあった糸巻きも、錘も、触らせてもらった。
この地では手に入らない糸は、わざわざ帝都から運ばせるのだとも話してくれた。
どうしてこんなものを刺繍するのかと聞いても、あのひとは黙って微笑むだけで何もこたえなかった。
あまり、ものを話さないひとだった。
お世辞もいわず、色よい返事もしない、ましてや好きだとも口にしないあのひとが、ぼくを目に映すときの歓喜に、ぼくは溺れた。
「ああ……殿下がご存知なら、それでいいのです」
それはよかったと、ルネは目を閉じたままくりかえした。その、きつく閉じた瞼のはしに、きらりと光るものがあった。
ぼくは、彼女のために泣かなかった自分を思い出した。
他人の妻が亡くなったことで、泣くわけにはいかなかった。
この男があの気むずかし屋の大教母に口をきいてもらえるほど古神殿に通ったのは、亡くなった奥方への追悼の意のためだとぼくはようやく理解できた。
あのひとが死んだのは、黒死病のためだ。
そして、この男はなにも妻を見捨てたわけではない。安全のために非難させていたのだから……。
この男は病が猛威を振るった半年をこえる長いあいだ、この都市を離れなかった。
青黒い斑点に覆われたひとびとのために、月桂樹を火にくべ、病のもととなる瘴気を払うべく太陽神に祈りを捧げ、家の外に置き去りにされた遺骸を《死の女神》の神殿に運んだ。
あるとき、なぜ街をはなれなかったのかと聞いたら、彼は不思議そうな顔をしてこたえた。
私には、他に行くところなどないではありませんかと微笑んだ。
都市郊外に彼の領地はたくさんあった。まして、ヴジョー伯家の膝元である《黄金なす丘》一帯は被害が少なかったはずだ。
彼が逃げなかったのは、自分の命が惜しくなかったからにも思えたが、ぼくはそれ以上なにもいわなかった。
彼が自分の命を危険に晒していたあいだ、ぼくは彼女と逢っていたのだ。
ぼくはこの街で大勢の人々が死んでいることを知っていて、自分の恋に夢中だった。
そして、三日だけ顔を見ないあいだに、あのひとは死んだ。
本当に突然のことだった。
それからすぐ、兄も死んだ。
ぼくは、たったひとりで闇に取り残された。
ルネはあらためてこちらを見た。
「宰相殿にさきのお話を承りますと、今ほどお伝えして参りました」
それが何を意味するのかは知っていた。
彼は、夫を毒殺したかもしれない王女を妻にすると口にしているのだ。
ぼくは何も感じなかった。いや、これで当初の計画通りだと考えた。
万が一、モーリア王が東征し南の帝国へと進軍する際にも、王女さえいただいておけば、この国をほしいままに略奪するような非道な真似をさせないですむ。
昨年、この国は豊作だった。搾り取られることは覚悟するが、命を取られるよりはずっといい。
「それはめでたい。この国は祝い事が続くようですね」
ぼくは表向きのことばをこたえた。
ルネも、同意した。
彼の広い背中を見送り、ちらと、ルネが死んだらぼくがその王女とやらを迎えなければならないと思っておかしくなった。
そう、皇帝陛下の姪なぞ、今のこの国にいらない。
アランの配下の盗賊は、巧くやることだろう。
ぼくは、帝国から嫁いだあのひとのことを思った。
また新たに、同じ道を通ってこの国に来るはずの女の死を、あのひとはきっと酷く悲しむに違いない。
ぼくはまた、あのひとの気持ちに逆らうようなことをしている……
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