第6話 女戦士の姫君アレクサンドラ、エリス姫に帝都に帰るよう進言する


 今夜のエリスはだいぶ様子がおかしかった。

 いま、彼女はあたしの寝台のうえで猫みたいに丸まって軽い寝息をたてている。断髪したせいで、粗末な寝布にくるまった姿は囚われの罪人のようだ。

 あたしは寝るところがないので自分の机にむかって日記を書くことにした。

 戦士としての鍛錬のおかげで、あたしは少しくらい眠らなくても平気な質だ。それに、エリスはとても疲れている。眠ってくれるならそれでいい。

 先ほど、エリスはひとりで食堂に入ってきた。伯爵は一緒ではなかった。

 剣を返しに行くようにいわれたけれど、彼女をひとりにしてはおくのは不安だった……。

 エリスがやけに楽しそうなときは用心しないとならない。

 前に一度、露台の端から落ちそうになった。

 しかも、始末の悪いことに、酔っ払ってふざけただけだと言い張った。とさかにきたあたしは彼女のひょろっとした肢体を担ぎあげて、手すりのうえにのせた。

 どうせやるなら本気でやりな、そしたらあたしも責任とって死ぬだけだ。

 あたしがそう啖呵をきると、いつも高飛車なエリスが、そのときばかりは素直に頭をさげた。それからふいに気が違ったかのように笑い出し、ついには声をあげて泣き伏した。あたしは心配する侍女たちをさげて、むずかる子供のようになってしまった彼女を湯殿で洗ってやった。

 足首に、枷の痕がわずかに残っていた。

 エリスは飲んだ次の日は顔が浮腫んで醜いといって、人前に出たがらない。皇帝陛下のお召しでさえ、そういうときは傲然と断った。

 思い出せることは全部、書いておかないとならない。

 エリスとはじめて会ったのは、三年前の春のことだった。

 あたしはそれ以来ずっと、彼女のそばにいた。

 だから、エリスが今、何をしようとしているのかはなんとなく、わかる。

 この数日、ご婦人たちが入れ替わり立ち代わりエリスのもとに訪れていた。みな、エリスと同じ《死の女神》をまつる女神官たちだ。

 早朝から昼のあいだは、大組合の委員や小組合の頭たちがそれぞれ別個に馳せ参じている。儲け話に興奮して鼻の穴を大きくする者もいれば、唇を引き結び難しい顔で帰るもの、疑心暗鬼に首をふりふり歩く者もいる。

 貴族の顔は見ない。帝国本土やレント共和国と違い、この国やモーリア王国あたりでは、商いをする貴族はいないそうだ。

 夕方になると、神殿騎士たちが農夫のようなあんばいで、土まみれになって戻ってくる。彼らはエリスのねぎらいの言葉に気をよくし、また明日から同じ作業にとりくむことだろう。

 あたしたちはそのかたわら、菜園で薬草をつみとったり厨房で鳥を絞めて捌いたりする。洗濯をしたり、繕い物をしたり、燭台から蝋の残りを剥ぎ取りそれを磨いて綺麗にしたりもする。

 あたしはけっこうそういうことが得意だった。

 細々としたこと、根気のいること、毎日誰かがやり続けなければならないこと。

 そういえば、ゾイゼの奴が大勢の人間をひきつれてこの神殿にきたとき、エリスは少しもあわてなかった。

 誓ってもいい。

 エリスは、ゾイゼのいる大神殿に間者をはなっている。

 そのくらいのことはする女だ。

 ただ、壁掛けが外されたときだけは表情を変えた。

 エリスは寄進者の意向を重んじねばならないのではないかと食い下がった。ところがゾイゼはのっぺりとした顔のまま首をふって、新しい大神殿の落成式にこそこの絵巻はふさわしいといって取り合わなかった。

 それを聞いた彼女の瞳に底知れないものが浮かんで、すぐに消えた。

 瞬きのうちに、エリスはいつもの顔つきをして鷹揚にうなずいてみせた。

 ああいう顔をしたあとのエリスはおっかない。

 皇帝陛下が、《死の女神の娘》を怒らすと何をされるかわかったものではないと、真顔であたしに教えてくれた。

 あたしも、そう思う。

 帝都にいたとき、エリスは黄金宮殿一、贅沢な女だった。

 つまりそれは、この世でもっとも金のかかる女だってことだ。

 彼女の選ぶもの、食べたもの、手にしたもののすべてが、帝都の流行になった。

 着るものはもちろん、身の回りのすべてに皇帝陛下と同じ、ううん、それ以上の品を用意させた。彼女の部屋には大陸中からひとが集い、はたまた海を越えた異境から商人たちがやってきた。しかも、帝都でいちばんの工房としか取引をしなかった。

 エリスのご相伴で、あたしは生まれてはじめて冷たくて甘い菓子を口にした。よく磨かれた銀の匙ですくったそれは、舌のうえで淡雪のように溶けた。

 エリスは、目も眩むほどの豪奢のなかで悠々と憩いながら、ときどき、どうにも息苦しそうな顔をして、北の空を見た。

 まるでそこに、黄金や宝石よりも美しいものがあるとでもいうように。

 エリスに関わる人間たちはみな、その女主人の用意したお仕着せを身にまとっていた。深く、艶のある黒衣は、エリスの髪と瞳の色に同じほど麗しかったけれど、残念なことにあたしには少し、色がきつすぎた。

 エリスはあたしに謝った。

 サンドラ、あなたには白のほうが似合うのに。ごめんなさいね。

 かわりに、あたしはいつでも髪に白い花を挿した。エリスはそういうところは煩くて、花のない季節には絹でできた造花を拵えさせられた。

 いつだったか、あたしはふざけてエリスの黒髪に自分のつけていた花を挿した。

 不思議なことに、粒のそろった真珠の連やエメラルドを幾つも嵌めこんだ黄金の額飾りより、その、小さなひとえの花のほうが彼女に似合うような気がした。

 そういうと、エリスは寂しそうに微笑んだ。

 わたくしはもう、髪に花を挿さないわ。見せたいひとはいないから。

 言いおわらないうちに、エリスは白い花をとってしまった。あたしはもっと見ていたかった。そう口にする前のことだ。

 ふわりと、花びらが散った。

 紅い絨毯のうえに、透けるほど薄い花弁が落ちた。

 その脆さが切なくて、堪らなくいとおしかった。

「サンドラ、喉がかわいた」

 エリスの寝ぼけ声が聞こえて、あたしはあわてて書き物をやめた。

 あたしは椅子から腰をあげ、水を汲んでさしだした。

 エリスはお礼をいって杯を受け取り、肩をすくめて苦笑した。

「おれが寝台を占拠してしまったな」

 すっかり板についた男言葉。

「もう少し眠りなよ」

「いや。自室に戻る」

 こうなったら、こちらのいうことを聞かないのは承知していた。それでも、あたしには言うべきことがあった。

「ねえエリス、あたしと一緒に帝都に帰ろう」

 エリスは無言でこちらを見おろした。あたしはその鉄面皮に挫けずいった。

「皇帝陛下に頭をさげればすむことよ? 意地をはらなくてもいいじゃない」

「意地の問題ではないよ」

「でも」

「サンドラ、おれに指図するなら帝都へ戻れ」

「エリス!」

「あいにくだが、おれにはここにいてもそのくらいの権力がある」

 嫌なことを口にする。

 そして、エリスは自分がどんどん嫌な人間になっているという自覚がきっとある。

「帰国してからのエリスはおかしいよ。どうしてあんなに綺麗だった髪を切ってしまったの?」

「めんどうくさい。おれには今、前のように侍女がいない」

「髪くらい、あたしだって結ってあげられるよ」

「その暇があればそなたに薪を割って火を熾し、羹のひとつも作ってもらったほうが助かるのだ」

 エリスは真顔だった。

「サンドラ、おれは女をやるのに厭いただけだ。これも飽きたら女のかっこうに戻るやもしれぬ」

「嘘つかないでよ、エリスはもう男に振り回されたくないだけじゃないっ」

 エリスは少し、瞳を大きくした。

「そんなふうに見えるか?」

「見えるよ」

「ならば、そなたのいうほうが正しかろうな」

 エリスは納得顔でうなずいて目を細めた。

「サンドラは賢いな」

「また偉そうに!」

「実際えらいのだから仕方あるまい。この大陸で、公爵位をもつ人間が何人いると思う?」

「あたしのいうのはそういう話じゃなくて」

「ちかごろおれは周囲の者みなにそういわれるな」

 エリスが楽しげに笑って再びあたしを見た。

「サンドラのいうとおり、おれはもう男に振り回されるのはやめた」

「なにいってるの、今だって振り回されてるから、そんな変なかっこをしてるんじゃない」

 エリスは細い眉をひそめてみせた。

「戦装束の乙女にいわれたくないが」

「あたしはアマゾオヌで、誰もがそれを理解して認めてるよ」

「物珍しかろうと認識のうち、というやつだな。逸脱すれども理解は得られる。だがな、その了解が得られるようになるには、どれほどの時間が必要とされたか、または犠牲を払ってきたか、それくらいは考えたことがあろう?」

 あたしが口をつぐむと、エリスが高らかに告げた。

「おれはたしかにこの姿と地位であるものを失い、また得たりしたが、おれ自身はほんとのところ何も変わらないのさ。おれは裸で生まれてきたのだから、死ぬときの装束くらい己の裁量で選びたいではないか」

「エリス」

「だからな」

「エリス、話をずらさないで。あたしはべつに、エリスのしようとしていることに反対はしてない。でも、そんな流行遅れの男物を着て、おかしな言葉遣いをすることに意味はあるの?」

 エリスが腕をくんだ。

「意味の有る無しでいうなら、おれにとっては間違いなく意味はある」

「どんな?」

「ひとつは手間隙がかからぬこと。ふたつは、物事にはそれに相応しい形があるとみなが頑なに信じていると学べること。みっつは、おれの頭のなかの変容にある。おれは、ことばによってしか考えられぬからな」

「エリスのいうことは正しいよ。でもあたしは、黄金宮殿一の美女だった綺麗なエリスが見たいのっ」

 あたしの言葉に、エリスが切れ長のひとみを瞬かせたあと愉しげに喉をならす。

「随分と嬉しがらせをいうではないか」

「お世辞じゃないよ」

「サンドラ、おれの目からすれば、そなたのほうがずっと美人だがな」

「あたしはアマゾオヌだもの。裳裾をひくようなしゃらしゃらした服は一生きない」

「間違うな。そなたはそのままで美しいといっているのだよ」

 エリスはあたしの顔をうっとりと眺めた。それは、紛れもなく賛美の視線だった。

 ひとりでに頬が熱くなるのは、しかたがない。

 エリスのこの眼に見つめられて、平然としていられる人がいたら会ってみたい。

「サンドラは、ああいう服が好きか?」

「エリスが着てるのが好きだったの!」

 なるほど、とエリスがあごをひいた。たしかに自分で着ていると鏡でもつかわぬ限り見えぬからな、と彼女はつぶやいた。

 それからこちらに向き直る。

「そなたの頼みなら聞いてやりたいところだが、おれは自分の持ち物すべてを売り払ってきたのだ」

 そうだった。

 衣類宝石はもちろん、家具や食器にいたるまで、エリスはこの数ヶ月で処分した。もちろん、処分といっても投げ売ったわけじゃない。ある者には高額で購わせ、また他の者には何らかの特権を委譲させ、恩着せがましく譲り渡した。

 あたしは正直、ひとの足許を見るようなそのやり方があまり好きじゃなかった。なんだかエリスらしからぬ態度だった。そういったら、本人は気を悪くしたようすもなくあたしを見て、紅い唇をほころばせた。

 姫君らしく、かわいいこと――

 そう決めつけられて、あたしは黙りこんだ。

 エリスは、あたしの知らない世界で生きていた。

 その当時はもちろん、この今も。

 あたしには、そこがエリスのほんとうに望んだところとは思えなかった。

「サンドラ、すまないが明日、おれの兄に会いにいってはくれまいか」

「それはもちろん」

 かまわないという意志をこめてうなずくと、エリスは少し考えるような顔をした。

「うわさによると、オルフェの愛人は男らしい」

「問いただしてくればいいの?」

「いや、兄は口を割るまい。べつに愛人のひとりやふたりは問題ない。ただ、相手の素性が気になるだけだ」

「だから調べろっていわれれば」

「そなたには無理だ」

 かなり、むかついた。

 だったら話すなよ。そう思っていることがばれているので口を結ぶ。

 するとエリスが優しげな目をしてこちらを見おろした。

「ただ、オルフェの様子をうかがってくるだけでいいのだ。無茶はするな」

 エリスの命令なら、あたしは聞くしかない。

 それが、契約というものだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る