消えた王妃と猫 1
「にぃやああああああ‼」
「こら、暴れるな! いい子だから! いてっ、爪を立てるなってば!」
「みゃあああああああ‼」
フィリエルは、絶叫していた。
手足をバタバタさせて激しく抵抗するも、むんずと掴まれてちゃぽんとお風呂の中に突っ込まれてしまう。
「にゃー! にゃー! にゃああああっ」
「怒るなってば。猫が水嫌いなのは本当だったんだな」
フィリエルを無理やりお風呂につけた鬼畜――リオンは、しみじみとした顔でそんなことを言う。
ふーふーとフィリエルの口からは自然と威嚇音が出ていた。
(お風呂嫌お風呂嫌お風呂嫌っ)
人間のときはお風呂が大好きだったのにおかしなものである。
とにかく水につけられるのが嫌でばたばたと暴れまわるも、リオンは容赦なくフィリエルの毛をわしゃわしゃと洗い出した。
「雪に濡れてびしゃびしゃだったし、足も泥だらけだったんだから仕方がないだろう?」
「みゃー!」
「我儘な猫だな。すぐ終わるから大人しくしておいで」
湯桶に張った湯の中で、リオンの手によって泡だらけにされたフィリエルは、もう口から魂を飛ばしそうだった。
お湯も嫌だが、何が悲しくて夫に全身を撫でまわされて洗われているのだろう。
幸か不幸か。水への拒否反応で恥ずかしがる余裕すらなかったが、暴れまわったせいで疲労困憊だ。
フィリエルがばしゃばしゃと水を飛ばしたから、リオンの淡い茶色の髪が濡れている。
光が当たると金色にも見えるほど薄い色のリオンの髪は、濡れると茶色味が濃くなるのだなということをはじめて知った。
綺麗なエメラルド色の瞳も、人間だったフィリエルに向けていたそれと違って、優しい色をしている。
(動物好きだったのね)
結婚して五年。
お互い、本当に何も知らない夫婦だったのだなと改めて実感した。
「おっ、諦めたな?」
抵抗をやめたフィリエルにリオンが笑う。
フィリエルより三歳年上だからリオンは今年二十五なのだが、まるで少年のような笑顔だと思った。
「にゃー!」
「なんだ、まだ文句があるのか? もう少しで終わるから我慢しろって。終わったらミルクをやるから」
今日の昼にフィリエルの部屋を訪れた彼は「忙しいので、本当に重要な話があるとき以外は呼びつけないでくれますか?」などと言っていたくせに、猫を拾って洗う時間はあるらしい。
ちょっとムッとして、フィリエルはかぷっとお腹を撫でまわしていたリオンの手に噛みついた。
「いてっ! こら! めっ!」
抱き上げられて、さほど強くない視線で睨まれる。
「みっ」
ぷいっとそっぽを向くと、リオンが眉を八の字にした。
「なんだ? 怒ってるのか?」
(そうよ! 怒ってるの!)
「あとは泡を流すだけだから我慢してくれって」
(洗われることに怒ってるんじゃないわよ、ふんっ)
「いい子だから、な?」
よしよしと頭を撫でられて、フィリエルの中の怒りがしおしおとしぼんでいく。
人間のフィリエルは無視したくせに、猫になった途端に構ってくるなんてと腹が立つも、リオンはその事実を知らないのだから仕方がないのだ。
リオンが鼻歌でも歌いそうなほど機嫌よさげにフィリエルの毛についた泡を流していく。
(それにしても、国王陛下が猫を洗うなんてね)
普通は侍女やメイドにさせそうなものなのに、リオンは変わっている。
「よしよし、終わったぞ。あとは乾かそうな。あ、お前、雌だったんだな」
「みゃあっ」
ボッとフィリエルは赤面した――気がした。
実際は毛に覆われているので見た目にはわからないだろうが、ぐわっと体温が上がる。
(な、な、なんてこと……! どこ見ているのよ! いやああああっ)
両脇を持たれて、ぶらんとお腹を見せる形で持たれたフィリエルは「みゃー! みゃー!」と抗議の声を上げながら暴れるも、リオンに伝わるはずがない。
「お前は騒がしい猫だなあ」
なんて言いながら、暖炉の側にフィリエルを下すと、わしゃわしゃとタオルで全身を拭かれた。
恥ずかしすぎてぷるぷると震えていると「寒いのか?」と抱き上げられて、もう少し暖炉の近くへ寄せられる。
もう泣きそうだ。
まるで辱めを受けている気分である。
「……みぃー」
「なんだ、今度はどうした? 腹が減ったのか?」
うなだれていると、リオンが焦り出した。急に元気がなくなったように見えたのだろう。
チリンとベルを鳴らしてメイドを呼ぶと、猫のためにホットミルクを持って来いと命じる。
メイドはリオンの側にいる猫に怪訝そうな顔を留守も、「すぐにお持ちします」と答えて下がった。
リオンが暖炉の側に胡坐をかいて、ひょいっと膝にフィリエルを抱える。
「それにしても、お前はどこの猫だ? 首輪はしていないみたいだが……こんな美人なら飼い猫だろう? なんか野良っぽくないし」
美人、と言われてフィリエルの体温がまた上がる。
こちょこちょとお腹をくすぐられて、「みゃっ」と身をよじると笑われた。
「お前、可愛いなあ。よし、飼い主が見つかるまで俺が面倒を見てやろう。外に放り出したら死にそうだからな、お前」
「に?」
(ちょっと待ってそれは困る‼)
フィリエルは自由になるために猫になったのだ。このままリオンに面倒を見られては自由ではない。というか、逃げ出した場所に強制送還ってどういうことだ。
「にー!」
慌てて逃げ出そうとしたが、もちろんリオンが許してくれるはずもない。
「こらこら、今度はなんだ?」
逃げようとしたフィリエルはあっけなくリオンの手につかまって、またぶらんとお腹丸見えの状態で抱え上げられた。どうでもいいがこの持ち方はやめてほしい。丸見えだ。いろいろ。
リオンはフィリエルを抱えたまま立ち上げると、「何かないかな?」と言いながら部屋の中を歩き回りはじめた。
そして、クローゼットをあけると、エメラルド色のクラバットを取って、フィリエルの首にちょうちょ結びで結びつける。
「よし、これでいい。あとは名前だな。そうだな……リリでどうだ?」
首輪だけでなく名前までつけられてしまった。
茫然としていると、メイドがホットミルクを皿に入れて運んで来た。
カトラリーのない食事に一瞬だけ抵抗感が湧くも、目の前にミルクを差し出されると、本能だろうか、自然と皿に引き寄せられる。
ぺろぺろとミルクを舐めていると「いい子だなリリ」とまた頭を撫でられた。
ミルクを全部飲み終えると、リオンがフィリエルを抱き上げて口の周りをタオルで拭いてくれる。毛が長いので、どうしてもミルクが毛につくのだ。
リオンはフィリエルをベッドの上に乗せると、「ここでいい子にしているんだよ」と首元をくすぐるように撫でる。
「まだ仕事があるからね。すぐに戻るから」
どうやら、城の庭にいたのは、休憩中だったからのようだ。
窓の外を見るともうじき日が完全に落ちるころだというのに、国王陛下はまだ仕事があるらしい。
ぱたんと扉が閉まってリオンが出て行くと、フィリエルは改めて部屋の中を見渡した。
リオンの私室に入ったのはこれがはじめてだ。
(なんか、実用的というか……殺風景な部屋ね)
広い部屋の中には、本棚やソファ、テーブル、ベッドなどが並んでいるが、どれも飾り気が少なく、モノトーンでまとめられている。
壁紙は白一色で、絵画の一つも飾られていなかった。
シンプルなのが好きなのか、それとも部屋の調度に関心がないのかはわからない。
なんとなく冷たい感じのする部屋の中は、フィリエルの知るリオンそのもののような感じがしたのに、猫になったフィリエルに向けられた笑顔を思い出して違和感を覚える。
フィリエルに冷淡だったリオンと、先ほどのよく笑うリオンは、果たして同一人物だろうか。
そこまで考えて、フィリエルは答えを出せるほどリオンのことを知らないのだと気づくと、なんだかものすごく虚しくなった。
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