第40話 あなたが離れてゆけないように

 毒殺未遂から三カ月が過ぎた頃、後遺症も失せたエカルトにようやく復帰の許可がおりた。

 毒を盛られた直後の、激しい痛みや吐き気それに高熱は一晩で収まった。その後にひどい倦怠感と眩暈が残り、医師からしばらく安静にしているようにと言われてしまうと、ラウラが頑として仕事復帰を許してくれなかったのだ。そうなると周りの者もラウラに従う。「少しずつ身体を慣らしたい」、どんなに言っても誰も聞いてはくれなかった。

 これでやっと元の生活が戻って来る。

 ほぼ制服と化した黒の騎士服に、一人で着替える。近侍は今のところいない。

 あの事件以来城内の警備は強化されて、新規雇用は当分見送られることになっている。ハーケが総督を務めていた頃に、城内の使用人を必要最小限に絞っていたようで、それを引き継いだ現在、かなりの人手不足は否めないのにだ。

 当分の間、自分の事は自分でするようにと、テオバルトから言われたばかりだ。


「人手がありません。身のまわりのことくらい、おできになりますよね」


 近衛騎士団長のテオバルトは、国王の補佐官のようなことまで兼任している。国王代行のラウラは人使いが荒いらしく、テオバルトはいつも慣れない書類仕事に頭を抱えていた。そのせいか最近特に機嫌が悪い。

 本当なら宰相をおきたいが、今すぐには無理だ。国王に次ぐナンバー2の地位を、適当に埋めるわけにはゆかない。今のところ空席にしたまま、国王代行の王妃ラウラが兼任することになるだろう。


 ラウラ、そうそのラウラこそが、現在エカルトの一番の気がかりだった。

 三カ月の間、彼女はエカルトを拒み続けている。

 触れ合うのは最低限。身を起こす時に助けてもらう程度で、その手を引き寄せようとするとやんわりと拒まれる。

 夜はおやすみの挨拶をした後、別の寝台で眠ってしまう。

 一度エカルトが手を出そうとしたら、そうされた。


「まだ治ってないから」


 ラウラは困ったように眉を下げて言った。


 三カ月、三カ月もだ。

 まだ新婚と言って良い期間にこれだけ干され続けたら、不安にもなる。

 ラウラに心境の変化があったのではないか。まさかとは思うが、マラークの先王にもしや心が揺り戻されたのではないか。

 仕事も取り上げられ、ひがな一日やることもなくぼやぼやしていると、思考はどんどん悪い方へ悪い方へと向かうのだ。

 それも今日で終わる。ようやく解禁だ。

 今夜こそラウラも拒まないでいてくれる。いや拒ませない。

 急を要する仕事は、すべて優秀な王妃が片づけてくれている。国王としてはいささか複雑だったが、夫としてはありがたい。これでこの三カ月の処理案件の証跡を辿るだけで、今日の仕事は終わるのだ。

 夜が待ち遠しかった。



 その夜、国王夫妻の寝室。

 意味不明の唸り声をあげて、ぶんぶんと頭を振るエカルトの姿がある。

 強めの酒を口にして、なんとか落ち着こうとしてみるがダメだ。胸がどきどきうるさくて、そわそわと落ち着かない。

 初夜の余裕のなさとは違う。あの時はただ、ラウラに触れたくて欲しくてすべてを自分のものにしたい。その思いでいっぱいだった。その後、毎夜身体を重ね愛を囁いたのに、エカルトは不安でたまらない。

 三カ月も干された理由は、エカルトの身体を気遣ってだと知っている。そうに違いないと思いながらも、心のどこかで「もしかしたら俺を嫌になったのか」と不安が声を上げる。

 エカルトは銀の分銅ソルヴェキタの姫の伴侶だ。出会った瞬間に、ラウラを彼の唯一、最愛だと認識した。そしてそれは今も変わらず、ラウラはこの世でただひとりの愛しい妻だ。本当なら一瞬でも離れていたくないくらいに。けれどラウラは、己の伴侶をかぎ分けられないと聞く。もしかしたら毒ごときで倒れるような、弱い男は嫌いかもしれない。


「ラウラに嫌われたら、俺は生きてゆけない」


 ぼそりとこぼした時、寝室の扉が開いた。

 燭台のほのかな灯りにぼんやりと浮かぶ姿に、エカルトの心臓はどくんと大きく跳ね上がる。

 白くてろりとした絹のガウンを緩く合わせて、その肩に背に見事な銀の髪を自然に下ろしている。足下の部屋履きは銀の飾りのついた小さなミュールで、白く細い足首をさらに魅力的に見せていた。

 こんなラウラを、エカルトは見たことがない。

 清らかで、同時に艶やかで。

 小さなミュールの足が軽やかに動いて、紫の瞳がエカルトを間近で捉える。

 次の瞬間、エカルトの唇は塞がれていた。

 さわやかで甘いイチゴの香りがエカルトを包む。

 いつものラウラと違う。

 これまでのラウラは、自分から仕掛けてくることはなかったのに。


(まさか……、俺が下手だからか? いや、別れの前に思い出をくれようとしているのか?)


「いや……だ」


 涙があふれていた。

 三カ月の間に、ラウラに何が起こったのか。どんな心境の変化があったのか。たとえ何があったにせよ、エカルトがラウラを放してやることはない。

 それでもラウラの心が離れていくのは辛い。

 三カ月前までは、確かに愛していると言ってくれていたのに。


「ラウラ、どうしてですか?」


 勝手に答えを出したエカルトに、紫の瞳が蠱惑的に輝いた。


「よくわかったからよ。あの時エカルトを失いそうになって、どれだけあなたを愛しているか。生きてゆけないと思ったから」


 白くやわらかな腕がエカルトの首を抱き寄せる。


「あなたが離れてゆけないように、わたくしも努めるわ。そう決めたの」


 薄い唇の端を綺麗に上げて、ラウラは艶然と微笑した。

 言葉どおり、艶やかな夢のような夜をラウラは与えてくれた。

 夜は瞬きする間に過ぎるのだと、エカルトは初めて知った。

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