第19話 敵の敵は
アングラード侯爵から初めての接触があったのは、マラーク入りして三日目のことだった。
「エドラ様から聞いているだろう? アングラード侯爵からだ」
テオが薄い紙を差し出してくる。
流麗な文字で「市場の果物屋、リンゴを持つ男」と走り書きがあった。
見つけたのはオルガで、すぐにテオに手渡してくれた。どうやらオルガも事情は承知しているようだ。
ラウラたちが留め置かれた貴賓室という名の離れ小島部屋。その中庭の掃除だと称して、ほうきを手にした下男が作業に入った。そして彼が去った後、手製の竈の上に木筒が残されていたらしい。
「どうする? 俺とルト両方がお側を離れるわけにはゆかないだろう」
どうすると聞いてはいるが、自分が行くと言いたいのだろう。
気は許すなと、エドラも言っていた。敵かそうではないか、判断する情報のない相手にルトが直接会うのは危険だ。
「買い出しに行くと言えば、ラウラ様も変だとはお思いにならないだろう」
買い出しにはオルガとテオが行く。
ラウラの食事に信じられないゴミが供されて、それから始まった自炊生活のためだったが、これが思いのほか楽しいものだった。
そのひとつが買い出しだ。
あの毒婦が貴賓室への食糧を止めているから、ラウラやルトたちの口にするものは自力で用意しなければならない。幸いなことにエドラの実践教育のおかげで、ラウラは王族らしからぬ粗末な食事に文句のひとつもこぼさない。それどころかむしろ安全だと喜んでさえいてくれる。
ラウラ手作りのスープには、たまねぎとベーコンがたっぷり入っていた。ノルリアンから持ち込んだ携帯用のパンと干し肉が添えられていた。それがその夜の食事だったが、ルトは夢中で頬張った。
こんな美味はヴァスキアの王城でも口にしたことはない。これが毎日続くのなら、あの毒婦に少しは感謝してやってもいいと思うくらいだった。
けれどその食材を求めに、ルトは行かない。
ラウラを一人にはけしてできないし、もしテオとルトどちらかが側を離れるとしたら自分では絶対にないからだ。
テオも心得ているらしく、ルトに行けとは言わなかった。
それならばアングラード侯爵の接触に応えるのも、テオということになる。
「様子見というところだ。どんな男か、しっかり見定めてくるから安心しろ」
そう言い残してテオは出て行った。
その日の夕方、王太后ウルリカの馬車で一度帰って来たテオは、夜半にもう一度こっそりと出て行った。
「アングラード侯爵に会ってくる」
月のない夜、星灯りだけが頼りだ。ただでさえ王城から抜け出すとなれば、そう簡単ではない。
「気をつけろ」
言わずにはいられなかった。テオはニカりと不敵に笑って見せてから、ぽんとルトの頭を叩く。
「心配するな。兄貴を信じろ」
それから二時間くらいか。中天にあった星がいくらか西へ動いたころにテオは帰って来た。
ひどく疲れた様子に見える。
「なにかあったか?」
変わったことはなにもないと、青白い顔でテオはゆるく首を振る。
「ヴァスキアのあの後のことを、話してくれた。宰相ハーケは今、ヴァスキア領の総督だ。バルト侯爵の娘を妻に迎えたらしい」
王太子エカルトの遺体を持参して、マラーク国王に臣下の礼をとったのだという。
ヴァスキアはマラークにとって異教徒だ。それに主要産業も異なるし、民族性もかなり違う。鉱物の採掘、鉄の製錬、武器や馬車の製作製造に軍馬の生産。豊かな農業大国であるマラークとはまるで違う産業の国だ。そこに暮らす民はみな質素で勤勉で、いささか閉鎖的だ。いきなりマラークの代官がやってきて、これまでどおりの生産高を上げろと命じても面従腹背できっと数字は上がらない。
そこをハーケが請け負うという。祖国を裏切った自分には、最も適した役割だとバルト侯爵に推挙してもらったらしい。
「元のハーケ侯爵領はもちろん、ヴァスキア全土がいまやハーケの統治下にある。アングラード侯爵はそう言っていた」
宰相であった頃のハーケは、理性的ではあったがけして冷酷ではなかった。それが今や、無慈悲な悪代官を絵に描いたようなのだと言う。
鉱山からの切り出し、鉄の製錬、軍馬の生産、ありとあらゆる数字を厳しく監視して、少しでも前年より下がると責任者を厳罰に処す苛烈さだ。
「ハーケ閣下は頭のいい方だ。そこまでしてでもマラークの信頼を得たいのだろうさ。だから俺はさほど驚きはしなかったよ」
テオは疲れた顔にうっすらと笑みを浮かべる。
ハーケのことが、彼を痛めつけたわけではなさそうだ。
「ラウラ様の婚礼後できるだけ早く、謁見を申し込むそうだ。その時ぜひルトに会いたいと。アングラード侯爵からの伝言だ」
「そうか。それで感触はどうだった」
「少なくとも敵ではないと見えたが……。判断するのはまだ早い」
やはり変だ。テオの言葉には、いつもの陽気さがかけらも感じられない。
確かに深刻な内容だ。だがいつものテオなら、眉間に皺を寄せた暗い表情をそのまま見せたりはしない。「まあなるようになるさ」と途中でからりと笑って見せる。いつだってそうだった。
「他になにか聞いたのか?」
息を飲んだテオは、唇をぎゅっとかみしめる。
苦し気に口にした。
「兄上の最期を聞いた。マラークの先王を殺したのは我が兄だ」
マラークの先王といえば、あの狂王。ヴァスキアに攻め入った憎んでもあまりある男だ。
やつを仕とめたのがテオの兄、あのアルノルトなのか。
だがもしそれが本当なら、アルノルトは……。
「悪いが先に休む。少し疲れた」
視線を合わせることもなく、テオは寝台へ横たわる。
ルトに向けられた背中が、「これ以上何も聞くな」と言っていた。
しばらくその背を見つめていたが、かける言葉などあるはずもなく、寝るしかないのだとあきらめて横になった。
夜半。
微かな気配にルトは目を覚ます。
部屋の空気が震えていた。
「あ……にうえ……」
その切なく哀しい声を、ルトは生涯忘れられなかった。
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