笑み。

大峰亮太

タブー


 〇


 私は自販機を睨んでいた。今日は何を買おうかと。バイトが終わり帰路の途中にある自販機で少し贅沢するのが最近の楽しみであった。財布から小銭を出し細い口へ滑らせボタンを押す。ゴトンという音と共に缶珈琲が落とされた。私は煙草をくゆらせながら珈琲を流し込む。奥深い香りが鼻を抜ける。

「美味いな、これ」と私は一人呟く。


 国道495号線を真っ直ぐ進み大学に続く道を左に曲がる。この先を進むと私の家である。家の裏手には竹林がごうごうと生い茂り、風が吹く度にからからころころと自然を奏でる。窓さえ閉めていれば心地がいいので気に入っている。

 家に着き鍵を開けようとしたところ鍵が回らない。「このオンボロめ」と悪態をつき力任せに鍵を捻る。扉を開けると煙草の匂いが鼻腔を直撃する。さすが私の部屋だ、部屋が私に順応していると言ってもいいだろう。

 私は衣服を脱ぎ捨てると風呂場へ直行した。冷たい床が足裏を襲うが気にせずシャワーの蛇口を捻る。私はいつもシャワーを浴びるだけで済ませている。なぜなら浴槽に生息する赤カビ達の小さく儚い命を私のエゴの為に葬り去ることに抵抗があるからである。彼等もまた生きているのだ。

 嘘をついた、既に手遅れだから面倒なだけである。


 風呂から上がるとすぐに小さな冷蔵庫から冷えたビールを取り出し布団に座る。濡れた髪は自然の力に任せ乾かす。以前冬場に自然乾燥を試みたところ髪の毛が凍ってとんでもない思いをしたものであるから、これは夏場の特権である。

 ビールを開け一気に飲み干す。酒は百薬の長と言うが睡眠導入剤としても使える。エチルアルコール万歳。

 一通り寝る支度を済ませ、もぞもぞと布団に潜り込む。

 ここまではいつもと変わらぬ日常であった。


 〇


 深夜であろうかそれは突然やってきた。

 私は覚醒した。というのも、体の奥底から力が湧き出てくるような覚醒ではなく、目が覚めたのだ。しかし、目の前は暗黒であり体も動かない。

 私はすぐに金縛りだと理解した。

 この世に生を受け二十と四年。金縛りを経験したことがない私の気持ちは高揚していた。

「おお!金縛りだ!全身が動かないし、おまけに瞼もカチコチだ!」

 そう、瞼も動かないのだ。本当にカチコチである。何も見えない。金縛りの原因は疲れの蓄積であると聞いたことがあるから、この頃疲れていたのだろうと呑気に考えている時であった。ぎしりと床が軋む音がした。無論、部屋の中で。

 私はもちろん一人暮らしである。鍵もしっかりと閉めた。私は優秀な脳細胞達を総動員させて考えた。その結果ひとつの結論に至った。

「ああ!幽霊だ!存在したのか!」

 気持ちの高揚とはオソロシイものである。その時の私は恐怖よりも好奇心が勝っていたのだ。しかし、口も動かないため耳をすますことしか出来ないから何とか幽霊を感じることにした。ぎしりぎしりと軋む音は私の部屋の至る所で聞こえる。どうやら幽霊の野郎は徘徊しているようだ。人様の家で不躾な奴だ。

 もっと詳しく音を拾うため耳に全神経を集中させた時であった。全身の毛が逆立つのを感じた。

 隣にナニカいる。そう確信したのだ。

 部屋を徘徊しているナニカとは別である。

 私の顔の横、数センチの位置にナニカいる。それはごにょごにょと恐ろしく低い音でなにか呟いている。それが何かは聞き取れなかった。いや聞き取りたくなかったのだろう。その時の私の脳みそは恐怖という概念でパンパンになったようだった。

 恐怖に耐えかねた私はひたすらに望むことしか出来なかった。「帰ってくれ、帰ってくれ」と。先程までの好奇心は既に塵ほども無かった。

 どのくらい念じていただろうか、急に体が軽くなった気がした。血が全身を巡るのをありありと感じていた。しかし瞼は開かなかった。そして軋む音も消えているわけではなかった。

 体の緊張がほぐれたからだろうか、少し強気になった私は隣に居るナニカと徘徊するナニカに要求した。

「私は今日もバイトがあるのだ!帰りたまえ!」

 次の瞬間であった。床が軋む音はピタリと止んだ。そして


「アーーーーーーーーーーー」


「アーーーーーーーーーーー」


「アーーーーーーーーーーー」


 家が、いや大地が震える程の地を這う低音の大絶叫が部屋の至る所から私のそばを駆け巡った。幾人ものドタバタと足音も私の耳は捉えた。

 私は意外にも冷静に「そうか何人も居るのだな」と思った。私は死ぬかもしれない。死を悟ると冷静になれるものなのか。弱気になった私は体の力が抜けていくのを感じた。


 〇


 からからころころと竹同士がぶつかる音で目を覚ました。窓からは部屋全体を少々暑すぎる程の日の光が包み込んでいた。昨晩の悪夢を思い出して身震いしたがそれが夢では無く現実であったことはすぐに分かった。

 壁と天井を含め部屋を埋め尽くすようにおびただしい数の大小様々な足跡があった。そして、昨日私の横のナニカがいた場所を見ると、木の床材はぐじゅりと妙な液体を溜め腐っているのだとわかった。

 私は逃げようと決心した。


 〇


 そしてまた夜を迎えた。

 私の耳には心地よい竹の音、そして地を這うような蠢く無数の声が聞こえるだけである。

 目が覚めてから実に十五時間は経過したであろうか。私が逃げることは叶わなかった。

 外に繋がる窓、扉は何をしても開かなかった。窓を割ろうとしても傷一つつかず、扉に全身全霊を込め体当たりしても私の体を痛めるだけでビクともしなかった。焦った私は外への通信を試みたがこれも失敗に終わった。圏外であり繋がらない。私は玄関の扉に背を寄せへたりこんだ。

 ここまで来ると冷静になった。もとより生にしがみつくつもりは無かったからだ。人間死ぬ時は死ぬのだ。それが私の場合、今日なのであろう。

「好きにしたまえ」

 私がそう言うと私を取り囲むようにしていた人型の黒いナニカはゆっくりと手を伸ばしてきた。


 〇


 男は鼻腔を直撃する腐臭に顔をしかめていた。

 通報があったのが午後三時過ぎ、近隣住民から腐臭がするが普通では無いからすぐに来てくれというものであった。通報があり現場に向かったのはたまたま近くをパトロールをしていたその男だった。男は到着した際、あまりの腐臭に孤独死を想定しすぐに管理会社を呼んだ。管理会社が到着すると同時に腐臭元の住民に用があるという二十代の男がやってきた。どうやらバイトを二日無断欠勤しており心配になり来たとのことだった。

 管理会社が鍵を捻ると男は扉を引いた。無数の蝿と共にどちゃりと嫌な音がして何かが倒れ込んできた。辺りが静まり返った後、悲鳴が上がる。それは人だとも判別がつかないほどに腐敗したものだったのだ。全身の表面の肉は溶け液体状になり所々に白い骨のようなものが見える。

 男は急いで応援を呼んだ。


 〇


 あれから三週間は経過した。あの一件は孤独死ということで片付けられたがおかしな点がいくつもあった。住民を訪ねてきた二十代の男は言った。三日前まではバイトに来ていたそうだ。

 男は頭を抱えた。人の肉体とは三日であそこまで腐敗が進むのだろうか。そして部屋の中のおびただしい数の足跡と床の腐敗。

 そんなことを考えても男には意味がなかった。警視総監から直々に話があったのだ。警視総監の言葉は至極単純なものであった。

「例の件に首を突っ込むことは許さない。忘れなさい」

 警視総監はそれだけ言うと電話を切った。

 男は身震いした。タブーなのだ、日本の中でも最大に近いタブーなのだと。

 

 それ以降、男は普通に暮らした。日常に変わりはなく、いつも通りの生活を繰り返していた。


 それがある日、男が金縛りになり、瞼も動かなくなったこと、後日、体がどろどろに溶けた男の遺体が発見され、警視総監が直々に電話をかけたことは一部の人間しか知らない。

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