第17話
仕事を終えて、家に帰って、飯を食って、風呂に入って。今日の分の必要な作業が全て片付いてしまった俺は、ぎこちない手付きで鞄を漁った。
折れたり汚れたりしないよう、仕事の書類と一緒にA4クリアファイルに突っ込んでいた、それ。どこで買ったのか分からない、凝ったデザインの封筒である。
差出人がラブレターだと称したそれを、会社で堂々と開くのは、さすがに躊躇われた。だからこうして持ち帰ったわけだが、こうして改まって、仰々しく開くのも、なんか……。
(あー、変に意識するな。新藤は俺が困ってたから助けてくれようとしただけ……!)
必死で自分に言い聞かせ、封筒の中の便箋を取り出した。
「井口航大様」の書き出しで始まった手紙には、最近仕事が楽しくなってきたことや、これから頑張りたいと思っていること、そして日頃の感謝なんかが並べられていた。やや丸みを帯びた綺麗な文字で、「ありがとう」の気持ちを懸命に伝えてくれている。普段の元気な様子が文面にも表れていて微笑ましい。
後輩の着実な成長に感動していた俺だったが、穏やかな気持ちのまま手紙を読み終えることはできなかった。最後の一文に、思わず固まる。
『これからもよろしくお願いします。大好きです。 新藤由香利』
(?????)
よろしくお願いします、は分かる。こちらこそよろしく。自分の名前で締め括るのも、分かる。ビジネスメールの基本だ。
……大好き? 大好きって、なんだ? 御礼状やビジネスメールに、こんなの要るか? 見たことねえわ。
落ち着け、これはアレだ。後輩が先輩を慕っている、ってだけだ。「これからもよろしく」の後に続けて書いてあるんだし、文脈的にはそういうことだろ。きっと、そう。だから、駅で別れた時の、可愛いと思ってしまった瞬間と結び付けて考えるな……!
健闘も虚しく、見事に頭がショートした俺は、しばらくテーブルに突っ伏していた。明日、休日で良かった。週末バンザイ。
妙な高揚感は、翌日になっても完全には抜けきらなかった。ふとした瞬間に脳裏を過ぎり、思考回路をバグらせてくる。手紙って、ラブレターって、すごいな。ちょっとした兵器じゃん。おとぎ話とか都市伝説に近い存在だと思って舐めてたわ。あー……。
今日は休日だからもちろん、演奏会に向けた練習をする日でもある。一週間振りだ。俺も蓮も待ち侘びていた。
それなのに、いざ曲を吹こうと譜面を準備した瞬間、曲名の「Love letter」という部分が目に入り、盛大に動揺した。結果、音が上擦ってピッチは最悪、テンポもダイナミクスも不規則に乱れ、ブレス位置も間違えて息が続かなくなった。もはや、なんの練習にもなっていない。
終いには、曲の途中で演奏をピタリと止めた蓮に、
「きっっっしょ。何? その音」
と言われる始末。返す言葉もない。
「悪い……。あのさ、ちょっとだけ休憩しねえ?」
「始めたばっかりじゃん。もうただのサボリでしょ、それは」
「いや、やる気はあるんだよ。ただ、こう、集中できないって言うか……」
「へえ。今この状況で、練習の集中力を削ぐほど大事なことって、何?」
「っ…………」
珍しく蓮がイラついている。当たり前だ。こいつは何よりも、音楽が好きだから。目の前で中途半端なことをされれば、さぞ頭にくるだろう。
もう一度謝ると、溜め息を吐かれた。
「……本当に、どうしたの。悩み事?」
それまでのジト目から一転、こちらの様子を窺うように尋ねられる。
純粋に心配されると、申し訳ない気持ちが割り増しで込み上げてくる。悩み事ではあるのかもしれないけれど、友達を巻き込んで大騒ぎするようなものじゃない。それに、手紙に書かれた「大好き」の受け取り方に悩んで相談するって、俺、情けなさすぎるのでは? 慣れてないにも程がある。
と言うか、先週の様子を考えたら、むしろ悩んでいるのはお前のほうなんじゃ……とも思ったが、口には出さずに飲み込んだ。少なくともこいつは、練習に支障は出していない。まずは俺自身のことをどうにかしよう。
ふう、と力を抜いて、当たり障りがないように訊いてみた。
「そういうわけじゃないんだけどさ。……あ、そう言えば昨日、新藤からバルブオイルとシルバーポリッシュ貰ったんだけど、お前が教えたんだってな?」
「え? ……ああ、うん。訊かれたから、答えた。前に言ってた『残業して一緒に飯食った同僚』って、新藤ちゃんだったんだね」
新藤ちゃん、て。部署も違うのに、すげえ仲良くなってね? コミュ力お化け共め。二人共、内勤より営業とかのほうが向いてるんじゃねえか?
「何、告白でもされたの?」
「……は!?」
楽器の音色だけじゃなく、自分の声色まで見事に上擦った俺に、蓮が憐れむような視線を向けてくる。やめろ、そんな目で見るな。
「分かりやす……。まあ、それは新藤ちゃんも同じだけど」
「いやいやいや! 新藤は俺を、先輩として慕ってくれてるだけだろ……!」
「何言ってんの? 仕事や飯の礼なんか、缶ジュース一本でも十分なわけじゃん。なのに、わざわざ俺に、お前の喜びそうなものをリサーチしてきたんだよ? ちゃんと役に立つものを渡したいから、って。そんなの、好きじゃないとやらないでしょ。馬鹿じゃないの、お前」
「う……」
悪口なのかアドバイスなのか微妙なラインの正論を並べられ、今度こそ本当に返す言葉がなくなった。何故だか、蓮はまた、少しイラついているように見える。
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