第10話

 カタカタ、カタカタ、カチッ。


 キーボードやマウスを叩く音が、あちらこちらから聴こえる。隣からも、正面からも、後方からも、自分の手元からも。毎日、最低八時間、絶え間なく鳴り響くこの音。何十年も聴き続けていたら、そのうちおかしくなりそうだ。


 会社の便利屋みたいな立ち位置の総務部には、日々いろんな業務が降りかかってくる。備品チェックやら、メール・電話対応やら、勤怠管理やら、社内報の作成やら、秘書業務やら、他の部署の手伝いやら、いろいろ。「どんな仕事をしているの?」と聞かれて返事に困る部署の、トップ3くらいにはランクインできるんじゃないだろうか。


 俺は別に、この仕事が嫌いなわけではない。自分一人の力で大きな仕事をこなすのも、やり甲斐があるとは思うけれど、個人的にはそういう大きな仕事に取り組む人たちを支える裏方業務のほうが、自分には合っているような気がしている。だから今日も、いつも通り淡々とキーボードを叩くのだ。


(ふんふんふーん、ふふふふふふーん……)


 脳死でできる簡単なデータ入力をしながら、頭の中で「Trumpet Love letter」の主旋律を歌う。気を付けないと鼻歌や声が実際に出てしまうので注意が必要である。現に数分前、同僚から「機嫌良いな、彼女でもできた?」と訊かれてしまった。


 俺が借りている物件には防音環境なんて整っていないから、自由に楽器を吹くことはできない。できるのは精々、譜読みや音源を聴き込むことくらいだ。曲を決めてから数日、ひたすらそれだけを繰り返しているので、主旋律はほぼ頭に入った。早く、楽器でも演奏してみたい。


 俺も蓮も定時で上がれれば、一度家に帰って楽器と楽譜を回収し、あいつの家に行って一緒に練習することができる。だからなるべく、残業なんてしたくない。


 練習時間を確保するべく、どんどん仕事を片付けていた、その時。


「あの……すみません、井口さん。少し、よろしいでしょうか?」

「はい? ……ああ、新藤しんどうか。どうした?」


 名前を呼ばれて振り向けば、半年前に異動してきた後輩、新藤由香利ゆかりが立っていた。俺より二つ年下で、ぶりっ子ではないが愛嬌のある女性社員だ。


 その新藤が、クリップで留められた書類の束を抱えて、どう見ても困った表情を浮かべている。


「先ほど課長から、制作した資料のフィードバックをいただいたのですが、何を指示されているのかが分からなくて……」

「どれ? 見せて」


 受け取った書類の束には、一枚一枚に付箋が貼り付けられており、そこに資料の改善点が書き込まれているらしかった。ネタにもしづらい、絶妙に下手な字。間違いなく課長の直筆である。


(フィックスさせることとペンディングさせることをしっかり区別し、プライオリティを振り分ける。サジェストには余計なバイアスをかけないようエビデンスを揃えた上でファクトを示す。その為には普段から自分のナレッジベースを充実させ…………馬鹿か)


 上司の悪癖が全面に出た文面に、頭が痛くなった。


「えーっと、要するに、物事の優先順位を見極めろ、提案する時は客観的な証拠に基づく事実を述べろ、普段から勉強や情報収集を欠かすな……みたいなことを言われてるんだと思う」

「そ、そうなんですか!? 井口さん、よく分かりますね……」

「もう、慣れだよ」


 課長は、仕事中でも日常生活でも、やたらとビジネス用語を使いたがる人物である。俺も新人の頃は、何を言われているのか全く分からず混乱したものだ。相手に要点が伝わらない言葉に、なんの意味があるというのか。


「すみません。私、こういうカタカナ語? ビジネス用語? みたいなのに疎くて……。でも、課長が使用を推進しているのなら、部下である私も普段から使えるようにならないとですよね」

「いや、そこまではしなくて良い。あの人のは意識が高いと言うより、覚えた言葉をすぐに使いたがる子供に近いやつだから。真似する必要ねえよ」

「でも……」

「本当に必要なのは、難しい言葉を使いこなす能力じゃない。難しい言葉を噛み砕いて、誰にでも分かる言葉に変換する能力だ。まあ、他の社員も会議で使うような頻出単語くらいは、覚えても良いかもしれないけどな」

「! な、なるほど……」


 すぐさまメモ帳を取り出し、さらさらと書き込んでいく新藤。うん、言われたことを取りあえずメモするのは、良い習慣だ。後から何度でも自分の中で反芻して、しっかりと身に付けることに繋がる。感心、感心。


 書類の束と一緒に、俺は自分のデスクの引き出しから取り出した一冊の書籍を手渡した。


「ほら。一緒に持っていけ」

「これは……ビジネス用語辞典、ですか」

「そう。こういうの持ってると便利だから、今度探してみ。今日は貸してやる」

「あ、ありがとうございます!」


 ガバッ! と音が鳴りそうな勢いで頭を下げ、新藤は自分のデスクへ戻って行った。やる気のある後輩は、見ていて気持ちが良い。俺も負けていられないな。


 軽く背伸びをしてから、自分の業務を再開した。




 翌日、始業前。


 PCを立ち上げて今日の作業を確認していたら、新藤に声をかけられた。手には昨日貸したビジネス用語辞典を持っている。


「おはようございます、井口さん。昨日はありがとうございました。こちら、お返ししますね」

「おはようございます。もう良いのか?」

「はい。昨日の帰りに本屋さんに寄って、自分のを買いました」

「おお、行動早え……」

「あと、よろしければ、こちらもどうぞ」

「?」


 辞典と一緒に、見覚えのある菓子のパッケージを渡された。近くのコンビニで売っている、チョコレートクッキーだ。


 女性社員から菓子を渡されるのは、初めてじゃない。むしろ、よくある。ほとんど全部、俺宛てではないけれど。


(「早川さんに渡してください」ってパターンか。久しぶりだな。今月、初かも)


 モテるのは勝手だが、俺を経由するな。そう思うものの、口に出したことはない。これも一種の慣れである。


 部署が違えば接点も無いだろうし、そんな相手からいきなり菓子やら連絡先やらを渡されたって、受け取りづらい。本人の知り合いを経由するという手段に出るのも、道理なのだろう。俺はただ、間に入るだけ。経由地点に感情は要らないのだ。


「ああ、うん、分かった。ちゃんと蓮に渡しておくよ」


 いつも通りにそう返すと、新藤は不思議そうに首を傾げた。


「え? ……蓮さん、ですか? すみません、どなたでしょうか……?」

「は? え、これ、蓮に渡して欲しいんじゃねえの? 俺の同期の、早川蓮」

「早川さん…………ああ! たまに、タイムカードの押し忘れで謝りにいらっしゃる方ですね!」

「そんな覚えられ方してんの、あいつ……」

「目が合うとニコニコ笑って挨拶してくださる、素敵な方ですよね」

「あー……そう、らしいな。知らんけど」

「でも、これは私から井口さんに、です」

「!」


 柔らかい笑顔と共に菓子を差し出されて、普通にドキッとしてしまった。落ち着け俺、これはただの礼だ。変に意識するほうが気持ち悪いだろ。さらっと受け取れ……!


「……ああ、ありがとう。今日も頑張ろうな」

「はい。引き続き、ご指導よろしくお願いします!」

「お、おう……」


 ハキハキ告げて自分のデスクへ戻って行く。なんて言うか、ノリが体育会系なんだよな。文化部出身の俺には、正しい返し方が分からない。ただ、とても素直で良い奴なので、接しづらいとも思わない。不思議な後輩だ。


 自分ではなかなか買わない菓子を一枚、包装から取り出して口に放り込む。生地の軽い食感とチョコの甘さが混ざりながら、体の奥へ流れていった。

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