炭酸飲料とメッセージ。

 次の日も、その次の日も、そのまた次の日も。

 黒子さんは変わらずゲームセンターに居た。


 九九戦全敗。

 黒子さんと出会ってから三週間が過ぎたその日、僕と彼女の対戦回数はついに三桁の大台に乗ろうとしていた。

 もう見飽きた敗北画面を前に、僕は悔しさを滲ませるわけでもなく、先の対戦を分析していた。

 一〇〇戦近く同じ相手と戦っていると、嫌でも相手の癖が見えるようになる。黒子さんの癖はとりわけ分かりやすくて、彼女は掴まれると緊急回避と硬直の長い二段ジャンプを連打する。

 その隙を突けば、未だ彼女に運程度でしか攻撃を当てられない僕にも勝機はあるのではないか。

 思いながら、コンテニューする。黒子さんも一〇〇戦目となる勝負に応じるようで、意気揚々とコンテニューしていた。


 ゴングが鳴る。

 互いに使用キャラは依然変わらない。

 第一ラウンド。黒子さんの癖を誘うように、わざと隙を見せて立ち回る。消極的な僕のスタイルに痺れを切らしたのか、黒子さんは一気に間合いを詰めてきた。

 それを掴み、悪癖の整合性を確かめる。


「ちょっ!?背面掴みバックキャッチ!?そんな裏コマンドどこで——」

「黒子さんが自分でやって見せたじゃないですか」


 言っている内に、黒子さんのキャラは予想通りの行動に出ている。緊急回避で掴みを振り解き、二段ジャンプで間合いを取る。仕切り直すつもりらしいが、そうはさせない。

 カカッ、とスティックを連続して入力し間合いを詰め、着地直前にリーチの長いダッシュアタックを入力する。

 ごちんっ、と鈍い音と共に黒子さんのキャラの股が金色のエフェクトを放った

金的ゴールド・ブレイク』。このゲームにおける即死攻撃が炸裂した。

 次の瞬間には黒子さんのキャラは大空の彼方に吹き飛んでいく。


「あんな判定が狭い技で金的って……どこでそんな技術身に着けてきたのよ!」

「判定が狭い分他の部位に判定を吸われにくいからこそ練習してたんですよ。狙った場所に確実に当てる練習を」

「じゃあ今までの練習だったってことでいいの?」

「見てれば分かりますよ」


 反対の筐体から身を乗り出して物申してきた黒子さんに言って返すと、彼女はむむむ……と唸りながら身を引いていった。

 第二ラウンドが始まる。 

 開始早々、黒子さんは間合いを詰めに来た。恐らく僕が計算して消極的なファイトスタイルを取っていることに気づいたんだろう。こちらに試合の流れを掴ませまいと、特攻に近い接近だった。

 中段突きをガードし、飛び退り、間合いを取った。

 着地に合わせられた蹴りを回避し、ガード。カウンター技で黒子さんのキャラを弾いて、ダウン中に接近する。

 反対方向に向き直って起き上がることを想定し、敢えて背後に回り込む。


「先読み!?」

「やっぱり悪癖ですね!安易に弱点見せすぎなんですよ——って」


 すかっ。

 僕のキャラの渾身の予測蹴りは、見事に空を切っていた。

 黒子さんのキャラは未だにダウン状態のままだ。

 まさか——、


「隙あり!」


 放たれた勝どきと共に、黒子さんのキャラが割り当てられた規定のモーションで起き上がる。その頭上には僕のキャラの即死領域ウィークポイントがあった。

 『金的返しゴールドブレイク・リベンジ』。前ラウンドで金的即死を受けた場合にのみ有効な、一気に二ラウンド分のポイントを獲得する裏コマンドだ。

 僕のキャラはやがて全身が金色に光り輝いて、弾けるように消滅した。


 一〇〇回目となる『youlose……』の文字が画面で踊った。


 ―――


「いやぁ、今日はいい線行ってたよ。初めて冷や冷やさせられちゃった」


 言いながら黒子さんは缶ジュースの蓋を開けた。

 カシュッ、と軽快な音が鳴って中から炭酸水が溢れ出る。零れないようにと厚い唇で炭酸を迎え撃ち、そのまま彼女は喉を鳴らした。

 僕も隣で同じように缶の蓋を開ける。一〇〇連敗記念に黒子さんが奢ってくれたサイダーは甘ったるくて、わざと振り回された炭酸の刺激はほんのすこしだけ弱かった。


「……そろそろ頃合いなのかな」


 炭酸水を飲みつつ黒子さんが呟いた。

 低くて暗い、ゲームをしている時とはまるで別人のような声色。多分、僕には聞こえていないと思っていたのだろう。

 僕が怪訝な声を向けると、黒子さんは目を見開いて動揺した。


「何がですか」

「え……あっ、いや。大したことじゃないよ。君とゲームやるようになってからもう一か月経つんだなと思ってさ」


 どうやら感慨に耽っていたようで、彼女は休日昼下がりの運動公園を駆け回る、麦わら帽子を被った子供たちの姿を目で追いかけていた。仄かに微笑んでいる横顔は、普段の言動からは想像できないほど儚くて、無意識に彼女の横顔だけを僕は見つめてしまう。


 黒子さんと出会ってから一か月が過ぎていた。

 漫画喫茶やカラオケで過ごすことの多かった僕の放課後は、すっかりこのゲームセンターに入り浸るただ一択だけになっていた。

 金拳にも慣れてきたが、未だに黒子さんに勝つ鮮明なビジョンは見えてこない。また新たな作戦を練り上げておく必要がありそうだった。

 幸いなことにもうすぐ『あれ』が始まろうとしているし、より金拳に費やす時間が増やせそうだ。問題は対戦相手がどれだけ暇を持て余しているかなのだが。


「そういえば黒子さんって平日の昼間もここにいるんですか?無職なんですよね」

「よくそんなデリケートな話平然と聞けるよね。君、初対面の女の子に向かってスリーサイズとか聞いたりしてないよね」

「しませんよ。というか、初対面の中学生相手にお金要求してくる方が無神経だと思いますよ」

「確かにそれは言えてるかもね」


 頷いて黒子さんはサイダーを一口煽った。ごく、と細い首筋が動く。溢れたサイダーが、その首筋を伝っていった。

 炭酸に顔を歪ませながら、彼女は再び公園の子供たちに視線を送って、腰を下ろした自販機の前で頬杖をつく。

 その隣に立ったまま、見えそうになる胸元から目を逸らして、僕も公園に視線を送った。


「うん。毎日昼間からここにいるよ。どうしたの」


 視線は、やがて僕に向けられる。

 胸元を見ないように視線を返すが、襟の開いたシャツの隙間に、藍色の線が二つ走っている。滲んだ汗か、先程流れたサイダーかが、夕暮れの朱色の弾かれて、雪色の肌の上で煌めいていた。

 思わず動揺しそうになるが堪えて、僕は答える。


「もうすぐ夏休みだから。……黒子さんがいいなら、金拳、毎日やりましょう」


 僕の言葉が意外だったのだろうか。

 黒子さんはすこしばかり目を見張っていた。

 立ち上がって、サイダーをまた煽る。今度は先ほどよりも勢いよく煽ってせいで、炭酸は彼女の首筋を一層濡らしていった。

 ぷはっ、と缶の中身を飲み干した黒子さんの表情は心なしか清々しい。

 

「うん。いいよ。じゃあ、連絡先交換しようか。ないと何かと不便でしょ」


 言って、僕らは互いの連絡先を交換した。

 黒子さんは用があるからと先に帰って、僕は彼女が飲み干した缶ジュースの後処理を何故か押し付けられた。


 彼女の飲んでいた缶の口には、赤い口紅が溶けて滲んでいた。


 ——


 暗い夜道を独り歩きながら、煙草を咥えて火を付ける。

 すぅ、はぁ。

 吐き出した煙のベールを潜ると、不意にロウガ君の姿が浮かんできた。

 この一か月で彼とは随分親しくなったように思う。

 はじめこそ口数の少ない彼のことを誤解していたけれど、いざ蓋を開けてみればなんてことのない思春期真っ只中の中学生だった。

 他の子どもと同じようにゲームは好きだし、年相応の童心だってある。本人は隠しているつもりかもしれないが、ゲームを楽しむことの出来る純粋な心を持っている辺り、彼はまだまだ子供なんだと思う。

 私はというと、ゲームはもうすっかり楽しめなくなってしまっていた。

 多分私は、んだと思う。

 ふと気がついたとき考えるのは、お金と将来と仕事の事ばかり。

 やれ税金がどうだ。給料がどうだとか。

 やれ結婚がどうだ。老後がどうだとか。

 やれ昇進がどうだ。成績がどうだとか。

 そんな事ばかりを考えている内に私の一日は終わっていって、目が覚めると次の日が始まっている。

 そんな生活に、私は疲れてしまった。


 だから私は、一か月前のある日を境に、会社に行くのを止めてしまった。

 彼には申し訳ないけれど、私は無職などではなく、無断欠勤を続けているだけの会社員だ。


 携帯を触りながら、自宅のアパートの階段を上がる。薄い鉄板で出来た階段は、踏み込む度に悲鳴を上げた。

 ピコンッ。電子音がメッセージの受信を通知する。

 受け取ったメッセージを開封する。

 発信者は、会社の同僚だった。


『黒井さん。みんな心配しているので一度会社に顔を出してみませんか。みんな黒井さんがいなくて寂しがってますよ。せめてどうして会社に来れなくなったのかだけでも、私に教えてほしいです。お返事待ってます』


 携帯の画面を弾き、メッセージをゴミ箱に投げやる。

 思いもしない建前だけの心配を向けられても何一つも嬉しくはない。そんなものに縋って救われるのなら、きっと私はもっと上手く生きることだできたはずだから。

 建付けの悪い玄関をこじ開ける。

 六畳間の狭い空間。

 それが私——黒井黒子の自宅だ。

 小さいローテーブルの上には吸い殻が摘まれた灰皿と、昨日から置かれている食べかけのポテチの袋が口を開いたまま放置されている。その隣に、どか、と買い込んだビールで重たいレジ袋に置く。

 腰を下ろして折りたたみの鏡を起こし、コンタクトレンズを外して眼鏡に掛けかえる。

 ふと、視界に何かが飛び込んだ。

 前髪の裏、額にその赤い悪魔はいた。


「うっわ……サイアク」


 ニキビだ。

 このところご無沙汰だっただけに、ひと際大きいものが額の真ん中に鎮座していた。

 これでは他人に見られてしまう。とりわけ毎日会っている彼にはこの変化は簡単にばれてしまうだろう。

 思って、明日は前髪を限界まで下ろすことを決意する。

 ——そういえば……。

 彼とは連絡先を交換したのだった。

 思い立った時には行動に移されていた。『いま何してた?』メッセージを送る。

 ピコンッ。受信音は想像の数段早く鳴った。


『金拳のAretube見てました』


 淡白な返答。

 らしいと言えばらしい反応に返信する。


『勉強熱心なのはいいけど、学校の勉強は大丈夫なの?』

『問題ないです。無職に心配されたくないです』

『ほんとうにぃ?嘘はよくないよ?』


 嘘をついているのは私の方だ。本当は無職なんかじゃないのに。

 無断欠勤を続けているなんて、どう説明すれば彼は理解してくれるだろうか。

 ピコンッ。私のメッセージを無視して動画が送られてきた。金拳の解説動画だ。


『この即死コンボ明日当てます』

『受けて立とうじゃない』


 そんなやり取りをしながら布団に入る。

 その後も似たようなやり取りがあって、気が付くとメッセージは金拳の攻略情報で塗れてしまっていた。


 このぬるま湯じみた毎日が、ずっと続けばいいのに。


 思いながら私は、眠りについた。

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