もうゲーセンに用はない。

泉田聖

遠雷とコッペパン。

 一人でいるのが好きだった。他人と関わる必要がないから。


 一人でいても娯楽には事欠かない。

 ゲームに漫画、本にアニメ、映画も、ドラマもある。

 どれもこれも他人と関わりも持たずとも、一人で存分に楽しむことが出来る。

 よく教室のそこここから、やれ昨日のドラマが、昨日のアニメがと声が響いてくるが、僕にとってそれは耳障りな雑音に他ならなかった。他人と共有しないとコンテンツを消費出来ない彼らの感覚が、僕には理解できなかった。

 雑音から耳を塞ぐため、中学にあがって半年も経たない内にイヤホンをすることが多くなった。

 聴こえてくるのは、少し古い、皆にはもう『過去』になってしまったバンドの曲。心の有り様を殴り書いたような詩の音楽があれば、『一人』も『独り』とは感じることはなかった。

 次第に周囲も僕には寄り付かなくなって、教室にいる必要もなくなった。授業以外のほとんどの時間を、僕は屋上前階段の踊り場で過ごすようになった。


「——ねぇ、朗河ろうが。これ、前から欲しがってたでしょ」


 その日は、忙しない冬の日だったことをよく覚えている。

 母と二人。こたつに身を寄せ合いながら。

 言いながら母さんが僕の前に差し出してきたのは、見かけからでもわかるほど大げさな赤い包装紙。

 外は雪が降っている。

 クリスマスプレゼントだ。中学にあがる頃に、そんなものはもういらないと断ったはずなのに。


「開けてもいい?」


 心の奥にしまっていたはずの童心が声を弾ませていた。

 母さんは優しく頷いて、安堵の笑みを浮かべている。中学にあがるなり口数の少なくなった僕が、まだ子供だったことが嬉しかったのだろう。

 母さんの視線を浴びながら、包装紙の紐を解く。口を開き、中にあった『箱』を掴む。

 中身を持ち上げ、包装紙の中にあったプレゼントに対面する。


「これって……」


 手にした箱をまじまじと眺めながら呟いた。

 ゲーム機だ。

 それも、ひと世代ほど昔——やっと画面から何か飛び出してくるようになった頃の。


「これでクラスの子たちとも遊べるきっかけができるでしょ?」


 母さんが言う。

 違う。

 違うんだよ、母さん。

 僕が欲しかったのは、これじゃない。

 僕が母さんに向けられたかった感情は、そんなものじゃない。


「うん……。ありがとう。大切に使う」


 思っても、言葉にすることはない。

 女手一つで僕を育ててくれている母さんの心を傷つけることは出来なかったから。

 けれど飲み込んだ怒りにも似た感情は、喉の奥に小骨のようにつっかえていた。

 母さんはきっと、僕が一人でいることを貧しい家庭環境の所為で周りとの共通点を持っていないからだと思っている。


 本当は、僕がそうあることを自ら選んだだけなのに。


 その日、母さんから向けられた憐憫が脳裏を離れることはなくて。

 僕は次第に、母さんからも距離を置くようになっていった。


 ―――


 中学二年にあがる頃には、僕はすっかり他人と関わらなくなっていた。

 朝。母さんが帰宅するより前に家を出て、学校に向かう。

 日中。授業以外の時間は屋上前の踊り場か、図書室で時間を潰す。

 夕方。カラオケか漫画喫茶で、夜になるのを待ってから帰宅する。

 朝は日の出と共に起き、昼はタスクをこなし、夜は一人を満喫する。

 他人と関わるという『無駄』を極限まで削ぎ落した日々。

 こんな夢のような時間が永遠に続けばいいのに。

 そう思っていた。


「飽きたな」


 それは突然やってきた。

 梅雨入りした空がごうごうごろごろと煩くて、蒸されるような暑さにシャツのボタンを外したことは忘れもしない。

 放課後。

 いつものようにカラオケで時間を潰そうと考えていた矢先に光った遠雷のように、ぬるま湯じみた日々は突然終わりを告げた。

 カラオケはいつも同じ曲を歌ってばかりで、軒並み自己最高得点をたたき出してしまっている。

 漫画喫茶も初めこそ飽きることはないと確信していたが、漫画も映画も、ひとつまたひとつと作品を重ねていく度に味気がしなくなった。……いや、これは僕の目が肥えてしまって並大抵のものでは心が擽られなくなってしまったからだろう。

 さてこうなると困ったもので、やることがない。

 放課後学校に残るという選択肢は、まず在り得ない。勉強を授業の範疇で充分に追いつけているのに追い込みをかける意義が見出せなかった。部活なんて言わずもがなだ。

 傘を差したまま門扉の前に立ち尽くし、携帯の液晶と睨めっこする。

 学校の人間とプライベートでは会いたくないし、極力自宅も遠い方が好ましい。

 嫌味のように自宅も学校も街の中心にあるせいで、地図に浮かび上がる娯楽施設のほとんどはその条件を満たしていなかった。

 だが、一点だけ。

 街の中心街から外れ、住宅街からも遠い場所にある娯楽施設があった。


「……ゲーセン」


 自宅からも学校からも遠い商店街の外れにあった、盲点だった選択肢。

 今日はここにしよう。

 意を決して、学校を後にする。



 バスで四半時あまり移動して、そこから更に一〇分ほど歩くと広い運動公園が見えてきた。

 その傍らに。

 周囲の建物からは少し浮いた出で立ちの、いかにもな建物があった。

 見たところ人気は少ない。

 街の中心街からはさほど遠くないというのに、若者や学生の姿は見受けられない。

 穴場中の穴場だった。

 内心で大きく拳を握りながら、久しく入っていなかったゲームセンターという娯楽施設に足を踏み入れる——。


 雑多な音色が鼓膜を震わせる。

 心臓に響く音の節々が、心を自ずと高揚させた。


 クレーンゲームには限定品のぬいぐるみがずらりと並んでいた。

 誰かが志半ばに諦めたのだろうか。不格好にひっくり返ったぬいぐるみを、店員がちょうどもとの位置に戻している。

 リズムゲームには忙しなくバチを振るう高校生が並んでいた。

 目にも留まらぬバチ捌きで、コンボを一〇〇、二〇〇と重ねていく。汗が流れる程熱中しているようで少し馬鹿馬鹿しく感じたが、次第にその熱量が伝わってきて、知らず鼓動が早まっていった。

 一階をぐるりと巡ってから、今度は二階に上がる。

 小さいゲームセンターだが、ゲームの種類はそれなりに豊富らしく、見るだけでも胃がもたれてしまいそうになる。

 二階にはいったいどんなゲームがあるのだろう。

 期待を膨らませながら階段を上がっていく。

 その時だった。


「だぁ!?こっちが先に出しただろ!発生長すぎんだろ!?ちょっ、それやめろ!掴むなやごらぁぁぁ!」


 格闘ゲームの音を掻き消して怒号が、二階フロアに鳴り響いていた。

 阿鼻叫喚。叱咤怒号。

 なるほど『これ』が原因で穴場なのかこの店は。

 確信するのと共に、格闘ゲームの台に向かって叫びを繰り返す女性とは目を合わせぬように、フロアの対岸にあったコインゲームの席に着いた。

 彼女が叫び続けている限り、この二階フロアに人が近づいてくることはないだろう。

 一見迷惑極まりない彼女の存在を逆手に取りながら、コインゲームを連続する。

 ああいう輩とは関わりを持たなければいいのだ。

 そうやって生きてきた。

 きっと僕は、これからもそうやって生きていく。

 これでいい。


「……ぇ、…ぉ…ぃ」


 これが僕の生き方で、誰にも邪魔はされな——、


「ねぇ、そこの君」


 声は突然、イヤホンを貫いて飛び込んできた。

 否。イヤホンは外されていた。

 誰が——などと疑念を抱く間もなく、イヤホンを引き抜いていった張本人がこちらを見つめていた。


 艶やかな癖のない黒髪。

 吸い込まれそうになる真っ黒い双眸。

 唇の端には銀色に光るピアスがあって、左耳は皮膚より金属の方が多く敷き詰められている。

 黒いオーバーシャツの胸元は大きく開いていて、膨らんだ胸を支える赤い下着がちらつく。

 ぐい、と近寄ると甘ったるい香水の香りと共に顔を顰めさせる煙草の匂いがした。


「一〇〇円。貸してくれない?」


 この店が穴場である原因が理解できた気がした。

 と、同時に突然見知らぬ女性から声を掛けられたことに困惑している深層の自分が浮上してくる。


「えっ、いや。……なにを」


 女性はきょとんと、目を丸くする。


「一〇〇円だよ。一〇〇円。今日のお小遣い使い切っちゃてさぁ。いやぁ、まいったねぇ。煽られると理性が銭と一緒にランデブーしちゃってさ。この通り……!」


 両手を揃えて中学生に金をせびてくる成人女性——煙草の匂いから察するにそうでないと困るのだが——は、コンテニューがどうだ言っているが、率直に言えば知ったことではなかった。自己責任であろう、と至極真っ当に女性に腹を立てている自分が頭の片隅で貧乏ゆすりしていた。……のだが、


「じゃあ、一〇〇円だけ……」


 理性がそれを上回っていた。

 この女だけは何とかして遠ざけねば、と財布から一〇〇円を恵みを待つ女性の掌の上に置いてしまっていた。

 ぱぁっと女性の表情が明るくなる。


「ありがとう!マジで助かるよ!あとでお礼するからね、ちょっと待っててね!」


 言って格闘ゲームの台に向かって走り去っていく女性。

 その後ろ姿を見送って、女性が格闘ゲームの席に着いたのを確認するのと同時に席を立つ。

 一刻も早くこの場から去らなければ、と脳裏で警報が鳴り響いていたからだ。

 こんな危険人物の居る場所に居ては、僕の理想の一人の時間は掴み取れない。

 もっと一人になれる場所があるはずだ。ここである必要はない。

 次はどこに行こう、どうしたら一人になれるのだろう。

 思いながら、念じながら。


 僕は、もう用はないゲームセンターを後にした。



 バス停。

 音楽を垂れ流して取り戻した平常心と共に、帰りのバスを待っていた。

 とんだ災難だった。

 今日は厄日だったのかもしれない。

 慣れないことをしたせいだ。

 明日からはまたこれまでと同じ毎日に——味のしなくなったガムのような日々に戻ろう。

 ちょうど定刻通りに近づいてきたバスを見やる。


 刹那、コッペパンが空を切ってこちらに迫っていた。


「うぐっ!?」


 虚を突いて視界に飛び込んできたそれに、顔面を叩かれる。

 幸い、物が物なだけに痛みは少ない。

 それでも何故、突然そんなものが空を切り裂いてきたのか状況を理解出来なくて、混乱する。

 地に伏したコッペパンも衝撃でくたびれてしまって、臓物を隙間から零していた。

 などと悠長なことを考えている暇などなく、コッペパンを空に放った犯人を捜す。誰だこんなに食べ物を粗末にする者は。育ちの悪さが伺えるというものだ。

 やがて視線を向けたその先に居たのは、


「ちょっとそこの君!待ってなって言ったでしょ!どうして先に帰っちゃうのさ」


 あの女性だった。

 肩が激しく上下している。この土砂降りの中、傘を差していないから服はびしょ濡れで、躯体の輪郭が浮き彫りになっていた。

 驚愕のあまり声も出せないこちらの気など知らず、女性はとてとて歩いて来て、自らが投げたコッペパンを拾い上げる。

 停まっていたバスには乗らないと勝手に断りを入れて行かせ、女性はバス停のベンチに我が物顔で腰かけた。ずぶ濡れになった上着と髪を絞って、僕に目配せしてくる。


「どうしたの。座んなよ」

「いや……僕は」

「いいからいいから」

「……」


 断ることは出来そうになくて、大人しく隣に腰かけた。

 見やると女性はパンを封の中で千切っていて、ずぶ濡れなまま呑気に鼻歌を歌っている。聞き覚えのある耳に馴染むその歌は、僕が良く聴くバンドの音楽だった。

 ほんの僅かに動揺した僕の気など知れず、女性がパンを手に取り差し出してきた。


「さっきのお礼」


 言いながら差し出されたパンを受け取る。


「お金なかったんじゃ……」

「ああ。あれは現金の方ね。ゲーセンは電子マネー使えないからね」


 言って女性はパンにぱくつく。


「……」

「……」


 暫時、互いを探る沈黙があった。

 呆れるほど長い沈黙が続いた後で、それを破ったのは女性の方。


「ねぇ、君ってさ」


 言った女性の顔を見返す。

 どこか物憂げな、侘しさを湛えた表情。

 ゲームをしているときはそんな顔はしていなかったのに。

 けれど向けられた感情は、いつかの母さんとはまるで違うものだった。


「もしかしてひとりぼっち?」

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