第6話 初めてへの戸惑い
テオドール・ラングレーは自分の部屋にある本棚の一番上にぽっかりと空いた隙間を眺めていた。
本来ならそこには『リジエット』と呼ばれる古典詩集の原本が入るはずだった。幼いころに祖父の部屋で見つけ、欲しいとねだっても貰えなかったもの。遺品整理の際に出てきて、やっと譲り受けることが出来た。気に入った本は部屋にある本棚に飾ると決めている。『リジエット』もまた、その予定だった。
『すごい、本物だわ……』
自分に目もくれず、テーブルの上におかれた希少本をうっとりと眺める女性を思い出す。友人であるアルテリアの姉で名をフィオナといい、年は四つか五つ離れていたはずだ。ローズ邸でフィオナに会う前に図書館で会った事も記憶からひっぱりだす。
『申し訳ありません、わたくし、まだミセスではないんです』
困ったように眉を下げて言うその姿と言葉は、どうしようもなく情けないような羞恥まで呼び起こした。聡明なのにでしゃばらない、その上見目だって悪くない。そんな年上の女性が未婚だなんて思いもしなかった。この国では女性の結婚適齢期が十六歳からだからといって決め付けで失礼なことを言ったにもかかわらず、気にしていないようにきっちりとした礼を執って去っていった背中はピンと伸びていた。
借りたい本を借りて、家に帰る途中で出会った友人に誘われるがままに夜会に参加したのはその友人のブロンドが彼女と近い色だったからかもしれない。
「まさか君が夜会に参加するなんてね」
「お前が誘ったんじゃないか」
「そうだよ、でもいつもは誘ったってこないじゃないか」
二人で会場の端でウィスキーのグラスをあおりながら軽口を叩き合った。どうやらその夜会にはアルテリアの『運命の女性』は居なかったらしい。誘われるままに参加した夜会はやはり楽しいものではなかった。珍しく参加したテオドールや社交界で人気のアルテリアに女性たちは群がるし、女性たちを奪われた男たちは二人に嫉妬の目を向ける。何が楽しいのか、と半ば呆れに近い感情を抱いたテオドールに気づいたのか、アルテリアは夜会から抜け出そうと誘ってきた。
いいのか、と聞くと楽しげに「久々に二人で飲もう」と笑う友人に、仕方ないと渋々従うフリをして会場を後にした。
二人で飲むとき、普段ならばテオドールの家か貴族用のバーを使うがこの日に限ってはどちらも都合が悪かった。
「お前の家はどうなんだ?」
「うちか、……この時間なら大丈夫かな、いいよ、うちで飲もう」
テオドールの提案に少し悩んだあと、アルテリアが頷き歩き出した。貴族と言えば移動に馬車を使うものだが、二人はいつも歩ける距離は自分の足で歩いていた。そんなところも気があった。
二人の出会いは遡れば王立学園の頃になる。筆頭公爵家の嫡男でありながら見た目も成績もよいテオドールと、軽薄に見えるけれど温厚でやさしいアルテリアは人気を二分していた。しかしそんな二人が仲良くなることはないだろうと周囲は思っていたのだが、授業でペアになったことをきっかけに二人は急速に仲を深めた。それ以来の仲であるが、テオドールはアルテリアの姉の存在は知れどその人となりなどは知らなかった。
誰にでも優しく温厚なアルテリアだが、どこか一歩踏み込ませないようなところがあって、もしかすると姉のことはその中にあったのかもしれない。
「そうだ、家からウィスキーを取ってこよう」
「ええ、いいよ別に。うちにもあるから」
「いいものが手に入ったんだ、先に行ってくれ、あとで向かう」
アルテリアの家に向かう途中、そういってテオドールは道馬車を拾った。道馬車なんて下級貴族か平民しか使わないのに、テオドールはそれもまた気にしない。図書館での女性との出会いと、久々に友人と飲むことに少し浮き足立っていたのかもしれない。家に帰り着くなりメイドに指示をしてウィスキーを取ってきてもらって、待たせた馬車でそのままローズ家へと向かった。
そして、テオドールとフィオナは出会う。
フィオナが出て行ったドアを見つめながらも、テオドールの頭の中の混乱は治まってはいなかった。学会で発表されている論文を知っていて、礼儀も知っていて、平民にも気を使える。アルテリアと同じブロンドと薄紫の瞳はきらきらと美しいし、浪費家や不道徳者でもないという。そんな彼女が結婚していない理由がわからなかった。アルテリアは「運命の相手なんて簡単には見つからない」といったが、彼女であればそんなものすぐに見つかりそうにも見えた。
「テオ、きみもしかして姉さんに興味があるのか?」
「興味? いや、その、そういうわけでは」
「なるほどなるほど、安心したよ、きみも一人の男だったってわけか」
「やめろ! 何を笑っている!」
目を細めて楽しそうに笑いながらアルテリアがテオドールを見据える。居心地悪そうにしながらも声を荒げる姿は、アルテリアもなかなか見ることが出来ないものだった。公爵家嫡男として育てられたテオドールが感情を表に出すなんて殆どないといっても過言ではない。
それほどまでに心動かされるものがあったのだろうと、アルテリアは一人頷く。そしてそんな感情、ひとつしかないことも、知っている。
「……帰る」
「もう帰るのかい? まだ日付もかわってないよ」
「用事を思い出したんだ」
「そうか、それは残念」
テオドールに意外と子供っぽいところがあると知っているアルテリアは、肩を竦めながら立ち上がった。見送るためだ。テオドールは不機嫌そうな表情のまま門の前まで歩き、そして立ち去る前に一冊の本をアルテリアに差し出した。それは、『リジエット』の希少本だった。
「これ……」
「君の姉上に。その、随分と興味深そうに見ていたから」
「いいのかい? だってこれは」
「いいんだ。うちに本はいくらでもある」
半ば押し付けるようにしてテオドールは歩き出した。暗い夜道、点々と明かりが灯ってはいるが、とっぷりと日は落ちている。馬車を呼ぼうかとアルテリアは言ったけれど、それも突っぱねてテオドールは一人で帰ることを選んだ。
(何故気になるのか? そんなことわからない)
帰路に着きながら、頭にちらつくブロンドと薄紫を思い出していた。今まで会ったことのないような女性、いままで知らなかった感情。こんなにも整理がつかない思考は初めてだった。
家に帰りぽっかりと一冊分だけ空いた本棚を見上げて、それでもかまわないと思えた。あそこに入るはずだった本を手にした彼女は、どんな表情をしただろうか。嬉しそうに笑っただろうか、それとも申し訳ないと眉を下げた? そのどれでも、喜んでくれればいいと思う。
アルテリアからディナーの招待を受けたのは、その翌日のことだった。
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