5章 もう一つの幕間

「――……お体に障りますぞ、若」

「…………ああ」


 答えるのが遅くなったのは、別にわざとというわけではなかった――

 夜更けのエアフロントを乾いた風が吹き抜ける。フリッサが見つめていたのはその先にある何もない空だ。ただの広間とも言えるエアフロントから、何もない夜の空を見ていた。

 もう二度と見ることもない空だ、などと。皮肉に思うのは、自分がどこまで行っても彼らの敵にしかならないからだろう。“作戦”が始まれば――そして終われば、もう二度とここに来ることもない。

 つまらない島だったと内心でこき下ろしてから、フリッサは背後を振り向いた。

 作戦決行日を明日と定めてから、聞き分けのいい部下共は既に眠りについている。起きているのは聞き分けの悪い部下――つまりは目の前にいたジョドスンだけだ。

 この寒空が辛いのかコートを着込んだその後見人は、いつもの仏頂面でいつもの通りに、それが役目だと言わんばかりに苦言を呈した。


「いささか、早急ではありませんかな? 我々の退去予定日まで、あと四日はある計算ですが」

「そいつはあのお嬢さんの恩情だろ。気分が変わってすぐ出てけって言われんのは面白くないよ。空賊の件でも睨まれてるのは間違いないしな」


 ジョドスンにそう言い返す。彼が言ってきたのは、このセイリオスからドヴェルグ傭兵団が退去しなければならないタイムリミットのことだ。

 不時着を偽装し、フライトシップの修理のためと銘打ってもぎ取った逗留期間。本来その時間はスバルトアルヴのノブリス“ロア”の捜索・奪還と、生意気なムジカ・リマーセナリー殺害に充てられるはずだった時間だ。

 そのどちらも道筋は既に立った。であるなら、もうここにいる理由はない。

 視線をジョドスンから外して、フリッサはドックのほうを見やった。ドヴェルグたちの家とも言えるフライトシップはまだ修理中だ。だが壊れているのは見た目だけで、核となる部分は既に復旧済み。奇襲を見込むなら今が最善の状態だ――

 それは“作戦”を説明した際に伝えていた。それでもこうしてジョドスンが言ってくるのは……


(やっぱり、小言こそが自分の仕事だとでも思ってんのかね?)


 それは口にせず、代わりの言葉を呟いた。


「ノブリス“ロア”は見つからず、。ムジカ・リマーセナリーはあいつが逃げられない状況に誘い込んでから殺す。それだけだと“ロア”奪還失敗を理由に折檻コースだろうから、――言葉にすれば、随分と楽な仕事になったか?」

「さあて、どうでしょうかな……レティシア・セイリオスがどこまでやるか次第でしょうな。彼女が私の上を行くようなら……」

「……“管理者の血族”、ねえ……」


 ジョドスンの重い声音に、口の中で舌を転がすようにつぶやく。

 これまでいくつも危ない橋を渡ってきたが、今回だけは別格だと感じる。敵は浮島の管理者――つまりはこの空の支配者だ。人類が空へと上がる以前にいた、未来視の一族。メタルの脅威に晒され続けてきた人類を、彼らの血を引いた者たちが何百年も存続させた。

 その一つに今、弓を引こうとしている――笑えたのは、そんな選択をドヴェルグにさせたのが、この空を守るべきノーブルであるということだが。

 皮肉に頬が歪んだが、夜気がすぐに嘲りを冷まさせた。連中を笑うことはいつだってできる。そんなことよりもジョドスンに訊ねた。


「実際のところ、どれほどのもんだ? あのお嬢さん、お前より上か?」

「はてさて。今のところ、大仰に動いている様子はありませんな。既に手札を用意し終えてるのかもしれませんが……微妙なところですな。なにしろ私は、既に衰えたロートルなもので」

「それでも役には立ってきた。お前の“勘”が当てにならんのはキツいよ」


 これまでも、何度かジョドスンの“勘”に救われてきた――スバルトアルヴの管理者の血、そしてそれがもたらす力にだ。

 管理者を辞した今も彼はその力を有している。衰えたとは言うものの、フリッサたち凡人には理解のできない世界だ。


(理解できない、といえば――)


 この男が、どうしてドヴェルグ傭兵団の副官になったのかもやはり理解はできないのだが。

 管理者の血族は当たり前の話だが、この世界で最も尊ばれるべきものだ。王なきこの空において唯一未だに否定されていない権威とも言える。望めば何でも手に入る、というのは言い過ぎでも、大抵のものは欲することができる立場だ。

 少なくともこんな汚れ仕事を押し付けられるような身分ではない。なのにどうして、この男がここにいるのか――その答えを、フリッサは持たない。

 そんなことを考えている間に、数秒の間が開いた。

 その沈黙を挟んでジョドスンが訊いてきたのは、これだ。


「勝てませぬかな?」

「…………」


 任務を失敗するかどうか――というよりは、ムジカ・リマーセナリーに対しての言葉か。当てこすりや挑発の類の言葉だ。

 仏頂面の男がわずかに口端を吊り上げてるのを見て、このジジイは……と呆れた目を向ける。

 乗せようとしているのはわかっていたが、それでも肩をすくめて告げた。


「大したこたねえよ。アイツの動きはもう見た。確かに苦戦はするかもだが、その程度だ。囲んじまえば、ドヴェルグの敵じゃない――負けるなんてこたねえよ」

「なら、大丈夫でしょう。最悪でも、致命的な失敗にはなりますまい」

「……それは“勘”か?」

「ええ。これは自信がありますぞ? それに……レティシア様もまだお若い。管理者同士の争い方を、彼女は知らぬでしょうからな」


 自信満々に言うジョドスンに、フリッサは呆れたため息をついた。彼がそこまで言うのなら、問題はないだろう――

 だが念には念をだ。フリッサは訊いた。


? 自分で尻拭わせる手はずは大丈夫そうか?」

「おそらくは、大丈夫でしょう。機体奪取の段取りも整っております。。時間も有り余ってましたからな。運び込んだエネシミュで、訓練も積めたことでしょう……一の矢の役目として不足はないかと」

「それでうまくいってくれたら、苦労もないんだがね」


 突き放すように告げてから。

 フリッサは深々と、ため息をついて空を見上げた。こんな時に感じるのは、どうでもいいからこそ気が滅入る悩みだ。


「兄上が知れば、さぞかしブチギレるだろうな」

「今時珍しい、公正なお方ですからな。どうしてスバルトアルヴに生まれてきてしまったのやら……巻き込むのは気が引けますかな?」

「いいや。というより、巻き込んでおかないと危ういだろうな」


 つまりは、政治だ。本島のノーブルよりも、傭兵のほうがそんなことに気を使っているのだからバカバカしくなる。

 だが大事なことだ。立つ鳥跡を濁さずなどというが、傭兵は鳥ではない。何かを必ず踏みにじる、それが傭兵だ。だからこそ濁し方には気を使わなければならない……

 うんざりと息を吐いてから、空を見上げたまま告げた。


「話がそれで終わりなら、もう戻れよ。俺はもうちょいここでのんびりする」

「ですが、若。この夜気は冷えます。お体に障ると――」

「頼む。今は一人にさせてくれ」

「…………」


 さほど強く言ったつもりはなかったが、言葉にすれば想いの欠片くらいは察するのだろう。

 視界の外で一礼の気配だけを残すと、ジョドスンはそのまま去っていった。

 暗い夜の中、一人取り残されて物思いにふける。といって、懸念事項はもうほとんどない――だから心を占めたのは、敵のことだった。


(……ムジカ・リマーセナリー。三年前に突如として現れた、ラウル傭兵団の最大戦力。こなした依頼は数知れず、単騎で全ての任務をほぼ完璧に遂行……たかが十五のガキがねえ?)


 目を閉じれば思い浮かぶのは、何事にも動じない生意気なクソガキの顔だった。

 気に食わない、と素直に思う。第一印象自体はさほど悪くはなかった。今は最悪だ。憎しみというほどに強くはない――だが胸の内に宿っているのは嫌悪と怒りの感情だった。


 ――何が楽しくて、あんたらはそんなクソみたいな連中の命令聞いてんだ?


「……楽しいわけがあるかよ」


 記憶に甦った声に、吐き捨てるように呟いた。

 そういう生き方しか選べなかった。これ以外に選べる道などなかった。生まれた時にはそうなることが決められていて、未来も、尊厳も踏みにじられてなお従うしか生きる術がなかった。

 どれだけ屈辱にまみれようとも。どれだけ恥辱を味わおうとも。足蹴にされ、踏みつけにされ、唾を吐きかけられ、血反吐を吐くほどに酷使されても傭兵を続けてきたのは、それしかフリッサにはなかったからだ。

 人を騙し、人を殺し、人から奪うことこそが生だった。そうして得たもの全てをノーブルにむしり取られてきた人生だった。

 この空はクソだ。未来などない――それでも、生きるためにそれをやってきた。


 ――それをあいつは嘲った。


(同じ傭兵として、わかりあえるところもあるかと思ったんだがな……)


 今はもはや、そんなことなど思わない。踏み潰して、踏みにじってなお気を病まなくて済む相手だ。

 欠片も気兼ねなく殺せる敵に向けて、吐き捨てるように囁いた。


「さあて、そろそろ仕掛けさせてもらうぜ。卑怯なんて言うなよ――俺たちは、そうやって生きてきたんだ」


 明日には去る二度と戻らない空の中、囁きは風に呑まれて消えた。

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