第3話 Remind
猫の口が流暢に動き、音を発する。少年を見るが、腹話術をしているとは思えないし、母音を発していたのだから、前提的に腹話術なんて出来るわけがない。頭ではわかっているが、意識が伴わない。
その音は、低く。少年には似つかわしくない。地を這うような声。重低音と言うのだろうか。そんな音が聞こえた。母音だけしか言えないとしても、少年は声変わりがまだと思えるほどに高かった。
「ふんっ。話に聞くよりも鈍いようだな。ニンゲン」
前足を舐めて毛づくろいをする黒猫は、こちらをバカにする言葉を放つ。
人間の言葉。日本人の共有言語を発している。即ち、猫はただの猫ではない。
「化け猫か」
浮上する言葉をそのまま言えば、黒猫は「惜しいな」とゆったりと、ねっとりと、纏わりつくような。寧ろ艶めかしく感じる。その声で囁かれたら誰だって心臓の鼓動を速くさせるんじゃないか。男である俺はそんなことないが、きっと年上好きな女性なら惚れるのだろう。
「まぁわしはどちらでも構わない。ところで、聖はどこだ?」
聖、そう呼ばれるのは先ほど少年に尋ねた俺の伯母のことだ。
この猫は、ばあさんの事を知っている。俺は一瞬、猫に言葉を返すことを躊躇いながら口を開いた。
「……っ。ばあさんは、死んだ。俺は、ビデオテープに残されてたメモを見て、此処まで来た」
どうして猫相手に話をしているのか不思議に思える。しかし、こうした怪奇現象は、好奇心に敵わない。ましてや、少年よりは話が通じる。
少年と言えど人間と猫で天秤にかけた俺は疲れていたのだろう。実家からの長距離移動は、なかなかにハードスケジュールだ。本来なら、翌日に日を改めるが思い立ったが吉日とばかりにここにいる。
今頃両親は俺がいないことに、既に自宅に帰ったとでも思っているだろう。集団行動は昔から出来なかった。それが仇なのか吉なのかは分からないが、スマホが音を立てていないところを見ると騒がれていないはずだ。もしくはここが圏外であるか。
「そうか。あの老いぼれは死んだのか」
「お前、なんだよ」
「我輩は、
「……なにかの冗談か?」
ニーナが誰のことか分からないが、たぶんだが、そこの少年なのだろう。
母音しか話せない少年の通訳が、変わった猫なんて、どこのフィクションだと突っ込みすらできた。何よりニーナって女の子につける名前だったりしないか? いや、あだ名の可能性もあるか。
「冗談だったなら、どれだけよかったか。……ところでニンゲン、貴様、猫はナ行をにゃと言うと思っているのだろ? 生憎その時期はとうに終えている。我輩にとって、ニーナのために的確な言葉、言語を習得するために年を過ごしている」
「お前が覚えられるのなら、この子にも言葉を教えられたんじゃないのか?」
ニーナだろう少年を一瞥して、俺は尋ねる。
本人は、椅子に座ったままぼーっとしている。なんとも自由な子だ。
「
突然訳の分からないことを言い出した猫に俺は素直に口にした。
「言ってる意味が分からない。もっと理解できる言葉で話せないのか」
「……なにも聞いていないのか。なら、なぜ来た? 貴様は、聖灯の甥なのだろう? それなのに何も知らないのか?」
「ばあさんがどう言う人で、どう言う生き方をしていたのか、俺を含めた親族全員が知らない」
「なるほど、あの年寄りがしそうなことだ」
猫はうんざりしたような声色をした。うんざりしたいのはこちらだ。
何でも知っている前提で話をされるのは良い気分にならない。猫が偉そうにベラベラと饒舌に話をしている間にもニーナの表情は変わらない。なにか少しでもアクションをしてくれた方が、こちらとしては人間らしさを見て安堵できるのだが……。
「一から順を追って説明してくれると助かる」
「……。あの老いぼれが寄越した代用品にしては、まずまずと言ったところか」
猫の言葉は度々俺を苛立たせた。事情も知らない相手に対する態度ではないだろう。猫の辞書に礼儀なんて載っていないのか。腹を立たせるのだって時間の無駄だ。
猫は、窓の縁から飛び降りて、室内に侵入するとニーナの膝の上に乗った。ニーナもまた猫を受け入れて背中を撫でる。
「この子は、
「ニーナは、なんでここにいる? 誘拐してきたのか? それとも、ばあさんの子どもなのか?」
「誘拐などニーナがされるわけがないし、おいぼれの息子でもない。ニーナの実力を以てすれば、貴様が思う脅威など脅威に値しないのだからな。もっとも言いようによっては、誘拐、とも言えるのかもしれないがな。ニーナが選んだことだ」
ばあさんの子どもではない。けれど、言いようによっては誘拐してきた。そんな爆弾発言をする猫に俺の頭の中は混乱を極めた。
ばあさんが隠し育てた無垢そうな少年。猫は、「ただのニンゲンとは違う」と呟くが、何が違うというのか。うまく話が出来ないだけで普通の人間だろう。
なんだったら、人間の言葉を話している猫の方が俺にとっては異質に見える。もっとも別に俺はそんな非情じゃない。違いがあろうとなかろうと、人間だろうとなかろうと、今こうして会話が成り立つなら、意思疎通が出来れば、それ以上は望む気もない。まあ成り立っていないのが現状だが、それでも悪意が無いのなら、俺だって話くらいは聞いてやる。
ばあさんは言っていた。
人間だろうと人間以外であろうと、全てにおいて、意思に伴った答えがあり、すべてにおいて理由がある。
猫が話をするのも、誰かと話をしたかったから、人間の言葉を覚えた。猫と話がしたいから、猫の言葉を覚えた。そう言った理由があり、答えがある。見た目が異なるからと迫害するのは、余りにも浅慮である。
「ばあさんは、猫であるお前が話せることを知ってる?」
「聖は、なんだって知っていた。知らないことはない。剣の戦いも聖は、受け入れた」
先ほどから、猫は、ばあさんがニーナと何かしていると言っているようだった。ようって言うか、言っているのだろう。察しが悪いと言われてしまうかもしれないが、状況が理解できない以上、詳細を正確に言われなければ俺も理解できない。
「なあ、お前ら――……」
なにをしてるんだ。なにをしようとしていたんだ。
ばあさんは、なにをしていたんだ。
その中のどれかを口にしようとした瞬間、小屋の外から音がした。
その直後、激しい音を立てて、耳を劈くような音が小屋の中にガラスをまき散らせて響いた。ニーナは猫を肩に乗せて椅子から飛び降りると俺の手を掴んで物置と思しき部屋に入り込んだ。
「なんだよっ」
「黙っているのが身の為だぞ。ニンゲン」
小柄なニーナの肩に必死にしがみついている猫に言われて口を閉ざした直後、ダンと扉を蹴破る音が聞こえた。
「ここにいるんだろぉ。出て来いよ」
小屋に侵入してきた足音は二つ。野太い声の男が小屋に響いた。
革靴と思しき靴音が着実にこちらに近づいてくる。鼓動が耳の奥で響いて煩く感じる。
「聖よぉ。出て来いよ。ここにいるってわかってんだぞ。逃げられると思ってんのか!」
野太い声の男が家具を蹴飛ばしているのか、木がぶつかる音が響いた。ニーナが座っていた長椅子を蹴ったのか物置の戸にぶつかる。物置の細い隙間から与えられる情報はごく僅かで何が起こっているのか分からない。
窓を割ったのは、相手を驚かせて気配を隠せないようにするためだろう。民間人の俺では、その気配を駄々洩れにしている気もするが、猫が俺の口を小さな前足で塞いで黙らせているお陰か、相手には気づかれていない。
「ちっ、どこに隠れてんだ」
「これを見ろ」
一緒に来ていたのも男だったようで、そっちは落ち着いた声をしており、なにかを見つけたようだ。男が見つけたのは、ニーナが隠れていた床下に通じる道と傍らに放置された板。ニーナを連れて来る時に戻し忘れていたものだ。
「こりゃあ、床下に通路ですか?」
「建物の性質上、そう深いもんじゃねえな。大方、あのガキを隠しておく為のもんだろ」
「じゃあ、この先に?」
「いや、板が外れている。俺たちが来ると察して、夜逃げでもしたか」
ランタンの明かりがついていることに気づいた男は「まだ遠くに行ってねえな」と呟いた。
「少なくとも数分前までは、この場所に誰かがいた。あの女かどうかは知らねえがな」
「探しますか?」
「いや、この暗闇だ。明かりでもつけようもんなら、すぐにでも見つけられるがここまで来るのに明かりは、この小屋だけだ。遠くに逃げたか、まだ近くにいるだろうな。と言っても、このまま継続しても、こちらが山の餌食になる。一度引き上げるぞ」
そう言って男たちは、踵を返して小屋を出ていく。人の気配が遠く離れると猫が「行ったようだな」と呟いて、外に出る事を告げる。
ニーナが物置の戸を押すが開かない。どうやら男が蹴飛ばした長椅子が引っ掛かっているようだ。俺も肩で戸に体当たりする。少し動き数回続ければ開くというところで猫が「臭うな」と何かに気づいた。スンスンと鼻を動かして何かを嗅いでいる。
「これは、……ガソリン! しまった、奴らこの小屋を焼き払うつもりだ。ニンゲン! 急いでここから脱出するんだ! 丸焼きになってしまうぞ」
「冗談じゃない!」
それを聞いて俺は必死に戸に体当たりをする。そして、次第に鼻を掠める焦げた匂い。木で出来た小屋なのだから、それもう盛大に燃えることだろう。急がなければと気持ちが急く。
もう一度ガンと戸に体当たりすると今度は、無事に戸が開き外に飛び出す。視界に広がるのは、燃え盛る真っ赤な炎だった。乾燥した木々が餌となり炎を大きく成長させる。まだまだ成長したりないとばかりに近くの物をじりじりと燃やして、こちらににじり寄って来る。顔面に伝わる熱波に俺は唖然とする。
「なにをぼさっとしている! 早く逃げんか!」
猫の声を耳にすると我に返り俺はニーナを脇に抱えて出口に視線を向けるが、唯一の出口は、火の手が上がっている。
「……くそっ」
「ホットキャットは嫌だ!」
「ホットドッグみたいに言うな!」
猫が嘆いているのを耳障りに思いながら意を決して床を蹴った。考えている暇なんてない。このまま直立不動で焼け死ぬより、少しでも行動を起こした方が生存率は上がるはずだ。
まだ板が見える場所に足を延ばして駆け出す。八メートルほどで、距離はないのに、この世が全てスローモーションに見える。確か、タキサイキア現象とか言ったか。
突発的な危険に見舞われた際に起こる現象。頭の中ではそんな事が過る。走馬灯とでもいうのだろうか。ならば、ゆっくりとしなくていい。死ぬのなら潔く終わらせてくれ。腕の中の少年を抱えて必死に駆ける。
もしも死んでしまったら、見ず知らずの少年を助ける勇敢な男の悲劇だと報道されるか。誰にも知られず、気づかれずに森の一部となって朽ち果てるか。
現実逃避をしている最中も耳元では、にゃあにゃあと喚き散らす猫の声が俺を現実へと引き戻す。倒れた扉を踏み越えて飛び出すように身体を地面に転がした。脇に抱えていたニーナは、俺が手放してしまった所為で、転がされる。雑草を顔のあちこちにつけて目をキュッと瞑っている。
「にぃやぁ!」と鋭い鳴き声を発した猫が肩から放り出されコロコロと地面を転がっていくのが見えた。
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