祐 ~二十二歳、冬(後)
宮子さん、失礼します。佐藤は当たり前みたいに挨拶して襖戸を開けて入っていった。俺は物理的に痛む胸を押さえて、それに続く。
「埃っぽいな。アレルギー出そう。……あ、ここか」
佐藤がしゃがみこんだ本棚を確かめ、俺はつい「あっ」と声を上げた。機嫌の悪い視線がこっちを見た。すぐ酷く面倒な色に変わった。
「……あぁ、あんたの手紙なら紗世が持ってったからないよ」
「あ、う……そうか」
「ハイこっち来て。あんたの好きな絵本てどれ。私そこまでは聞いてない」
佐藤が二歩離れて俺を促した。ベッド奥の狭いスペースだ、俺は場所を入れ替わってカラーボックスの前に腰を下ろした。
紗世への手紙を挟んだパンケーキの絵本はまだそこにあって、懐かしさとみじめさが混ざる。四年前の甘ったれたガキが書いた手紙を紗世が持っているかと思うと何度でも後悔が寄せてくる。
「ほら、どれよ? 何冊かあるじゃん」
言われるまま目を滑らせた。小学生低学年のころよく読んでもらった絵本で、介護中はもちろん中学生のときに読んだ覚えのないものばかりだったが――。
「……これ、覚えてるな」
背表紙が一番ぼろぼろになっている、黄緑色の。
「あぁ、このおばあちゃんシリーズ知ってる」
引き抜くと佐藤の影が本に差した。表紙カバーはなく本自体も傷んでいたが、破れてはいない。めくるとページがはがれかけて糸が緩んでいた。
そうだ好きだった――みんなで山登りに行こうとするけど、荷物が多すぎて行けなくなる。でもおばあちゃんが家の中で山登りしようって言ってカーテン縫い出して、最後は屋根の上で弁当を食べる――はっきり言うところとか、なんでもうまいこと解決するところがばあちゃんに似てると思っていた。俺はシリーズの中でもこの話が一番好きで、「ピクニックに行きたい」と何度もせがんだ。
さすがに屋根で弁当は無理でも、ばあちゃんはおにぎりを作ってくれて、一緒に裏山に登ったり奥間に小さいテントを出してくれた記憶が甦った。紗世が来るときはテントで一緒にポッキーを食べたことも。ずっと忘れていた。
ひら、と中からなにかが落ちた。
茶封筒。俺はそれを拾うと、佐藤を見上げた。
「これか?」
「たぶんね」
宛名のない薄い封筒を覗くと、一枚だけ紙が入っていた。『祐へ』と見えて息をのんだ。
『なかよくね
桐タンスの底にあります』
確かにばあちゃんの字だった。少し震えてるけど、筆跡はしっかりしている。完全にボケる前に書いたのか? いつ?
その短すぎる文章をゆっくり目でなぞって「桐ダンス」と口に出した。これには佐藤がはっきり返事をした。
「一番下の底にあったのは、あんたが受取人の保険の口座通帳と印鑑。保険は辰おさんが手続きして通帳も預かってるはず」
「そうか。ならいいや」
もしそれが二年前に手元にあったなら、俺は血相変えて親父に連絡したかもしれない。
「余裕だね。なに、結構稼いでんの?」
「そんなんじゃない」
いまは、そんな気になれない。いや貧困からは抜け出したからだ、引き上げてもらったから。
俺はメモ用紙みたいな手紙をまた封筒に戻して絵本と一緒に脇に抱えた。
佐藤はつまんなそうな顔で腕を組むと、「じゃあ次行くか」と言った。
「まだ用があるのか」
「大ありよ。あんた、宮子さんの墓参りは?」
「……してない」
罵られるかと思って身構えたが、返ってきたのは肯定だった。
「あぁそれで正解だよ。海藤家のお墓にはね、遺骨入れてないから」
「は?」意味が分からず聞き返したが、佐藤は「詳しくは車で」と背中を向けた。
山越えて三時間だから、往復すると夜だわ。
そう言って黙った佐藤は運転に集中し始めたようで、俺もただ狭い助手席で景色を眺めるだけに徹した。
集落のあるいつもの県道を一度下って駅手前の国道に出ると、ウインカーは隣県に向かう方へ点滅した。とはいえ、俺たちの住む市は県の東端で一時間近くかけて隣県の県境に着くはずだ。その手前のどこかの可能性もある。
少し曇った空はいまにも粉雪を吐きだしそうな天気で、実際遠くの青い山の天頂ははっきりと白くなっていた。
なんでリヨンと日本の山は見え方が違うんだろう。
植生はともかく、中に入ってしまえば歩き方に違いはなさそうなのに。整えられていないコースを外れたら遭難のリスクがあるのはどの山でも同じ。だけど登る前から閉ざされるような閉塞感を感じるのはなぜなのか。
二車線の国道は平日なのに混んでいる。新しいショッピングモールができたらしい、そこに吸い込まれていく車で左車線は停滞していた。佐藤は姿勢を崩してブレーキを踏んだり離したりを繰り返していた。
「どこ行くんだ」
立ち並ぶデンキ屋やスーパーを見ているのに飽きて、俺はつい尋ねた。
「海」
思わず横を見た。
「……宮子さんの出身地知ってる?」
佐藤は前を見たままだ。
「M県の、は? まさかそこに」
「漁港の出身だったんでしょ? あんた宛ての通帳と一緒に遺書が出てきたって話だよ。故郷に帰りたかったって」
親父宛ての手紙はかなり長くて、親父はしっかりしてたときのばあちゃんから色々言われてるみたいだと苦笑したらしい。認知症が進行していることをばあちゃんはよく理解していて、財産や家のことがアレコレ書いてあったそうだ。
「この前のお盆に飲んだときも、もっと早く見つけてればなって愚痴ってたね。辰さん絡み酒だから私はさっさと紗世ん家に避難したけど」
「……親父とも仲良くしてんのか」
「あんたと違ってね」
ムッとした声に勝手に眉が寄ったが悪態は出なかった。
「悪い。世話になって」
少しばかり下げた視界の隅で青い毛先が揺れた。
「気味悪いからやめて。いま協力してんのはあんたのためじゃない」
「だとしても。すまん」
はあ。ため息を返事にした佐藤は長いこと黙っていた。また話し出したのは県境の上り坂でだった。馬力の足りない軽自動車では登坂車線をマイペースに進むしかなく、どんどん後続に抜かされていくのに気が滅入ったんだろう。俺もただ座ってるのに疲れてぼうっとしていた。
「あんた、四年もなにしてたの」
望さんに話したようなことを口にした。大工の住みこみから望さんのハウスキーパーになるまでの経緯を簡単に。
「帰りたいと思ったことなかったの」
「帰れるわけ、ないだろ」
そうじゃなくて。佐藤はそう小さく呟いてから、打ち消すように「ま、情けなくて無理か。想像以上に底辺で安心した。ざまあみろ」と低く笑った。
俺は一瞬ムッとして、でも、なぜか笑いが込みあげる。ぐうの音もない。
「はは、情けねぇだろ」
「本番だけはNGだったカイトーが、職業ヒモまで堕ちたの既定路線過ぎて草」
「ありがちで悪かったな」
「そんで今度はオジ宅の家政婦て、なんのBLだよ。自叙伝出したら売れるんじゃね」
「あ? 意味分からん」
佐藤は最後に「あーあほくさ」と言ってヘッドライトを点けた。
車はトンネルに入った。県境で一キロ以上あるようだった。橙色の天井ライトが点々と緩くうねって先へと続く中をごうごうと進む。スピード感覚が薄れて真っすぐ走っているのか蛇行しているのか、助手席は揺れる。
「私はあんたがどっかで野垂れ死んで、早く紗世が楽になればいいと思ってた」
ぐんと速度が上がって小さなエンジンが唸った。カチッとウィンカーを一瞬出すと車線を変え、前の車を追い抜いた。メーターは八十キロ超えていてじわっと嫌な汗が出た。
「おいスピード……」
「みんな、あんたが宮子さんのお葬式に来ないことに納得できてなかった」
「行け、ねぇだろ」
「そこは来いよ!」
また一台強引に抜かした。急なステアリングに俺はドアを掴んで体勢を保った。「おいっ」佐藤は泣いていた。怒りで見開いた目から真っすぐ顎へ涙が落ちる。
「どの面下げてでも! 自分のばあちゃんでしょ、来んのが当たり前だろッ! なにやってんだよ、なんで誰も探して殴ってでも連れて来ないんだよ……!」
「さとう、」
「おかしいよ! 紗世が苦しんでんのに、なんであんたの気持ちに寄り添わなきゃなんないんだよ!」
ダン、と拳がハンドルを叩いた。
「紗世も、辰さんも……清子さんも許しても、私は一生あんたを許さない。紗世を苦しめ続けた罪は重い」
「……分かった」
小さく、出口が見えた。白く丸かったそれはぐんぐん大きくなって、眩しさに目を閉じた。「クソ」と鼻をすする声がして、俺はしばらくそのままでいた。
***
スマホのナビに従って佐藤の車は海に着いた。小さな船の停まる漁港が遠くに見える、大きな船が百メートルおきくらいに、長いコンクリの海岸に並んでいる。ぽつぽつ釣りをする人もいた。
山を越えてきたからかこっちは快晴。ただ海沿いだからか風は強い。こんなに寒くて釣れるんだろうかと思う。
ここらの海に来たのは初めてで、冬だからだろうか色が濃い。
「どのへんなの、宮子さんの実家って」
「行ったことない。でも、ばあちゃんの親戚はもう住んでないはずだ」
「へぇ。ってか寒すぎる」
佐藤は車の後部座席からダウンを引っ張り出しスーツのジャケットを脱いでそれを着込んだ。そしてスマホをスクロールして「あっちの沖」と指さす。
ばあちゃんは三姉妹でみんな嫁いで、漁をしていた実家はもうないと聞いていた。じいちゃんと出会って隣の県で暮らして家を建てて、母さんを育てた。俺は若くして死んだじいちゃんを写真でしか知らないし、ばあちゃんからもあまり教えられたことはない。
海藤家の墓には入りたくなかったのか。それとも最後くらいは故郷に帰りたかったんだろうか。
俺には想像もつかない、骨をどこの墓に入れるとか海に撒くとか自分が死んだあとどうしてほしいとか。それとも、死ぬ間際にはそういう風に思うものなんだろうか。
ばあちゃんは、いつからそんなことを考えてたんだろうか。
波間は眩しくて青い。
散骨の業者をあたって船を出してくれる人を探して、親父と清子さんで沖の方で撒いた。あんたが戻ってきたらって少し残してあるって。
佐藤はそっけなく言い、バッグから薄黄色の封筒に入った塊を俺に渡した。
「私せっかく来たから海鮮丼食べてくるわ。終わったら連絡ちょうだい」
コンクリに踵の低いパンプスを鳴らして佐藤は遠ざかっていった。
てのひらに残ったくしゃくしゃの封筒から陶器の入れ物を出した。白くて丸みのある、たぶん骨壺だ。風が強いから風上に背を向けてそっと蓋を開けた。
白い粉。
「……は。小麦粉みたいだな」
乾燥材が入ってるところも。
俺は蓋を閉め、カチャカチャ鳴るそれをまた潰れた封筒に入れ直した。落とさないように両手で包んだ。
――助手席の窓から中を覗くと佐藤はシートを倒してスマホをいじっていた。俺は「待たせた」と乗り込んでシートに腰掛けて身を縮めた。けっこうな距離を歩いたせいで体が冷えていた。耳にもなんとなく波の音が残っていた。
車の中は暖房がついていて一気に頬を温めた。酸素の薄くてぼわっと暖かい空気に眠くなりそうだなと、息を吐いた。
「終わったの?」
「おう」
「じゃ、帰っていい?」
「頼む」
佐藤はシートを起こすと、「あ、あぶな」と言って運転席の窓を開けサイドミラーに引っかけたビニール袋を回収した。
「ハイあんたの分。テキトー」
「……いくらだ、払う」
窮屈なシートベルトの間で財布を探る間に、車は発進した。
「いい。望さんに経費として請求するから。ガソリン代も」
「いや俺がはら」
いいってば。佐藤は暖房の風量を最小にした。さっきまで明るかったのに辺りはいつの間にか薄暗くてメーターライトが妙に眩しい。
「いいんだよ。払わせとけば。あの人、そういう人だと思う。揃いもそろってお人よしだよね、あの一家」
――その瞬間、白い稲光が頭の中を照らした。これまで影になって見えなかった場所まで晒されたような強い光。
「お人よし?」
「そうでしょ。ああいう人たちが世界を救うんだなって思うわ」
あぁ。そうなんだろうか。ただ、そうだったんだろうか。
「……俺ずっと……なんで望さんは俺を呼んだんだろうって疑問だった」
掠れた弱気な声が自分の耳に届いた。
ずっとビクビクしていた。いつ幼さを指摘されるのか高校も満足に出なかったことを揶揄されるかと。ハイキングで仲良くなった気がしても、帰国を決めた朝のあとも。拭えなかった。
「なんで一年も……こんな俺を雇おうなんてって」
佐藤が「そんなん」と左折しながら言った。信号の青とか対向車のライトが流れていく、膝のビニールとポケットに入れた骨壺が揺れた。
「あんたを心配してただけでしょ。子どもが困ってたら助けるでしょ普通は」
ぐっと息を詰めた。
「あんたが救いようのないバカなら話は別だっただろうけど。いや分かんないなあの人たちに限っては他人もバカも関係ないか。……大人は大人で後悔することがあったんじゃん。私たちがどれだけ歳とってもあの人たちも同じだけ歳とるし、いつまで経っても私らは子どもなんでしょ、つまんないことに」
夜にタバコを買いに出ようとしたときの眼差しを思い出す。
「辰さんだって、探偵雇って行方探すって酒瓶抱いて寝たこともあったからね。みんなあんたの意思を尊重して我慢してんのは覚えときなよね」
「親父が」
別に親父も鬼じゃない、それは知っている。でも俺は、俺がいなくなったあとに怒り散らす親父の顔しか浮べられなかった。
「……ねぇ、せっかく買ったから食いなよ」
「おう」
促され、のろのろと袋に手を突っこんだ。おにぎりだ。二個。一つ取りだして暗くて、角度を変えてみると『すじこ』のシールが貼ってある、ばくだんにぎりだった。急に腹が減った。そういえば朝からコーヒーしか飲んでなかった。
ラップを剥がすと青のりの香ばしい匂い。かぶりついた、のりの塩味――すぐに米と筋子の食感と独特の塩辛さが混ざる。
「うまい」
そうだ、ばあちゃんは筋子が好きだった。『やまのぼり』のピクニックのときも、土曜の昼飯も。
「……うまい」
ばあちゃんのに似ていた。三角じゃなくて丸くて、のりが隙間なく貼ってあって、塩が効いてて。
塩辛さに鼻水が出た、止まらなくて何度もすすりながら食い終わった。もう一つは昆布で、でも半分食べてやっと味が分かった。たぶん鼻水も食ってたから。
「ごめ……、」
――ばあちゃんごめん。ごめん俺、葬式行けなかった。ごめん。
俺が揺れるたびカチャカチャとポケットが鳴った。「汚いなぁ」佐藤が信号待ちで箱ティッシュを投げて寄越した。
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