祐 ~二十一歳、盛夏

「やぁ、元気そうだね」

 その第一声に、俺はすぐに反応できなかった。

 そのとき俺は時差ボケでふらつくほど眠かったし、望さんは髭が伸び放題でやつれて別人だった。嫌味を言われたことに気づいたのは随分とあとだ。


 英語しか聞こえない周囲におびえながら、俺はとにかく望さんのあとを追いかけた。言われるままタクシーに乗って、空気の悪い階段を下りてそれが地下鉄と知らないまま鴨の子みたいに脳死で電車に乗った。

 東京駅にすら行ったことがない俺には、見るもの聞くものすべてが珍しいの度を越していて、自分の汚れたスニーカーを見下ろすしかなかった。望さんは「次で降りるよ」とか「荷物に注意して」とか必要なことしか言わないから、俺はとにかく必死でスポーツバッグの肩紐を握って黙っていた。


 なにをどうして、望さんの借りているマンションにたどり着いたのかは分からない。ただ、入った途端に色んな匂いのする玄関、広いのに床に物が落ちてるせいで狭く感じるリビングの煩雑なテーブルや、背もたれに何枚か服がかかってるのを「あぁごめん、ごめん」と奥のソファの背に移した望さんが、「お茶もなくて悪いね」と笑ったのはいつでも目蓋に浮かべられる。

 そしてそのあと、

「僕と一年間、契約しないかい」

 と、向かいの椅子に座ったことも。


 そうして整えられた書面の最後に「海藤祐」と署名した瞬間から、俺はハウスキーパーの『カイ』で、おじさんは雇い主の『望さん』になった。



 *



 ガランガランとサーモマグが盛大に落ちた音がして、俺は「望さん⁉」とキッチンから飛び出して慌ててまたキッチンに戻った。

 やっべ。見られてないか?

 清子さんとの定期連絡中、望さんは「えええぇぇぇ……!」と絶叫してサーモマグを落とし、椅子を倒したままPC画面の前で突っ立っている。夏が来て、リヨンでの生活も半年になる。

 ……この角度なら大丈夫そうだ。

 ホッとしたのもつかの間、ラグにコーヒーのシミが染みていく。今洗えば間に合うが出ていくわけにはいかない、俺は壁から顔だけ出してぐぬぬと睨んだ。


 最近の清子さんは福祉系のNPO法人を立ち上げてバリバリ活動してるらしく、望さんは不満たらたらだ。「『忙しいから会いたいなら会いに来て』だなんて、君に会いに来てほしいのに!」「『カイがいるから平気でしょ』だって? こんなことなら君を雇わなきゃよかった」と、清子さんが全然来ないのをとにかく嘆いてる。親父とは別方面でウザい。

 それでも前回「ノンくん、なんだか健康的に引き締まってきて素敵!」と称賛され、さっきまでメンドくさいくらい有頂天だったはず。一体なにがあったんだ。


 広がり尽くしたシミをまんじりと見つめていた俺は、望さんがイヤホンをしたまま呟いた言葉を聞いてしまった。

「紗世に……彼氏が……」



 ――夜バイトをクビになってオーナーから部屋も追い出された俺は、喪失感より安堵を感じていた。これで昼の仕事に就ける、なんでもいい。今度こそマトモな仕事に!

 だけど高校中退で左官も続かず、夜バイトをこじらせた履歴書上はぷらぷらしてただけにしか見えないのが俺だった。冬の真っ只中に雇ってくれるところはなかった。あっても週に三日あるかどうかの日雇い、工事現場か引っ越し作業がいいところだ。


 それで件の嬢の部屋に転がりこんだ。

 マナは年上で、店に入ったばかりの大学生で、担当待ちのヘルプに徹して自分から客をとらない店では珍しい短めの黒髪の女――こんなことにでもならなければ、俺から話しかけることはなかった。「ご飯おごるから会おうよ」そんな安い謝罪に返信したのは、本気で頼る宛がなかったからか、それとも――紗世に少し似ていたからか。

「へぇカイトーくん、祐くんって言うんだ。呼び捨てにしていい?」

「どうぞ」

 でも呼ばれてすぐ後悔して「やっぱ名字で」と断った。紗世だけが、女で俺を呼び捨てにしていたと気づいたからだ。他のやつから呼ばれる自分の名前は妙にざらついて聞こえて、嫌だった。


 結局マナとの同棲は真冬の間、二か月続いた。

 大学に通うマナは意外にも学生としては真面目で勉強に忙しそうだった。嬢のバイトは金曜と土曜だけ。彼氏と別れて自棄になってバイトを始めたと言った。缶酎ハイ片手に涙ぐむ彼女が「行くとこないなら居ていいよ」と言うのを、俺はとりあえずありがたく受け入れた。罪悪感はなかった、すぐに出ていくつもりだったから。

 雀の涙ほどの貯金から家賃はしっかり折半。ヒモになるのは踏みとどまったつもりだが、思い返すとほぼ週の半分も外出しない同居人なんて、やっぱそう言われても仕方なかったんだろう。マナもそんな感じに俺を扱ってた気がする。寒い冬に狭い女のワンルーム、無為に過ごすうち俺のちっぽけな希望とか自信はヘドロみたいに溶けてなくなった。

 マナが誘ってきたときもただ言われるままにヤッた。こんなもんかと思ったから、何度かシた。だけど俺は、たぶん彼女も満たされる関係ではなくて、そうはならないと分かっていた。


 あぁどうやって俺は生きてけばいいんだろう。

 なにもしたくない。いいかもう、野垂れ死んでも。


 当然、相手の態度は息苦しくなっていった。

 紗世に似た髪型のマナからなじられるたび、俺はだんだん世界で一番汚くて臭い人間になっていった。

 どこかに行かないと。でもどこに。そう思い始めたころだった、望さんから電話が来たのは。

 サンフランシスコ行の電子チケットが送られてきたのは。



 その夜の夕食は俺も望さんも「いただきます」と「ごちそうさま」のほかは黙っていた。その静けさが親父とふたりっきりの茶の間を彷彿とさせた。2LDKの部屋が夜に沈んでいくにつれ、俺は無性にタバコが吸いたくなった。日本を出てからやめていたタバコ。円安で買う気になれずにやめた、あの苦い味。

「ちょっと出てきます」

 普段なら寝る前に仕事をするのがルーティンの望さんだけど、今夜はダイニングの椅子でコーヒー片手にぼんやりしていた。


「なにしに?」

「ちょっと……買い物に……」

「夜だよ? やめときなよ」

 「まぁ、そうですけど」まだ八時だ。歩いて十分の小さな生活雑貨店でマルボロを買うつもりだった。フランスの店は日本みたいに深夜まで開いてない、もしかしたら空振りになるかもしれないが。と、たじろいだ俺をじっと見た望さんは、「僕も行く」と立ち上がった。


「なんだ、タバコなら家にあるよ」

 外に出たものの「どこに行きたいの」と問われて白状すると、望さんはそう踵を返した。タクシーを拾ってくれるつもりだったのかもしれない。

「すみません、言いづらくて」

 追いかけて斜め後ろから謝ると、「君は成人してるし、国籍的には問題ないんじゃない」と振り向かずに言われる。久しぶりに望さんが『ノン坊おじさん』だってことを思い出して、子どもに戻ったような心地を味わう。変に気恥ずかしい。


 封を切っていない赤のマルボロを振って、「キッチンで吸おう」と望さんは俺を促した。家具付きの、きれいで洒落た夢みたいな部屋のキッチンだけど、男ふたり並ぶには狭い。慣れた手つきでフィルムを開け、望さんはさっさとひとつ咥えた。

「あ、火がないや」

「俺持ってます」

 火をつけてタバコの先に火をあぶった瞬間、ライターに店のロゴが入っていたことに気づいてぎくりとする。望さんは俺になにひとつ聞かない、だから俺はなにも話していない。

「ありがとう、カイ」

 一度、深く長く吸いこんで吐いた望さんが、俺に箱から一本差し出した。

「すみません、ごちそうさまです」

 俺も深く吸いこんだ。重い白い煙が肺中の細胞にしみていくのを感じた。浅く吐くと、以前買っていたタバコよりも苦くてまずい。でも不思議と、目が冴えて視界が広がった気がした。これから鍋の底を一晩中磨けと言われても耐えられるくらいには。


 はぁーっと望さんが二口目を吐き出して、「こういうときのタバコはうまいけど、二口目からはまずい」と呟いた。ちょうど俺もまずいなと思っていたので肯く。

「これまでの人生でトップテンに入る、最悪なことが起きたよ」

「トップテン……」

「まぁ彼女も大人だからね、いつかは迎える日が来ただけの話だけど」

「……」

 当然、紗世のことだと思ってリアクションできなかった。

 望さんも特に話を続けず、無言でもう一本咥える。俺はまた火をつけ、二本目は断った。

 タバコがないと途端に手持無沙汰になる。部屋に戻ろうかと、ライターを望さんに手渡そうと顔を上げた。

 いつになく真面目な顔が俺を見つめていた。俺はハッとした。


「ねぇカイ。君さ、どうして僕のところに来たの?」

「……どうして、って言うのは」

「単純に理由を聞いてなかったなと思ってさ」

「その、理由なんて……ないです。仕事も家もなくて、渡りに船だっただけで」

 望さんは「んー」と煙を吸いながらしかめ顔になり、

「そういえば来たばっかりの君って、痩せてたかもね」

 と、俺をじろじろ見た。

「望さんこそ、危なかったじゃないですか」

 俺はわざとげんなりして、軽薄な調子で返した。「おっと反撃がきた」と片眉が上がって俺は心底安心する。よかった、いつもの雰囲気だ。


 『紗世』という共通の話題を排した俺たちは、結果的に生活のためだけの会話をし続けて、本心を明かさないままでいる。もちろん不自然だ、でも、ひどく自然なこととも思う。だけど俺自身のことは別だ。

 なぜだろう、どうして望さんはなにも聞かないんだろう。いつ聞かれるのか、いつ洗いざらい話をすることになるのかと眠れない夜もあったのに、最近は完全に油断していた。

「まぁいいか。また聞かせてよ」

 細く出した水でタバコを濡らして、望さんはこっちを見ずに言った。「Bonne nuitおやすみ」と言われたのにも、返事はできなかった。

 それで理解した。望さんは、俺が話し出すのを待っていたんだ、と。



 髪についたらしい煙の匂い。寝返りを打った。

 『紗世に彼氏ができた』

 聞いた直後は、「まぁそんなこともあるだろ」と納得できていた。意外と冷静に受け止められるもんだ、なんて。だけど部屋でひとりになって夜が更けていくごと、全身がざわざわと落ち着かなくなっていく。

 そりゃそうだ、彼氏くらいできるだろ。できないわけがない。それともなにか、紗世は俺を永遠に好きでいてくれると思ってたのか?

 バカか、バカか‼

 あのこっぱずかしい手紙を今すぐに破り捨てたい。

 今すぐ全部なかったことにしたい。なにも分かってなかったあのときの俺を消したい。一瞬でも裏切られたと思った俺を、切り裂いて土に沈めたい。三年経ってもマトモになれなかった! 誰かローヌ河に沈めてくれ!


 そうなるとやはり眠れるわけがなく、足音を殺しダイニングで湯を沸かした。意味なんかない、なにかしないと暴れたくなっただけだ。湯をポットに入れて意味もなく冷蔵庫を開けて、明日でいいのにゴミをまとめて――袋をしばるとき、タバコが強く鼻についた。ふと手が止まる。親父の灰皿を捨てたあとの匂いに似ていて、一瞬、実家に戻ったような気がした。

 実家の台所で、俺が皿を洗って紗世がいて――。


 あぁ、そうだ。俺は夜に飲む、紗世の麦茶が好きだった。


 深夜の静けさの中、ダイニングの椅子に掛けた。窓の外は街頭もなく真っ暗で、オレンジ色の照明が俺の顔を窓にぼんやり映していた。それは間の抜けた顔で、俺は席を立ってそれを消してまた座った。目を閉じた。


 紗世だけだった、俺に、麦茶を作ってくれるのは。ばあちゃんと同じ味の、骨と皮だけになる前のばあちゃんと同じ――なくなると、なにも言わずに新しいのを作ってくれるのも。

 俺はずっと考えないようにしていたらしい。いいやわざと思い出さないようにしていたんだ、望さんが一度も俺を祐と呼ぼうとしないと気づいたときから。マナの脇腹に初めて触れたときから、仕事のあと寝酒を飲み始めたときから――自分が一生マトモな人間にはなれないと感じ始めたときから。


 肺の裏側までひっくり返して、吸ったタバコの本数を数えるみたいに俺はあのバス停の日からを丁寧に思い返した。そして時々目を開けて、窓の外が朝になっていくのを見た。向かいの建物のてっぺんが、少しずつ青く、白く明るくなっていった。


「さよ、」

 まだ好きだった。

 思い返したすべてがぼやけてしまっているのに、名前を口にした途端、湧きあがった気持ちが鮮明で苦しくて俺は喘いだ。

 手で包むと隠れてしまう顔、さらさらしてくすぐったい黒髪、作りものみたいな耳の形、合わせると笑う瞳。紗世の首、肩、腕――声。

 紗世が手を伸ばしてあの温かくて柔らかい体で知らない誰かを抱きしめる。きっと、笑ってる。あのどこまでも優しい紗世が。


 きらりと屋根の先が目を灼いた。日が昇ったんだ。だけど今、俺の見ている太陽は、紗世のと同じじゃないんだ。七時間も離れた朝。なんて遠い、遠すぎる。

「ハハハ。…………会いてぇ……な、紗世」

 朝が来なければと願っていた十八歳の自分の、どんなに幸せだったんだ――。



 不意に肩が重くなって振り向くと、望さんが俺を見下ろしていた。「おや」と軽い驚きの声があって、抱き寄せられた。寝巻の生地が頬に擦れて、それで自分泣いていたと知った。ハグは数秒で涙だけ拭って離れた。

 

「ことわざでさ、『La nuit porte conseil』ってのがあるんだ。ひと晩寝ると名案が浮かぶってことなんだけど。僕はちっとも、浮かばなかった」

 俺がのろのろ視線を合わせると、望さんは「君は?」と目で促した。隈のできたしょぼついた瞳で。


「俺は」

 やけくそだ。

「うん」

「紗世に、会いたい」

「……うん」

「でも、でも俺は」

 言ってるうちから目が熱くなってうつむいた。歯を食いしばってもこらえきれなかった。ガタン、と空いた椅子が引かれた音。

「そうだなぁ、早くても半月後なら行けそうだね。行こうか」

 あっさりした声の意味が脳みそに入るには時間がかかった。顔を上げると望さんはスマホをのぞきこんでいた。

「行く? 行くって……」

「日本だよ、君が言ったんじゃないか。うん、咀嚼するとかなり名案に思えてきた。清子にも会えるし、仕事の懸案も解消できるし。あ、でも君との契約期間はまだ残ってるから、あくまで一時帰国だよ」

 俺は急いで目を拭って鼻をすすった。斜めに腰かけた望さんの顔は大真面目だ。

「正直、君の僕の娘に対する深くて重たい気持ちは、親として受け止めたくない部分の方が大きいんだけど」

 はぁ、仕方ないよねうちの子は世界一可愛いから。ある意味当然か。

 俺を縫い留めた目元が、優しく下がった。

「帰国中は一時休戦といこうじゃないか。祐くん」

 窓の外を小鳥が舞っていった。俺は嗚咽をごまかすこともできず、ほとんど項垂れた。

「ありがとうございます……おじさん」


 その日、しばらく顔を上げられなかった俺のせいで、望さんは久々に遅刻した。

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