Goodbye Yellow Brick Road
「グッバイ、イエロー・ブリック・ロード」 ①
店を出ると、テディは
まだ夜が名残惜しげに紺青を引き摺っている、陽の昇らない時刻。身を切る寒さにフードをかぶってダッフルコートの前を合わせ、テディは白い息を吐きながら俯き加減に十字路へ出た。
真っ直ぐ進み、そのまま少し歩くと、舗道を白く照らしているファストフード店の看板が見えてきた。テディは合わせていたコートを
そうして札を握った手をポケットから出し――適当に手にした金額は一万六千フォリント、ポケットの中にはまだかなりの札が残っていた――テディは昏い街の一角に光を溢している、二十四時間営業のその店に立ち寄った。
周りに立ち並ぶアール・ヌーヴォー様式の建物を、クラシックなフォルムの街灯が照らしだしているここはハンガリー、ブダペストである。
東のパリとも称されるこの美しい街で、テディはルカとふたり、ひっそりと暮らしていた。
セント・ローレンス・ウィンスタンリー・カレッジを揃って放校になったあと、テディとルカはロンドンで住む場所と仕事をみつけ、生活を共にしていた。十五歳の誕生日を迎える前から幾度もルカが唱え、夢にみていたふたりでの暮らし――だが、学歴を取り消されてしまったふたりに、現実は冷たかった。
ルカは郊外にある配送センターで、仕分けや積み込みなどの仕事をしていた。テディとの生活のため、ルカは慣れない力仕事をその持ち前の勤勉さで懸命に熟していた。しかし言葉のアクセントが
それが酷くなってくると、理不尽な仕打ちに黙っていられないルカは、仕事に支障をきたすような無意味なことはやめろと、面と向かって正論をぶつけた。――わかった、悪かったと素直に謝罪されるはずもなく、終いには乱闘騒ぎになり、何故かルカだけが解雇された。
テディも、小さなレストランの厨房で皿洗いなど雑用のアルバイトをしていた。だが、休憩中に差し入れをもらったり、仕入れに付き合わされたりしているうちに、初めは親切ないい人だと思っていたオーナーが自分を色目で見ていることを仄めかし始めると、精神的に不安定になった。
様子のおかしいテディを問い詰め、事情を知ると、ルカはすぐに仕事を辞めさせた。だがテディはそれで落ち着くどころか、過去に遭った不幸な出来事のフラッシュバックを起こして不眠気味になり、心身ともに調子を崩してしまった。
そのうえ、ふたりとも失業したことで生活費はルカの親の金に頼らざるを得なくなり、そのことが更にテディの神経を参らせた。ルカは気にするなと繰り返し云ったが、それで平気な顔で世話になれるような性格なら、もとよりこんなことで塞ぎこんだりはしない。
まずは元気になることだと、ルカは昏い顔で日々を過ごしているテディに美味しいものを食べさせようとしたり、喜ぶだろうと『週刊ミステリーマガジン』を買ってきたりした。だがそれは、裏目に出てしまったようだった――ルカが甲斐甲斐しく世話を焼けば焼くほど、テディはこんなことじゃいけない、自分の
そして――過去にもう二度とやらないと約束した、ルカがいちばん赦さないことを、テディはまた繰り返すようになったのだった。
ハンガリーでは定番の、薄いチキンのカツレツを
ブダペスト中心地に程近い、古い建物の最上階の角部屋――というと聞こえがいいが、ふたりが住んでいるのは夥しい数の弾丸痕が修覆されないまま外壁に残されている、北側にひとつ張出し窓があるだけの日当たりの悪い、狭い部屋だった。いちおうは歴史ある建物と云えるのだろうが、その朽ちた佇まいはアール・ヌーヴォー様式の建造物などが立ち並ぶ表通りとは、別世界かと思うほど雰囲気が違っていた。
冬が過ぎたとはいえ、三月下旬の今はまだ寒い。ブダペストに本格的に春が訪れるのは、まだ一ヶ月ほど先のことだ。温かい紙袋を抱えて狭い階段を上りきり、テディは静かに鍵を回し、そっと部屋のドアを開けた。
――部屋を出るときにはついていなかったベッドサイドのランプが、部屋のなかを淡く照らしていた。様子を窺いながらなかへ入る――すると、ベッドで半身を起こし、無表情にこっちを向いているルカと目が合った。
「……ただいま。起きてたの」
「どこへ行ってたんだ」
「え……ちょっと、腹が減って……」
後ろ手にドアを閉め、テディは小さな丸テーブルの上に紙袋を置いた。
「起きてるんならこれ、一緒に食べる? 朝食には早いけど、まだ温かいから……」
ルカは眉間に皺を寄せてテディを見た。
「金はどうした」
「……このくらいは持ってたよ」
「嘘をつけ。おまえ、俺が持ってろって渡しても受けとらなかったくせに……云えよ。それを買う金はどうしたんだ」
テディは俯いて、なにも答えようとはしなかった。
ルカが頭を抱えて溜息をつく。
「またかよ……。おまえ、なんでそんなことを、また……」
「……話はあとにして、先にこれ食べない? 冷めないうちに――」
ルカはブランケットを撥ね除けて立ちあがり、テディに歩み寄って大きな声をだした。
「いらねえよ、そんな金で買ったもんなんか! そういうことはやめてくれって、何度も何度も云ったじゃないか! それでおまえももうしないって、泣いて約束してたろ!? なのになんでまたやってんだよ、ほんとにもういいかげんにしろよ!!」
「だって……雇ってくれるところもないし、金がないと――」
「金の心配はしなくていいって云ってるだろ!? とりあえずなんとか落ち着けるまでは俺に任せとけって――」
「ルカの金じゃない、親父さんの金だろ!? ルカはいいかもしれないけど、俺はそういうの嫌なんだよ!」
「嫌なのはわかってるよ! わかってるけど、だからって躰売るこたぁないだろ! それとも金を口実に遊んできただけなのか? またいつもの悪い癖でさ!!」
「……そうだよ! 好きなことをしてついでに小遣いもらってきたんだ、なにが悪い!? ルカが親から金をもらうのと、俺がファックした相手から金をもらうの、いったいなにがどれだけ違うって云うんだ!」
テディがそう云うとルカは震わせた唇をきゅっと引き結んで、ベッドの脇の椅子に掛けてあったショートコートを手に取った。そしてつかつかとテディの脇を通り過ぎ、たった今テディが入ってきたドアへと向かう。
テディは顔色を変え、慌ててルカの腕を取った。
「どこへ――」
「出ていくんだよ。イギリスへ帰る」
「待って、ごめん……! 俺が悪かったよ、ちょっと云い過ぎた。遊んできたつもりはないよ、ただ俺、他にできることがなくて――」
「触るな。
ルカは苦々しげに振り向くと、冷ややかな顔でテディを見た。
「よく知りもしない男と寝ることはできても、俺の親の金を使うことは我慢できないんだな。よくわかったよ、もういい。おまえは俺の気持ちなんかぜんぜんわかっちゃいないし、俺ももうおまえのことがわからないよ。もうたくさんだ。今度こそもう、本当にこれっきりだ」
テディの手を振りきって、ルカはドアノブに手を掛けた。
「待ってルカ……今度こそもう、本当に二度としないから……約束する。だからおねがい、出ていくなんて云わないで……! 俺をひとりにしないで」
必死に縋りつくテディの手を払い除け、ルカは再び振り返ることなく部屋を出ていった。
ぺたんと力尽きたようにその場にへたりこみ、テディは床の冷たさにぶるっと身を震わせ項垂れた。
どんなときだって腹は減る。テディは出の悪い温いシャワーを浴びたあと、スウェットスーツの上からニットカーディガンを羽織り、電気ケトルで湯を沸かした。インスタントのコーヒーとミルクでカフェオレを淹れ、フレンチサラダとフライドポテトを並べて、もう冷めてしまったチキンサンドウィッチに齧りつく。
ルカとこんなふうに喧嘩をするのはもう何度めかわからない。少なくとも両手に余るほどは繰り返してきたことだった。テディが他の男とキスをしたり、セックスをしていたのがばれてルカが怒る。当然のことだった。
テディはそのたびに本気でもう二度とこんなことはしないと誓うのだが、気がつくと何故か同じことをしてしまっていた。テディのことがわからなくて途方に暮れているのは、実は彼自身のほうだった――男に性的な目を向けられ、また襲われるのではと恐れて仕事を辞めたというのに、どうして自分から躰を売ることは容易にできてしまうのか。
そして、次に考えるのは、こんな自分にルカの傍にいる資格があるのか、ということと、自分はルカと離れて生きていけるのか、ルカにとってはどっちがいいのだろうか、ということだった。だが――
『穢らわしい、穢らわしい……っ!』
『もうだめだ、無理だ! もう金輪際、今度こそ――』
『俺たちはずっと一緒だ。俺はおまえと離れたりなんかしない。離さない』
そのとき思ったままを率直に口にするルカの言葉が、いつまで経っても消えないまま躰中を巡ってテディを苛み、しかし突き放さず繋ぎとめる。
こつこつと足音が聞こえた気がしてドアのほうを向く。この部屋に誰かが訪ねてくることなど一度もない。ルカが帰ってきたのか――そう思って、まさかこんなに早くはないよなと自嘲気味に笑ったとき、かちゃりと鍵の音がしてドアが開いた。
「ルカ?」
入ってきたのは本当にルカだった。
暢気に食事をしていたと思われるのが後ろめたくて、テディは慌てて食べていたチキンサンドを包み紙の上に置いた。付いていたサーヴィエットで口許を拭い、顔をあげると、ルカが両手にパプリカの段ボール箱を抱えていることに気がついた。
ルカは黙ったまま部屋の奥まで進み、その箱をそっと床の上に下ろした。そしてその場に坐りこみ、箱を開け、困った表情でテディを見た。
「……みつけちまった。放っとけなかった……どうしよう」
「え?」
ミーと、か細い声が聞こえた。驚いてテディもその前で膝をつき、箱の中を覗きこんだ。
中から小さな仔猫が二匹、寄り添ってこっちを見上げていた。
もう目は見えているようだが、ミャーと大きく開いた口のなかにまだ歯は見当たらない。生まれたばかりというほどではなさそうだが、まだまだ母親を必要としている赤ちゃん猫のようだった。
「どうしたの、この仔猫……」
「ここを出てしばらく歩いてたら、スーパーマーケットのシャッターの前にこの箱が置いてあったんだ。ただの野菜の箱だし別に気にもしなかったんだけど、傍を通るとき声が聞こえてさ。まさかと思って開けてみたらこれだよ」
「これだよ、って……いったいどうするつもり? 飼うの?」
「知るかよ、飼うかどうするかなんて考えてないよ……ただ、まだこんなに寒いのにあのまま放っといたら死ぬかもしれないだろ。なんだか一匹元気がなさそうだったしさ。とりあえず連れて帰って、それから考えようと思ったんだよ」
テディは箱の中で寄り添う仔猫たちを見つめた。確かに、一匹は元気よくミャーミャーと鳴いているが、もう一匹のほうはぶるぶる震えながら這いつくばっていて、健康状態がよくなさそうにも見える。
「……お腹がすいてるのかな」
「ミルクあったよな、やってみよう」
ルカはそう云って立ちあがり、キッチンとも呼べない小さなスペースにある冷蔵庫を開け、ミルクのパックを取りだした。――が、途惑ったようにそのまま動きを止め、またテディを見た。
「どうやってやりゃいいんだ?」
「俺に訊く? ルカんち、猫いっぱいいたじゃない」
「いたって仔猫の面倒なんかみたことないよ」
「うーん、小皿に入れると嘗めるかも……。でもちょっと待って。寒いのに冷たいままじゃだめなんじゃない? それに、牛乳なんて猫にやっても大丈夫なの?」
それを聞いてルカはうーんと考えた。確かにブリストルの家には猫が何匹もいて、仔猫が産まれたことも一度だけあった。が、仔猫の世話は周りにいる猫たちがきちんとしていたし、ある程度大きくなると母猫から離し、母と叔母がどこかへやってしまったので、ルカは特にかまったこともない。
「……少しお湯で薄めよう。あと、砂糖入れるといいんじゃないか? 点滴みたいな感じで」と云った。テディは心配そうに首を傾げる。
「いいのかなあ、それで」
「餓死させるよりはましだろ、やってみよう」
ルカはそう云うと、入居当時からここにあったコーヒーカップの皿をさっと洗った。そして砂糖をほんの少しとお湯とミルクを混ぜたものを入れた皿を床に置き、箱から仔猫たちを出してやる。
元気なほうの仔猫はミャーミャーと鳴きながら皿のほうへ寄っていき、前脚を片方ミルクのなかに突っこんだ。
「あーあ」
「タオルとってくるよ」
それでも匂いがわかったのか、顔を皿に近づけぴちゃっと鼻先に付いたミルクを嘗めるのを見て、ルカはほっとした。
だが、もう一匹のほうは置いた場所に蹲ったまま動こうとしなかった。指先にミルクをつけて口許に持っていってやっても、嘗めようともしない。
「まだ哺乳瓶が要るのかもな。動物病院とか連れていったほうがいいかな」
「でも今日、土曜日だよ」
元気なほうもミルクを欲しがっている様子はあるが、まだ皿からだと上手く飲めないようだった。それを見て、テディは云った。
「もう少し待って、店が開く時間になったら俺、いろいろ買ってくるよ。仔猫用のミルクとか哺乳瓶とか、大きなドラッグストアなら売ってるだろうし」
「じゃあ一緒に――」
「だめだよ。仔猫だけ置いて放っておくわけにいかないだろ……。どうせいろいろ買いたかったものもあるし、あとで俺行ってくる」
「わかった。……テディ」
「うん?」
ルカはじっとテディを見つめた。
「さっきは俺も云い過ぎたよ」
ルカにそんなふうに謝られ、テディは少し驚き、しおらしい態度で俯いた。
「……悪いのは俺のほうだし。ちゃんとわかってるんだよ、ルカが怒るのは当然だって……でも」
「ああもう、でもは云いっこなし。要は早く仕事がみつかればいいんだ。そうだろ?」
「……うん」
しゅんと俯いたままのテディに手を伸ばし、ルカはこつんと額に額を合わせ背中に手をまわした。顔をあげたテディの目を覗きこみ、ゆっくり顔を傾け口吻ける。
「……なんか食ってた?」
「あ、ごめん……さっきのあの、チキンサンド……」
ああ、とルカはテーブルの上を見やり「そういや腹減ったな」と、胃の辺りをさすった。
「でもあれ食べるの……嫌なんだよね、ルカ……」
「……いや、もらうよ」
仔猫たちを箱の中に戻し、ふたりは早めの朝食を摂った。
食べているあいだ、ふたりはまったく口を利かなかった――いつもなら食事中、たわいも無い話をするルカが、ずっと無言で食べていたからだ。やっぱりまだ怒っているのだろうかと、テディが心配そうに顔色を窺う。
ルカはそれに気づいてテディの目を見たまま咀嚼し、コーヒーを一口飲んだ。
「やっぱり旨くないよ。でもぜんぶ食うけどな」
それを聞いてテディは、自分が思っていたよりもルカはちゃんと自分の感じていたことをわかっていたのかなと、ほっとするような恥ずかしいような、複雑な思いに駆られたのだった。
「グッバイ、イエロー・ブリック・ロード」 ②へ続く 🐾
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