「選択」 ③

 親しい隣人たちとアーウィンの同僚が集まったフェアウェルパーティに、イーサンのために悪友たちが開いてくれた『退学喰らう前にニューヨークへ逃亡おめでとう』パーティ。ガレージセールの準備や当面は使わないものの荷造りなど、引っ越しの準備は着実に進んでいた。

 しかし、オレオは姿を見なくなってから三日経っても四日経っても、戻ってはこなかった。イーサンはハイスクールから帰ると、オレオが戻ってきたかどうかを真っ先に尋ねた。気が進まないが出ないわけにはいかない自分のためのパーティの日も、終わるとすぐに普段通らない道まで轍で塗りつぶすようにして帰った。

 今日は戻ってくるかも、今日こそは帰ってくるかもと待ち続け、夕食が済むと堪えきれずに懐中電灯を持ってに出たりもした。そんな自分を見かねてか、アーウィンも一緒になって近所を捜し歩いてくれた。

 そんな金曜の夜。懐中電灯で照らした先になにか動くものが見えた。「オレオ?」と声をかけながら近づいてみると、きらりと二つの眼が光った。

 やった、みつけた――と思ったのも束の間、舗道脇の芝生に照らしだされたその眼の主は、猫は猫でも茶トラ模様レッドタビーの、でっぷりとした大柄な猫だった。オレオではない。

 イーサンはがくりと肩を落としながら、その猫の前にしゃがみこんだ。

「……やあ、どこの子? 野良かな……この辺はおまえの縄張りなのか? ……あのさ、うちのオレオっていう猫を捜してるんだ。もう何日も帰ってきてなくて、心配なんだ……白いソックスを履いた黒白模様の男の子だよ。もし見かけたら、うちに帰ってくるように伝えてくれないか」

 レッドタビーの大きな猫は、しばらくじっとイーサンの顔を見ていたが、やがてふいと歩み去ってしまった。イーサンは、自分はいったい猫になにを云ってるんだろうと自虐的な笑みを浮かべ、とぼとぼと家に戻った。

 冷蔵庫を開けて水を飲むと、扉に貼られたカレンダーが目に入った。丸のつけられた転居日と、それに近づいているチェック印。オレオは自分たちがこの地を離れてしまう月曜までに戻ってこないのではないか、もうオレオには会えないのではないかという不安が、もう数日しかないという焦りと混じり、膨らんでイーサンを苛んだ。

 ふらりとそこにあった椅子に腰を落とし、イーサンは両手で顔を覆った。と、ちょうどそこへマデリンがやってきて、「イーサン? どうかしたの、大丈夫?」と声をかけた。

 イーサンは顔を上げ、母の姿を見ると、八つ当たり気味に自分の中に巣食う不安を吐きだした。

「母さんのせいだ……! オレオ、家の中がぐちゃぐちゃだったから落ち着けなくて出ていったのかも……それとも、ひょっとしたら自分が余所にやられるってわかったのかもしれない。オレオは利口だから……。どうするんだよ、このままオレオがどこにいるのかわからないまま放っていくのかよ……。こんなの、余所にやっていくより酷いじゃないか……。オレオ、外には自由に出てたけど、自分で餌を獲ったりはしてないんだぞ……、生きていけないよ。オレオ、死んじまうよ、これから雪だって降るのに――」

「イーサン……、そんなに思いつめないで。ひょっとしたらあの雨の日に誰かが家の中に入れて、それきり出さないだけかもしれないし」

 テーブルに突っ伏して譫言のように繰り返すイーサンの肩に、マデリンはそう云ってそっと手を置いた。「明日はガレージセールよ。朝早くからまたばたばたするから、今日は早めにやすみなさい。……ミルクを温めてあげるわ、蜂蜜入りで」

「いらない……。やっぱり俺、ここに残る……そうだ、オレオがみつかったらそれからニューヨークへ行くよ。それならいいだろ?」

「イーサン、無理を云わないで。もう諦めなさい……云いにくいけど、ひょっとしたら車に撥ねられたりしたのかもしれないのよ?」

 イーサンも、その可能性に気づいていなかったわけではない。しかし、そんなことをわざわざ聞かせてほしいわけがなかった。そんなことを口にできる母を冷たいと思った。

 逃げるように二階に上がり、イーサンはもうなにも考えたくなくてベッドに潜りこみ、ブランケットを被った。





 ガレージセールは想像以上に盛況だった。新聞広告を出していたおかげか、アンティークショップやセカンドハンドショップの業者も見に来ていた。当然だが高価なもの、上質なもの、状態の良いものからどんどん売れ、このぶんだと明日は午前中だけで切り上げてしまえるかもとマデリンが話していた。

 家の前や車庫、そしてリビングまで大勢の見知らぬ人が出入りするのを忌々しげに眺め、イーサンは自転車で家を出ると当てもなく周囲を走りまわった。あんなふうに知らない人間がたくさんいたのでは、もしもオレオが近くまで戻ってきていたとしても、家に入ろうとはしないだろう。だからその辺で遠巻きに様子を窺ったりしていないかと思ったのだ。

 しかしオレオの姿はどこにもなく、その日のガレージセールが終わっても、やはり帰ってこないままだった。

 父も母も、ガレージセールが順調なことばかり話していて、オレオのことなどもうどうでもいいかのようだった。否、そんなことはないのだろうが、自分よりも諦めがいいのは間違いない。みつからないのだからしょうがない、と思っているのだろう――もう、ニューヨークへ行くその日までたったの二日だ。僅かな望みに縋るより、諦めたほうが楽なのは確かかもしれない。

 さすがにイーサンも、オレオがどこかで元気にしていてくれればと願うしかないのかもと、少しずつ考え始めていた。



 その夜――

 いつ降りだしたのか、雨が窓ガラスを叩く音にイーサンは目を覚ました――が、なぜか自分はベッドではなく、外のどこか高いところにいて、そこから家を眺めていた。

 足が地についていない。靴さえ履いていなかった。妙な浮遊感になんだ? と思い下を見る――ようやくイーサンは、自分が樹の上にいるのだとわかった。よくオレオが登って遊んでいた、庭の片隅にある小楢コナラの樹。

 辺りは真っ暗で――夜なのだから当然かと思ったが、なぜか家の周りだけがぼうっと明るくはっきり見えた。しかし中の常夜灯も、防犯のためのガーデンライトも、なにもついていなかった。人気ひとけもない。

 そんな静まりかえった家に、そろりそろりとなにかが近づいていった。夜の闇の中、光に包まれたように黒と白、タキシード柄の猫の姿が浮かびあがって見える。とことこと進める前肢は、ソックスを履いたように先だけが白い。

 オレオ……! オレオだ。オレオがやっと戻ってきたと安堵し、樹から降りようとしたが、なぜか躰が動かなかった。呼びかけようとするが声もでない。

 もどかしい思いでじっとオレオを見守っていると、やがて聞き慣れた可愛い声が聞こえた。にゃあーん。にゃあーん。その声が、だんだんと悲痛に響き始める。にゃおん? にゃおん? やがてオレオは後肢で立ち、真っ暗で中の見えないガラス戸を、かりかりと引っ掻き始めた。

 にゃあん、にゃあぁん。イーサンにはわかった。開けて、中に入れてー。オレオはそう云っているのだ。けれど、たぶんあの家の中にはもう誰もいない。きっとここは、自分たちがニューヨークへ行ってしまったあとの世界なのだ。そして、間に合わなかったオレオがもう誰もいないなどと知らず、どうして開けてもらえないのかと哀しい声で鳴いている。

 俺はここにいるのに。オレオ、おまえを置いていくなんて、そんなことできるはずがないのに――



「オレオ……!」

 開いた目から涙が溢れて顳顬こめかみを伝うのを感じ、イーサンはゆっくりと半身を起こした。

 夢だった……でも、きっと夢じゃない。。イーサンはベッドから出てジャケットを羽織ると、部屋を出て階段を下りていった。

 玄関に向かっていると、両親の寝室のドアが開いてマデリンが顔を出した。時計は見なかったが、もう起きだす時刻だったのだろうか。それとも足音で目が覚めたのだろうか。

「イーサン? どうしたのこんな夜中に……どこへ行くつもりなの」

 夜中、ということは後者だったらしい。しまったと思ったが、イーサンは「オレオを捜しにいくんだ」とそのままを口にした。

「……イーサン、おねがい。もうオレオのことは諦めて。こんな時間に捜しに出ようだなんて、いくらなんでも思いつめすぎよ……さ、部屋に戻って――」

 廊下に出てきたマデリンを振り返り、イーサンは感情が噴きだすまま、ついさっきみた夢の話をした。

「だめなんだ……やっぱりオレオをみつけなきゃ。置いてなんていけないよ、みたんだ。もう俺らがいなくなって空っぽになった家に帰ってきて、中に入れてーって鳴きながらガラスを引っ掻いてるオレオを……。オレオはきっと俺たちに裏切られた、棄てられたって思うよ。引っ越しとか外に出られない都会のアパートメントとか、そんなことオレオにはわかんないんだからどうだっていいよ。俺ら家族と一緒にいるのがいちばん確かなことなんだ」

 涙をぽろぽろと零しながら話すイーサンに、マデリンも目を滲ませた。どこから聞いていたのか、ドアの傍にはアーウィンも立っている。

 イーサンはマデリンに抱きしめられながら、アーウィンの言葉を聞いた。

「わかったよイーサン。明日、ガレージセールを早めに終えたら近所に挨拶回りがてら、オレオのことをよくおねがいしてこよう。保健所や動物保護団体にも写真を送って、もしもみつかったらすぐに連絡をもらえるよう頼んでみる。だからもう部屋に戻りなさい」

「みつかったら、オレオもニューヨークに連れていく?」

「ああ。樹や庭がなくて可哀想と云ったが、棄てられたと思わせるほうがもっと可哀想だ。おまえの云うとおりだと思うよ」

「猫が齧っても安全な観葉植物とか、いっぱい置けばきっとましだよ……猫草キャットグラスも、キッチンの窓際とかで栽培するよ。母さんは家の中で吐かれたらいやかもしれないけど――」

「いいのよ、そうしましょう。キャットツリーも置いてあげるといいわ、いちばん大きな窓の傍に」

「ああ、カリモクの洒落たやつを買ってやろう。きっとオレオも喜ぶ」

 子供のようにしゃくりあげながらうんうんと頷き、イーサンはキッチンで蜂蜜入りのホットミルクを飲んでから、部屋に戻った。





 日曜日。ほとんどガラクタしか残っていなかったガレージセールは、予定通り午前中、早めに終えた。そして売れ残ったものと不用品の処分を済ませると、アーウィンは云っていたとおりマデリンと近所に挨拶回りに出掛けた。

 ちゃんと頼んでくるから、おまえは家にいて、荷造りの続きをしてしまいなさいとアーウィンに云われ、イーサンは素直にCDや本、文具などを出してまとめ、箱詰めをした。

 ――玄関のブザーが鳴った。アーウィンもマデリンもいないのに誰だろう、とイーサンは階下したへ下りていき、玄関のドアを開けた。

「こんにちは、イーサン」

「カイリー……」

 別れ話をしてから、学校で擦れ違ったりしてもまったく言葉を交わしてはいなかった。だが、カイリーの留学も自分のニューヨーク行きもオレオのことも、もう肚が括れていたからか、彼女に対して負の感情が動いたりはしなかった。

 自分しか家にいないので、庭ででも話そう。そう云ってイーサンは、カイリーと家の裏手にまわった。

「このあいだは悪かったよ。ちょっときつい言い方をした」

 ウッドデッキに並んで腰掛け、イーサンはカイリーに謝った。カイリーは「ううん」と首を横に振り、持っていた紙袋を差しだした。

「これ、ありがとう。おかげで雨に濡れずに済んだわ。……オレオのことも聞いた。私がここにいるあいだにもしも見かけたら、必ず保護して連絡する。みつからないあいだも、餌とお水を毎日置きに来る。約束するわ」

「それやると野良の溜まり場になるよ。……でも、ありがとう」

 イーサンはじっとカイリーを見つめた。カイリーも自分を見つめ返してくれる。そして、少し寂しげに微笑んだ。

「……行くのね、ニューヨーク。明日だっけ」

「うん、明日」

 ざぁ……と風が吹いて、枝葉の擦れる音がした。空を見上げると、また雲行きが怪しい色になっていた。

「また雨が降りそうだな」

「イーサン、雨男なんじゃない?」

「えぇ? カイリーかもしれないじゃないか」

「私たちが一緒にいると降るのかも」

 ふたりしてくすっと笑って――イーサンは、すっと立ちあがった。

「傘、貸すよ。……って、もう棄ててくれればいいけど」

「うん、借りとく。……いつか、もっとおとなになってから返したいって思うかも」

 そんなことを云ったカイリーに堪えきれなくなり、イーサンはハグをした。

「離れても忘れないよ。……いつか、とびきりのいい女になったおとなのカイリーに再会できることを祈ってる」

「イーサンも……ニューヨークのビジネスマンになった、かっこいいイーサンにいつか会えるって信じてるわ。元気で」

「ありがとう。カイリーも、元気で」

 頬にキスをし、傘を手にカイリーが帰るのを見送って、中へ入ろうとしたとき――ああやっぱりと、イーサンは降ってきた雨に顔を顰めた。

 オレオ、オレオ。俺たちはもう明日行ってしまうよ――心のなかでそう話しかけながらイーサンは、オレオがどこか雨風の凌げるところにいますようにと神に祈った。




       * * *




 月曜日――とうとうニューヨークへと引っ越すその日がやってきた。

 オレオは帰ってこないままだった。雨脚は弱まっていたものの、ぱらぱらと降り続けるなかでの荷物の搬出作業は予定よりも時間がかかっていた。業者がシートで覆いながら、濡れないよう慎重にトラックへと運び込む。その様子を見ながら、アーウィンとマデリンは空っぽになっていく家の中をうろつき、感慨深げに眺めていた。

 イーサンも、ぎりぎりまで片付けられなかった衣服などをダッフルバッグに詰め、しっかりと充電しておいたラップトップや携帯ゲーム機、ヘッドフォンなど自分で持っていたいものをバックパックに入れた。これで部屋の中は空っぽだ。

 あとはもう積み込みが終わったらトラックを見送り、最後のチェックをして、アーウィンのインフィニティQ50とマデリンのホンダCR‐Vの二台に分かれ、ニューヨークまでドライブだ。

「――じゃあ、自分らは途中で休憩してゆっくりと向かいますんで、向こうに着いたら電話をください」

「わかりました。では、よろしくおねがいします」

 トラックが発車するというそのとき、ちょうど雨もあがった。大きなエンジン音とともにトラックが走りだすのを見送っていると、隣人が外に出てきてマデリンに声をかけた。

 ハグをし合ったりしている母を見ながら、イーサンがこの隙に運転席に坐っちゃおうか、などと思っていると――

「……オレオ?」

 黒白模様の猫が、とことことこっちに向かって歩いてくるのに気がついた。広い舗道から芝の上をのんびりと散歩でもするかのように、ゆっくりと白いソックスを履いた前肢を進めている。間違いなくオレオだ。

「オレオ……!」

 名前を呼ぶと、オレオは立ち止まって前肢をちょんと揃え、やれやれやっと騒々しい作業が終わったかとでもいうように、うーんと伸びをした。

「オレオ、よかった……!」

 バックパックを放りだし、イーサンはオレオを驚かさないようゆっくり近寄り、しゃがみ込んだ。いったいどこにいたのか、オレオは見たところまったく濡れていなかった。オレオ、オレオかと名前を呼ぶ両親の声にイーサンは笑顔で一瞬振り返り、オレオを抱きあげようと両手を伸ばした。

 ――よかった、オレオ。さあ、家族みんなで一緒に行こう。

 いつものようにぴんと尻尾を立て、オレオはその手に顔を擦り寄せると――

「にゃあん」

 と、甘えるように鳴いた。









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♪ Chris de Burgh "Rhythm of the Rain/Crying in the Rain"

≫ https://youtu.be/Do8J53T1qGA


「選択」 -Rhythm of the Rain/Crying in the Rain-

短篇集〈❦ 10 Love Songs and Stories -君を想いて-〉収録

https://kakuyomu.jp/works/16816700426557489103

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