第2話

 それが起きたのがどれほど前か、どのようにして起きたのか、イザベルは詳しいことを知らない。

 かつて、高度に発達した文明があった。平和で豊かなその時代は、イザベルが生まれるずっと前に終わりを迎えた。街は瓦礫に覆われ、人がたくさん死んだらしい。多くの土地が汚染された。今も汚染区域には立ち入れない。イザベルが知っているのは、凄惨な出来事の内容ではなく、その結末だけだ。旧文明の文化も知識も技術も、ろくに知らない。そうなった原因も分からない。分からなくても、それを受け入れて生きるしかなかった。


 シャノンが狩りから帰ってきたのは、日暮れのことだった。

「たっだいま~。いやあ、今日は大猟だよ〜」

 ご機嫌な声色で教会に入ってきたシャノンは、膨らんだ鹿の皮を背負っていた。解体した肉を獲物の皮に持ち帰ってくるのはいつものことなので、それについては気に留めない。だが、手足を縄で縛られた見知らぬ少女を右手で引きずっていることに、厄介ごとの気配を感じた。

「その子はどうしたんだ」

 問うと、シャノンはふにゃりと、緊張感の欠片もない気配で微笑んだ。

「教会に入ろうとしてた不審者だよー。拷問でもする?」

「心外です! 私からすれば、あなた方が不審者なのですが!」

 先ほどまで怯えているだけだった少女は、眉を吊り上げて怒鳴った。語気の割に威圧感がないのは、あどけなさを残した可愛らしい声と、小さな体躯ゆえだろう。

 なんとなく事情を察したイザベルは、ため息混じりにシャノンに言う。

「その子を座らせてやれ。ひとまず話を聞こう」

 シャノンはぶつくさと文句を垂れながらもイザベルの指示に従い、地べたに少女を座らせた。ただ、警戒心は解かず少女を注視し、素早くナイフを取り出せる姿勢を保っている。

「まあ、こんな世の中だ。あんたに事情があろうと、話の途中で怪しい動きを見せたら容赦はしない。分かったな?」

 少女は、小さい身体をさらに小さく縮こませて、激しく頷いた。

 話を聞いた――というより尋問に近いが――通りだとすると、少女は生まれてからずっとこの教会に住んでいたらしい。両親は既に亡くなっているが信仰に篤い人で、その教えに従って教義を広めるため、近くの小規模な集落をしばしば訪問している。そして、布教活動から戻ったところ、シャノンに捕まった。

 しゃくり上げながらの話でところどころ聞き取れなかったが、そういうことらしい。一通り話し終えた少女は俯いて、赤茶色の髪に隠れて見えないが、まだ泣いているようだ。鼻をすする音が時折聞こえる。

(予想どおりだな)

 この教会は旧文明の建築物のようだが、ところどころ隙間風が吹くとはいえ、人が住んでいないにしてはさほど劣化していない。目の前の少女は、体格を見るに十三歳にならないぐらいだろうか。建物の手入れの仕方が分からず放置している部分があるだけで、幼いながらに工夫しながらここを生活の拠点としているのだろう。

「なるほど。疑ってすまなかった。おいシャノン、食事の準備を頼む。三人分だ」

「……はーい」

 不満げな声色だ。警戒というより、二人の時間を邪魔されたことの苛立ちだろう。イザベルは、視線を目の前の少女に戻した。

「そんなところに座らせてすまなかった。どうか椅子に座ってくれ」

 少女は恐る恐る、通路を挟んで隣の長椅子に腰かけた。

「あんたが――、いや、すまない。自己紹介が先だな。私はイザベル、あっちにいるのがシャノンだ。あんたの名前は?」

 数拍の後、か細い声で答えが返ってくる。

「オリヴィア。オリヴィア・マリエル・アグバビ、です」

「オリヴィアが行った集落は、ここから南の、大きな鐘が落ちているところか?」

 オリヴィアはこちらを向いた。オリヴィアとしっかり目が合ったのは初めてだ。

「そうです! ……マリアを知っていますか?」

 オリヴィアは、一瞬明るんだ表情を見せたあと、人を疑うことを思い出したように問うた。

「ああ。偏屈だがいい婆さんだ。一晩泊めてもらった」

「なんだ。マリアの言ってた『旅をしている二人の少女』って、あなた方のことだったんですね」

 オリヴィアは、安堵したようにため息をついた。『素性を全く知らない怪しい人間』よりは、『知人の知人』のほうがいい関係を築けるだろう。

(いい関係を築くには、初手が最悪すぎるが)

 とはいえ、目の前のオリヴィアから先ほどまでの怯えた様子がなくなったのも事実だった。加害者であるイザベルが彼女のこれからの人生をつい心配してしまうほどの人の良さだが、駄目元でそこに付け込ませてもらおうとイザベルは考えた。

「マリアから聞いているか分からんが、私たちは人を探すために旅をしている。野宿をしたり、旧文明の遺物を少し借りたりしながらここまで来た。誰も住んでいないと思っていたからここで冬を越そうかと考えていたんだが、今から別の場所を探すにも時間が足りないし、南の集落に戻るにも、少し都合が悪い。そこで頼みなんだが、冬の間、ここに居候させてくれないか? もちろん、断ってくれて構わない。頼みごとをするには、私たちはあまりに無礼を働きすぎた」

 オリヴィアは、緊張を吐き出すようにため息をついた。

「構いませんよ。ここは、教会です。迷える者を追い出すようなことはありません。そして、困っている人がいたら助けるのが、神の信徒である私の使命です」

「ありがとう。恩に着る。私たちのことは好きにこき使ってくれ。シャノンのことは、まあ、私が何とかする」

 何とかなるのか疑問に思っているのだろう、オリヴィアは困ったように笑った。

「こちらこそ助かります。今年は冬支度があまり順調でなくて」

 オリヴィアから冬支度の進捗状況を聞いて当面の方針を固めた頃、苛立たし気なシャノンの声が聞こえた。

「ご飯、できたけど」

 イザベルは思わず苦笑いを浮かべた。何とかすると言った手前、何かしら手を打つべきだ。二人きりのときに甘やかせば気が済むだろうか。オリヴィアが近くにいる状態で説得するのは難しいだろう。長期戦かもしれない。

「続きは食事をしながらにしよう」

 ひとまず問題を先送りにすることにして、イザベルは立ち上がった。


§


 火の側に敷かれた毛布にあぐらをかいて、余分な布地は、足が空気に触れないよう巻きつける。オリヴィアも、天敵を前にした小動物のように怯えながら、腰を下ろした。

 火の温もりを感じることで、自分の身体がすっかり冷えきっていたことにイザベルは気づいた。

(シャノンを遠ざけるためとはいえ、オリヴィアには悪いことをしたな)

 そもそもイザベルたちのほうが無理に押しかけているのだから、あまりに不当な扱いだ。イザベルは申し訳なく思った。

 用意されていたのは、鹿肉と野草を茹でたスープと、以前訪ねた集落でもらったパンだった。パンは朝に食べた時点で固くなっていたから、味の乏しいスープに浸しながら食べる。

 イザベルは多弁ではないし、シャノンはあの調子だ。和やかな食事、とはいかない。必要な話をした後は、スプーンが食器に当たる音と焚火が時折爆ぜる音だけが響いた。

 しばらくして、沈黙に耐えかねたのか、オリヴィアが口を開いた。

「お二人が探してるのって、どんな方ですか」

 人相書きがある、とイザベルは立ち上がって、部屋の隅に置かれた荷から一枚の紙を引っ張り出して元の場所に座りなおした。

「この男だ。なにか心当たりがあれば、些細なことでもいいから教えてほしい」

 イザベルが差し出したセピア色の紙には、強面の男の顔が描かれていた。

 短髪で、眼つきは鋭い。左下の余白に、牙をむき出しにして笑う蛇のデザインが描かれている。

「うーん、見覚えがないですね。そもそも、教えを広めに行くのもよく知った南の集落だけで、他にはあまり人の関わりがないんです」

 オリヴィアは、申し訳無さそうに微笑んだ。シャノンは、黙々と食事を続けている。

「その方とは、どういうご関係なんですか?」

「ちょっと縁があってな。返さなければいけないものがある」

 そうなんですか、とオリヴィアが相槌を打つ。それ以上は踏み込まれなかったので、イザベルは内心安堵した。

 それからは他愛もない世間話をしたが、シャノンが会話に混ざることはなかった。

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