小林家

「え、マサ、S高行くの?」

浅井英寿は目を丸くしてそう言った。

「母さんが」

「M高行きたいんじゃなかったのかよ」

「まあ、兄さんもS高だしなあ……進学実績とか?」

本当は嫌で嫌でたまらなかった。兄のおさがりの学ランに腕を通すのも、「マサくんも優秀で」と顔も知らない親戚に評価されるのも。兄のようにはならないと決めていた。親の言いなりになってやつれていく兄を見てこうはならないと決めていた。

小林雅也は優等生だ。両親ともに医者であり、続くように兄も医学部に進学した。雅也は医者になりたくなかった。雅也の知る医者は高慢だ。我儘だ。利己主義的でヒステリックだ。

親のように、兄のようになりたくない。

だから、親の反対を押し切って一番ハードなテニス部に入部したし、塾に行くと嘘をついて遊園地に行った。それでも彼はできてしまった。嫌になるほど器用なのだ。そのせいで評価は嫌に上がっていく。『文武両道』『天才』『隙がない』……そんなことを言われる度に親は喜んだ。謙遜をしつつ、喜んでいた。それがとても癪だった。

「俺、M高行くから」

そういったとき、母の顔は青ざめた。

しめた、と思った。これでもう解放される。せいぜい絶望すればいい。

「それじゃ」

そう言ってリビングを出ようとしたそのとき。

「お前、なんてことを言うんだ」

父親が手を挙げた。

「お前のためにどれくらいの金をつぎ込んできたと思っているんだ!この親不幸者が!」

「俺はそんなこと頼んでない!塾だって行きたくなかったし、俺は医者になんかならないからな!」

親の激昂を他所に雅也は自室に閉じこもった。

「雅也、開けなさい!雅也!」

ドンドンと激しくドアを叩かれる。雅也は耳をふさいだ。こんな家、とっとと出て行ってやる。高校に行ったらバイトで金を稼いで、それで___。

「出てこないとスマホ壊すわよ!」

母親の声にハッとした。学生にとってスマートフォンは生命線だ。もし、壊されたら万が一の連絡さえもできない。雅也の家には『家電』がなかった。自身のスマホがなくなれば、親か兄のスマホを使う外に道はない。変にマメな親のことだ。塾や家族以外に連絡してしまえば、不審がるに決まっている。

雅也はドアを開けた。

「やめてください……お願いします」

屈辱だ。悔しい。何もできない。何の権力もない。

「ただいま」

帰ってきた兄は自分を一瞥して部屋に戻った。

「わかったならよろしい」

「雅也、進路のことは親御さんと相談しなさいって先生に言われたでしょう?お父さんもお母さんもあなたのことを思って言っているのよ。M高なんて行ったら、将来絶対に幸せになれないわ。あのね、高校に通うのだってお金がいるのよ。S高ならまだしもM高見たいなところにお金を払うなんて、無駄遣いにもほどがあるわ。お兄ちゃんを見てみなさい。K大学の医学部なんてそうは入れるものじゃないのよ。お兄ちゃんは幸せな未来がもう約束されているも同然。雅也も幸せになりたいでしょう?大丈夫。私とお父さんがしっかり考えてあげるから」

そういうのいいから。

その言葉すら諦めた。

絶望。

絶望。

絶望。

雅也は所詮トロフィーなのだ。『自慢の息子』としてのトロフィー。父親と母親の合金で作られた、形の良いモノでしかない。だから、留まっていなければならない。トロフィーに自我があってはならない。価値がなくてはならない。誰がどう見ても素晴らしくなくてはならない。


小林夫妻は二冠を達成した。

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