第1話

糸屋の娘に、学は要らぬ。

 ただ、糸を吐けばいい。

そう母から習い、ただただ生きて来た私にとって、あの日の夜階段下を覗いたのは、単なる好奇心。普段なら出てくる事が無い冒険心からでした。

 父の怒鳴り声、それに負けずと篤志家の青年は背丈ほどもある大きな紙を持って、何かを叫んでいました。それは何度も見たことがありました。要は、お金を貸してくれ。後で倍にして返す。という決まり文句。そしてそれに混じって、糸をくれという叫び。

 ただ、その篤志家の真剣な眼差しに私は、人生で初めて、例えようがない程の衝動に駆られて走り出したい欲求に囚われました。恋だったのでしょう。それが恋とも気付けない純粋無垢。そんな世間知らずな幼子は大層な紙束を持って篤志家が去ったのち、父親に「今のは何ですか?」と尋ねました。

「また胡散臭い連中だよ。」父はそういって軽蔑の眼差しを玄関に向け、私室に戻っていきます。

 その青年はその次の日も、また次の紐やってきました。何度も父は怒鳴り、追い返し、それでも根気強く夕方の時間を使って篤志家の青年はやってきます。

 私は、彼が気になって仕方がありませんでした。父に親しい女中は、「今度来たらたんまりと白米を分けてあげよう。」と言っていましたが、父は、「あれは飢えているんじゃない。でかい博打を打つ金が欲しいのだ。」といって優しくそれを否定します。それを聞くても女中は「でも、腹いっぱいになればそんな馬鹿なこときっと忘れるわ。」と食い下がるも父は「そうはならぬのが、巷で流行る発明家というものなのだ。」と首を振って答えました。

 発明家、いその言葉が十五の娘の心の中でどう響き、何故惹かれたのか。正確に答えることは出来ません。ただ、何者とも言えぬ感情は更に大きくなり、私はとうとう学校でも無いのに勝手に家を抜けだし、篤志家の根城の方へと向かいます。


 町外れの空き地にひっそりと建つ小屋。どうやってそこを見つけたのか、今となっては思い出せませんが、私はその場所にある大きな小屋を見つけ、天井から様子を伺おうとしました。前のめりになり過ぎたのか、あるいは糸の固定が上手くなかったのか、私は篤志家の青年の前に落ちてしまいました。

 さて、どうしたものか、と不安そうに彼を見ていると、「君は、あの家の」と彼は口にしました。ちゃんと階段奥を見ていたのです。

「お嬢様に頼みたいことがございます。」彼はその場で地に伏して頭を下げました。「糸を、少しばかりお恵みいただけないでしょうか」

「お答えの前にお聞かせください。」私は即答しませんでした。「貴方は何を成そうとしていらっしゃるのですか?それにより回答はは変わります。よもや詐欺などでしたらば……」

 言葉とは裏腹に本当は彼が情熱を持って取り組む未知の何かを知りたいという興味が大きかったのでした。青年は、「これを……」と指し示した先には、骨組みの塊がありました。それも見たことの無い形の……

これは?と訪ねると、青年は、「これは、空を飛ぶ機械。」と答えました。

「その骨組みの塊が?」

「いえ、これは未だ未完成です。」と彼は答えました。「この翼に布を張りさえすれば、この翼は風を掴む。……その為の丈夫で軽い糸を望んでいたのです。」

成程と私は納得しました。自分の様に蜘蛛の一族の糸は確かに強く軽い。より、軽く作らねばらなない空飛ぶ機械に、私らの糸は最適でしょう。

 鳥でもないのに空を飛ぶなんて馬鹿げている。

 次に考えに至ったのはこれでした。あり得ない。と言う思い。しかし、この時の私は後の自分でも信じられないぐらい強い情熱に任せて走り始めたい欲望に駆られていました。だから、自分で出した提案に、自分で驚いたのです。

「あの……切れ端で避ければ、私の糸を、ほんの少しであれば……。」

 何でこんなことを言ったのでしょう。恋だったかもしれません。いや、それよりも、立派な屋敷の立派な部屋に閉じ込められていた自分の……そして、そこから出て行っても生きていく術がないということを分かっていたから……そこから出ていきたいという衝動だったのかもしれません。

 彼にその日だし残した糸を少しづつ提供します。用具は彼なりに準備していたようで、骨組みだけの機械は少しづつ、あるべき姿へと変わっていきます。

 作業をする彼の苦労を癒すため、私は彼のために好きな童話を読みました。今にして思えば、子供っぽく、歳不相応に教養が無いと思いましたけれど、私がそれを選んだのは、私が好きな物語だったからです。

 お話はこうです。ある熊が始めて冬眠を向かえる日の物語。小熊は、怖い怖いと震えて泣きます。母親は、大丈夫、必ず春がやって来て、そしたら、何処にでも行ける。そして、未だ見たことの無い春に触れることが出きるのだ。そう言い聞かせると子熊は笑って冬眠につきました。と言うお話。

「君はその話は好きかい?」彼がそう訪ねると私は肯定しました。そうだ、私も自由に何処にでも飛んで行けるなら、行ってみたかった街に行って、会ったことの無い人に出会ってみたい。

彼はにこにこと笑って、いい夢ですね。と笑いました。これができたらば、きっと出来ると行った後、もし、飛行機が出来たらば、貴女の旅にご一緒しても宜しいでしょうか。と聞かれました。私は、意図を察して、それが決して許されないだろうということなど怒毎なしに、ええ、その時は一緒に飛んでいきましょう。と彼の手を取って返答しました。


 こんな事をしていたのではあっという間に父にばれてしまいます。従者に後を付けさせた父は、その粗末な小屋に乗り込むなり彼を平手で張り倒し。「うちの娘をたぶらかしおって!」と怒鳴りました。

 帰るぞ。という父に私は、「待ってください。」と声を上げました。

「お父さん、あの機械が見えないのですか?あれはもうすぐ完成します。せめて、そこまでは手伝わせて貰えないでしょうか?」

「あんなガラクタが何になる?」

 強い声、これまでであったらばすぐに怯んでいました。しかし、この時ばかりは私は怯みませんでした。

「例えガラクタでも、もう半ばまで出来てしまいました。あと少しなんです。それに……」犬の様に歯ぎしりして言葉を止めさせようとする父に、私は怯まず続けます。「ここで失敗したら、この男はもう二度と彼が糸をせびりに来ることなどないでしょうから……。」

 父は少し頭を冷やして冷静になり、それから「これは傑作だ!」と破願し、そして、その通りにしました。糸はやる。ただし、飛行機が失敗したら、うちで借金を返し終わるまで働いてもらう。丁度機械の技師が欲しかった所だ。と。

 私は父に感謝し、そして、残りの糸は、私が用意するようにと言い渡しました。彼も私も望むところだ、と言ってそれを了承しました。ここで失敗して彼が紡織機の機械工に墜ちる事など全く考えません。

 程なくして、飛行機は完成しました。後は約束通り飛行機を飛ばすだけです。

町外れの平原に飛行機械は運ばれました。発射台での加速するための仕組みも用意されたそれはついに勢いをつけて飛び出しました。

 明らかに翼が空気を掴んでいる。波のうねりのような翼が空気を掴んでいる。

「飛んだ!飛んだ!」わたしは我慢ならず追いかけ始めました。

 飛行は数十秒でした。が、気球もついていないそれが確かに自由に空を飛んだ。それで十分でした。

「気嚢の無い鉄の塊が……そんなことがおこるとはな……。」父はそうこぼし、彼が無事飛行機を着陸させ、戻ってくると、「よかろう、貴様の発明に投資しよう。そして……」と投資家として敗北を認め、それから少し言い淀んだ後、「娘を……しあわせにしてやってくれ。」と、父親としての敗北を認めました。

 私は彼の手を取って踊り、未来を祝福しました。こうして、糸屋は飛行機工場を持つに至り、彼はやがて父の後継者になる立場になりました。

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