第7話 幼馴染

『ジュリア』


 温かな息遣いが聞こえる。

 逃げようにも、ジュリアの体はギルフォードによって抱きしめられて、身動ぐことくらいしかできない。


 彼の右手が顎にかかり、上を向かされる。

 左腕はジュリアの腰にしっかり回され、抱き寄せられた。

 心臓が早鐘を打つ。


『だ、め……』


 こぼれる声はかすれる。


『そんなに頬を赤らめて、瞳を濡らしているのになにが駄目なんだ? 愛している、ジュリア。好きなんだ』


 これまで聞いたことがないくらい優しく、感情の色濃く滲んだ彼の声。

 唇が近づいてくる。

 ジュリアは目を閉じた。


 はじめての感情に戸惑い、どうすればいいのか分からなかった。だけど不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 ギルフォードが、ジュリアの唇を塞ぐ――。


 ◇◇◇


「っ!」


 ジュリアははっとして目を開けると、一瞬、自分がどこにいるのかが分からなくなり、少ししてここがギルフォードの屋敷であることを思い出す。


 ――私ったらなんて夢を……。


 思い出すだけで、顔から火が出そうなくらい火照ってしまうし、心臓がばくばくと全力疾走したあとみたいに騒がしい。

 昨日の今日で生々しく思い出せてしまうが、ギルフォードがおかしいのはあくまで魅了魔法の効果のせいであって、彼の望むことではない。そうジュリアは自分に言い聞かせるが、それでジュリアの中の戸惑いが消える訳ではない。


 扉がノックされた。


「!」

「セバスでございます。ジュリア様、お目覚めでしょうか?」

「い、今起きたところ」

「朝食の準備が整っておりますので、お支度が調いましたら食堂までいらっしゃってください」

「分かったわ。ありがとう」


 ジュリアは部屋のシャワーを浴びて身支度を調えると、軍服に袖を通す。


「よしっ」


 鏡の前で気合いをいれたジュリアは一階の食堂へ入っていく。

 すでにギルフォードは席について食事をしていた。

 夢のことを思い出すせいで、彼と目を合わせづらい。


「お、おはよう、ギル」

「……ああ」


 セバスが食事を運んで来てくれる。


「昨夜はよく眠れましたか?」

「え、ええ、よく眠れたわ。突然おしかけたのに、色々とごめんなさい」

「坊ちゃまのためですのでご心配なく。今日のお帰りはいつくらいになりますか? 夕食の準備は……」

「待て。どうして当然のようにそいつがここで過ごすことになっている」

「仕方ないでしょ。状況が状況なんだから」

「お前がいなければ、何の問題も起こらない」


 ナイフとフォークを動かしながら、ギルフォードがたんたんと言う。


「私ならどうとでもなるわ。幼馴染だし、仮に押し倒されても騒いだりしない。でも他の女性に昨夜のようなことをしたら、ギルの今後に大きな問題が出るんだよ。分かってる?」

「するわけないだろ」


 ギルフォードは色白だから、頬が赤らむと目立つ。

 昨日のように目元がじんわりと紅潮している。


 ――そんな顔されちゃうと、こっちまで……。


 忘れたいのに、忘れられなくなってしまう。


「魅了魔法にかかっているんだから、何が起こっても不思議じゃないでしょ。それからなるべくテレポートを使うのはやめて。テレポート先に女性がいた場合、不測の事態が起こる可能性だってある。せめて解呪ができるまでは控えるべきよ」

「どうしてそこまでする」

「……昨夜のことは、私にも多少の責任があるの」

「問題なんてないだろう」


 本当ならジュリアが魅了魔法にかかっていたはず。それをギルフォードがかばってくれたのだ。


「……私が押しかけなかったら問題はなかったんだから。解呪方法が分かるまでの辛抱。解呪したらすぐに出ていくわ」

「――なんだ、セバス。なにをニヤニヤしている」


 はっとして、ジュリアはセバスを見る。

 この屋敷に仕えてている執事は微笑ましげに、ジュリアたちのやりとりを眺めていた。


「幼い頃のお二人を見ているようで大変微笑ましい気持ちでいっぱいでございます。まるであの頃に戻ったようでございます。もちろんお二人とも、あの頃から成長して立派な紳士淑女でございますが」


 これにはジュリアも苦笑いするしかない。

 たしかにこうして二人で食事をするのは本当に久しぶりだ。

 子どもの頃はよくこうして一緒に食事をした。ジュリアは父に内緒で。他家から嫁いできた母が協力して、別の友人の家に遊びに行くと口裏を合わせてくれたのだ。


「くだらん」


 ギルフォードはあいかわらず憎まれ口を叩いたかと思えば、食事を終えるとさっさと立ち上がる。


「すぐに馬車を手配いたします」

「その必要は――」

「ギル」


 ジュリアも朝食を終えた。早食いは軍人の必須技能だ。


「……さっさとしろ」

「はい、坊ちゃま」


 ジュリアもすぐにギルフォードの後を追いかけ、玄関ホールで待つ。

 ギルフォードはジュリアを見たくないのか、露骨に背中を向けている。


 ――でも昨日は問答無用に抱きしめてきたことを考えると、もしかして効果が弱まっていたりする?


 ギルフォードは大陸一の魔導士。並の魔導士と同列には語れない。

 ジュリアは試しに、と気配を消し、不意打ちでギルフォードの顔を覗き込んだ。


「ギル、平気?」


 ぎょっとしたギルフォードは顔を背けるが、すかさず回り込む。

 魔法の才能はからっきしではあるが、身体能力ならば負けない。


 ――子どもの頃に戻ったみたいでなんだか楽しいかも……。


 そんな無邪気なことを考えていると、


「お前という奴は……!」


 ギルフォードが突然ちかづいてきたかと思えば、壁際に追い詰められてしまう。


「!?」


 顔を真っ赤にしているギルフォードは肩を大きく上下させ、息を荒げた。


「人がどれだけ耐えていると、思っているんだ……っ」

「そ、そうだったの。昨日は問答無用で抱きしめてきたから、魔法の効果が薄れてるのかもって思ったんだけど」

「残念だったな。効果が継続中だ。分かったら、もうくだらない真似はするなっ」


 そうしてどこか苦しげに呻き、ジュリアから距離を取った。

 そこに、セバスが馬車の到着を知らせてくれた。

 ジュリアは胸に手をやった。ドクンドクン、と鼓動が駆け足になる。


 ――私の体もおかしい……。


「ジュリア様?」


 セバスが壁に背中を預けたままのジュリアを心配そうに見つめてくる。


「す、すぐ行くわ」


 そうしてジュリアは、ついさっきまでとんでもない距離まで近づいたギルフォードと、同じ馬車に揺られる。

 公爵家のだけあって馬車は広々としているが、一つの密室の中であることに変わりはない。

 ギルフォードは窓をじっと見ている。


「……ギル、さっきはごめん。あれはふざけた訳じゃなくって。多分、浮かれてたんだと思う」

「なんで浮かれるんだ」

「小さな頃みたいに一緒にいられることが嬉しくって。小さな頃の記憶、あんまり思い出せないんだけどさ。でもこうして一緒にいると、ああ昔はこんな風に一緒にいて、朝ご飯を食べたりしたなって」

「……ぜんぶ、昔のことだ」


 その投げやりな言葉に、ズキッと胸が痛む。

 少しは話せたから距離が縮まったかと思ったが、そういうわけじゃないのだ。

 馬車はあっという間に軍施設に到着した。

 ギルフォードがさっさと下りようとするが、「待って」とジュリアはギルフォードの袖をつかんだ。


「なんだ」

「……い、いいよ」

「何が」

「だ、抱きしめても」

「お前なに言って……」


 ギルフォードが目を瞠った。


「我慢しすぎるのも良くないし、下手に我慢をしすぎると不意な瞬間に欲望が爆発することも考えられるから」


 しかしいつまでもギルフォードからの反応はなかった。

 ジュリアは余計なことを言ってしまったと、うなだれた。


「ごめん、ギル……また私変なことを……」

「お前が言ったんだ。後悔するなよっ」

「へ?」


 ギルフォードが抱きしめてくる。

 背中に腕が回され、ぎゅっと痛いくらいの力で抱きしめられた。頭にも手をやられ、ジュリアはギルフォードの胸に顔を埋めさせられた。

 ふわっと甘い香りが鼻をくすぐる。


 ――自分で言ったけど、魔法の効果とはいえ、あのギルがこんな大胆なことを……!!


 ギルフォードはジュリアの首筋に顔を近づけてくる。熱い息遣いが、肌にかかる。


「……好きだ」


 搾り出すようにギルフォードが呟く。


「!」


 彼の息があたるたび、ぞくっとしたものとくすぐったさが混ざり合ったものが体を走り抜ける。

 それから彼は「ぐっ」と小さく息をこぼすと、腕を突っ張ってジュリアと距離を離す。「……悪かった」


 馬車から飛び出すように出ていった。

 髪からのぞいた彼の形のいい耳はうっすらと赤らんでいて。

 取り残されたジュリアはギルフォード以上に赤面したまま、声ひとつ出せなかった。


 ――ま、また『好き』だなんて……。


 ギルフォードは単に魅了魔法にかかっているせいだと分かっているのに、愛やら恋やらに不慣れなジュリアは、自分でも情けないくらい動揺してしまうのだった。

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