3-7 暴力
「何度も告白して、迷惑だとは自覚していました」
大粒の涙をこぼし続けながら、
藤咲先生へのはち切れんばかりの想いは、続く。
「私の言葉を聞くたび、返事をしてくれるたび、困った顔をする先生に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。でも、それでも、伝えたかったんです。私は味方だって。先生を、私が守りたいんだって!」
それこそが、鳳梨先輩がいつまでも諦めなかった本当の理由なんだ。
ただ自らの恋心に踏ん切りがつかず、しつこく言い寄っていたわけじゃない。
先輩が諦められなかったのは、藤咲先生を救うことだった。
「私は先生に断られるたび、先生がどれだけ理不尽な暴力に怯えているのか、と想像しました。助けを求めることすら、逃げ出すことすら恐れるほどに、苦しめられているんじゃないかって。だから私は、そんな先生を救い出すためには、私自身がもっと強くならなければいけないと、そう思うようになったんです」
強く拳を握り込み、鳳梨先輩は噛み締めるように言う。
自分の弱さを、噛み締めるように。
「私が強ければ、誰よりも強ければ、理不尽を打倒できるほどに、強ければ。私は先生を助けられるって……!」
鳳梨先輩の正しい道はそこにあった。
理不尽な悪意に立ち向かうため、打ち倒すため、愛する人を守るため。
先輩は過剰なまでに力を求めていたんだ。
そんな鳳梨先輩にその能力は、奇しくも相応しかった。
「でも、先生の前で拳を振るつもりはありませんでした。本当に、すみません。先生は、空手すら見ることができないくらい、怯えていると、わかっていたのに」
「っ…………」
ずっと何も言えないでいた藤咲先生が息を飲んだ。
「はじめは、しつこく告白をする私を避けているのかと思いました。でも違った。部活以外で会う先生は、普段通りに優しく接してくれる。先生が私ではなく空手を避けているのだと、暴力を避けているのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。私はずっと、先生を見ていたから……」
藤咲先生が部活に顔を出さなくなった本当の理由。
職務の怠慢なんかではもちろんなくて、空手を目にするのが、怖かったから。
暴力と武道は全く違うものだろうけれど、理不尽な暴力に苦しみ続ける先生には、きっと関係なかった。
日々の辛い体験を思い出させる、恐ろしい光景だったんだ。
それを踏まえれば、先程の鳳梨先輩の攻撃に怯えていた姿にも、そしてその振る舞いに過剰な怒りを見せた姿にも、納得がいく。
さらに思い返せば、最初に藤咲先生から鳳梨先輩の問題の話を聞いた時、その内容が全部人伝に聞いた『らしい』だったことにも。
言葉にするのが苦しそうなのに、けれど鳳梨先輩は口を止めない。
止められなくなっているようだった。堰を切った想いが、止まらない。
「私は、私は……先生の味方でありたかった。守りたかった、救いたかった! 決して、苦しめたり、傷付けたり、困らせたりしたかったわけじゃ、ないんです! 私はっ……!」
悲鳴は、叫びは、想いと共に全て吐き出される。
「私は先生が、大好きなんですっ……!!!」
ついに膝からくず折れる鳳梨先輩。
身体中の力を失い、項垂れ、肩を振るわせ、涙をこぼす。
そこに普段の凛々しさや、先程の獰猛さはない。
ただの恋する乙女の、弱々しい姿だけ。
鳳梨先輩は強い人だった。身体も意思も。
能力を抜きにしたって、鳳梨先輩は強かった。
でも心はみんなと同じ、脆く繊細で。
恋よりも強い、守りたいという想いに、ずっとはち切れそうだったんだ。
「鳳梨先輩……」
何て声をかけていいかわからない。
部外者の私が、無関係の私が、ただ立ち尽くすだけの私が。
戦い続けたこの人を、何て慰めるべきなのか。
「────宮条さん」
そんな時、藤咲先生がようやく口を開いた。
血の気の引いた顔で、身体中を振るわせ、今にも泣きそうになりながら。
けれどしっかりとした瞳で鳳梨先輩を見て、歩みを寄せる。
「そんなにずっと、私のことを考えてくれてたんだね。ごめん、全然気付かなくて」
鳳梨先輩の目の前でしゃがみ込み、藤咲先生は目線を合わせる。
俯く先輩の顔は見えなくても、それでも真っ直ぐ見据える。
「それに、ありがとう。私のことをそんなに、大切に想ってくれて」
その声はとても優しい。けれどそれは、ただの慰めじゃなくて。
子供を宥める、見せかけの柔らかさではなくて。
それは、藤咲先生の心からの想いだと、そう感じた。
「でもごめんなさい。私は、宮条さんの気持ちに応えることは、やっぱりできないや。教師と生徒だから、じゃない。私には夫がいるから」
ゆっくり、自分の言葉を確かめるようにしながら口にする藤咲先生。
鳳梨先輩の肩が、ビクッと震えた。
「わかってる、わかってるよ。バカだって。宮条さんの言う通り、私はもう長いこと夫から理不尽な暴力を受けてる。そんなことをする男、見放して逃げるべきだってわかってるんだ。それでも何でかな。私まだ、あの人のこと、好きで」
震えた声で、自分を卑下するように嗤う藤咲先生。
そこに込められたままならない想いが、涙と共にこぼれていた。
「どんなに酷いことされても、そうじゃない時のあの人を見ちゃう。典型的なダメな女。昔の優しさ、たまの優しさに縋っちゃう。いけないってわかってても、自分だってしんどいのに、愛さないことができないの。きっとあの人は、私のことなんてもう愛してないのに」
ダメ男から離れられないよくあるパターンだよ、と藤咲先生はまた嗤う。
けれどそう言いながらも、それを間違っていないと思っているようだと、私は感じた。
よくないと思いつつも、自分の意思でそれを選んでいるんだと。
「本当に酷い男なんだけど、でも好きなんだ。だからきっと、もし宮条さんが私を守ろうとあの人に立ち向かって、殴ったりでもしようものなら私は。私はきっと、あなたを恨んじゃう。可愛い生徒を。私を大切に思ってくれる宮条さんを。バカな、女だから」
「ッ…………!」
そこで鳳梨先輩は、声にならない苦悶の音をこぼした。
悲しむでも悔しがるでもなく、ただただ、苦しげに。
鳳梨先輩は藤咲先生を守るために力を求めた。
悪しきを挫くために、正しき道を行くために。
けれど、その力では先生を救うことはできないと、言われてしまった。
理不尽な暴力に苦しむ藤咲先生を、暴力で救うことはできないと。
どんなに鳳梨先輩が正しく、それを貫き通す力を持っていても。
先輩には先生を奪うことはできないんだと。
「だから、ごめんなさい。あなたの気持ちに応えられなくて。あなたに助けてもらえなくて。あなたに守ってもらえなくて。宮条さん、バカな先生で、ごめんなさい」
「あ、あぁっ……わ、わた、私、はっ……」
深く、深く頭を下げて、泣きつくように謝る藤咲先生。
鳳梨先輩はようやく、顔を上げ、唇を動かした。
「私じゃ、せ、先生を……幸せに、できないん、ですか……?」
「うん。私は宮条さんとは、幸せになれない」
「ああ、う、ぁああぁあああっ……!」
頭を上げ、目をしっかりと見据え、藤咲先生は言った。
やっと目を逸らさず、向き合って、全ての想いに応えて。
先生はキッパリと、断った。
「ッ……ぁあああ、あああぁぁああああっ────!!!」
憚ることなく、堪えることなく、鳳梨先輩は大声を上げて泣き喚いた。
強く、深く、切実に想い続けたその気持ちの分だけ。
絶叫のように、悲鳴のように。感情を曝け出して。
へたり込んだまま泣き続ける鳳梨先輩に、藤咲先生はもうかけられる言葉はないと思ったのか、立ち上がった。
しかし手を差し伸べることはできずとも、それでも見捨てることもできないのか、その場で立ち尽くして。
鳳梨先輩の姿を、とても切なそうに見つめていた。
「先生。後は、私が」
「……うん。ごめんね、葉月さん」
そんな藤咲先生に私は声をかけ、促す。
これ以上、鳳梨先輩は先生とはいられない、いたくないだろうから。
藤咲先生は頷くと、最後にまた鳳梨先輩のことを一瞥して。
けれどやっぱりそれ以上の言葉をかけることなく、武道場を後にした。
もう先生に伝えられる言葉ない。言うべき言葉はない。
二人きりになった室内で、私は鳳梨先輩の隣に座り込んで、ただ寄り添った。
言葉をかけることもなく、その体を支えることもなく、一緒に泣くでもなく。
ただそこに、い続けた。だってやっぱり私には、何もできることはなかったから。
「
しばらくして、少しだけ落ち着いてきた鳳梨先輩は言った。
未だ涙は止まることなく、その体は小刻みに震えている。
「結局君に、とても迷惑をかけてしまった。みっともない姿も見せて。私は弱い女だ」
「いえ、そんなことは……」
鳳梨先輩は強い。強くて、でも弱くもあっただけ。
「最後に一つだけ、お願いを聞いてくれるか?」
俯いたまま、先輩は絞り出すように言った。
「私の能力を消してくれ。もう、必要ないから」
「……はい」
私はただ頷き、鳳梨先輩の正面へと移動した。
俯くその頭に両手を伸ばし、持ち上げる。
涙に濡れた赤い瞳と、真っ直ぐ目が合う。
「ただ、私が能力を消すと、その元となる恋もまた、消えてしまいます」
「構わない。むしろそれがいい。これ以上この気持ちを持ち続けていたら、私はきっといつか、先生の望まないことをしてしまうかもしれないから」
そう言って鳳梨先輩は、悲しそうに微笑んだ。
「お願いだ。私を、失恋させてくれ」
頷き、私は顔を近づける。
鳳梨先輩は特に反応を示さなかった。
ただ、思い出したようにポツリと言う。
「神里は、嗤うだろうか。こんな私を知ったら」
「……いいえ、嗤いませんよ。
そうかと呟いて目を瞑る鳳梨先輩。
私はその唇に、引き絞った唇を押し当てた。
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