4話
結局、二人は何事もなかったように普段の生活へと戻った。
次の土曜の休日だった、圭子は今日も、
夕食のおかずにする惣菜を求めに一人で街へ、
そして柴田は近くの古本屋に出かけていた。
その日も空一面に鉛色の綿あめの様などんよりとした雲が覆っていた。
圭子が買い物を済ませ電車に乗ろうとしていた時だった。
その時、いよいよ雪は降り始めてきたのだった。
が、やっぱりその雪は白かったのだった、
彼女が悔しい程にどんよりとした灰色の雲から白く降り始めてきたのだった。
それを見た圭子は買い物袋を右手にぶら下げ、足早に電車に乗り込んだ。
電車を降りて、マンションへの道を右手に買い物袋をぶら下げ、
少し駆け足だった。
その時、マンションの近くにある交差点、彼女が信号を渡ろうとした直前、
パトカーのサイレンが彼女の右の耳から入って左の耳へ抜けていった。
そして明らかに法定速度を超えた速度で、一台の車が彼女が渡ろうとしたその交差点に突っ込んできたのだ。
圭子はこういう車を見ると、思わずその車の前に飛び込んでやろうかと思う。
そうすれば、この車の運転手の速度違反も暴かれるはずだ。
自分も、正義の味方で死んでいけるかもしれない。
でもその勇気は彼女には無かった。
医者から君は「明日死ぬ」そう言われた身でもおそらく駄目だろう。
「痛いに違いない。そうだ、死ぬほど痛いに違いない」。そう思うと、
彼女にはそんな事は出来なかった。
圭子は交差点を突っ切っていく法定速度違反の車を見つめ、
何となく空を見上げた。
空には少し黒ずんだ雲が絵の様に塗り付けられていた。
雷も鳴り、雨が降りそうだった。
街中も暗くなってきている。
彼女は急いだ。
そしてマンションに着き、カギを開けようとすると、鍵は開いていた。
柴田は家にいる。少しほっとした気持ちになり、ドアを開けた。
圭子が部屋に入ると、柴田は本を読んでいた。
彼はよく勉強をする。
コンピューターの本を読んで、1日中、勉強していることもある。
父親が学校の数学の先生で、よく勉強する人だったらしいのだ。
その背中を見て育った彼も、やはり、よく勉強するようになったらしい。(これは柴田、本人の話だ)
彼は圭子には全く分からない、難解な、
コンピュータープログラムに関する本を読んでいる。
それが彼の仕事に関するものだと、彼女は理解していたが、
時々、彼のいないときにその本を開いて見てみると、英単語と記号の羅列だった。
それが何を意味しているのかは圭子にはまったく意味が分からなかった。
ひょっとして、彼は、ロシアかどこかのスパイではないかと、彼女は本気で疑ったりもした。
そうなのだ、圭子は、彼の頭の中に何があるのか、心の中に何があるのか、
何も理解できていない。
彼女は何となく悲しみを感じた。
「今日は本屋に出かけなかったの?」圭子が柴田に尋ねた。
「特別用事はなかったから」柴田は本を読んだまま、そう突っぱねるように言った。
圭子は、しょっちゅう彼女の解からない世界に没頭している柴田に、
淋しさを感じていた。
彼女は部屋での彼との会話も,だんだん少なくなっていく様な気がする。
もう少し、自分自身の方向を向かせたいと、彼女は思った。
「明日の日曜日一緒に出掛けない」圭子は思い切って聞いてみた。
柴田は一瞬、平手打ちでも食らったような表情で驚いて圭子を見つめ、すぐに視線を本に落として言った。
「今忙しんだ」圭子は納得できない様子で、問い詰めた。
「何かあるの」寂しげな口ぶりで彼女は言った。
「新しいプロジェクトを任されそうなんだ」
柴田は投げ捨てる様に言っただけだった。
彼女は、悲しい思いと、悔しい思いを感じながら、諦めた。
そしてふと彼女は口にした。
自分でも、なぜそのようなことを言ったのか、分からなかった。
何となく、自分がいつまで生きていられるのか、そういう不安が一瞬、
速度違反のダンプが突っ込んできた様に頭をよぎった。
京都の夜の悪夢のせいだったのか。
「あなた、私が死んだらどうする」圭子は、突然強い口調で叫んだ。
「何を言っている。現に生きているだろう」それでも柴田は冷静に答えた。
逆に少しイライラした様子だ。
「でも明日、私が生きている保証はないわ。きょう寝むったら、明日目を覚ます保障はないのよ。ひょっとしたら、明日の会社帰り地下鉄に飛び込んでバラバラに砕け散ってしまうかもしれない。もしかしたら、明日手首を切って真っ赤な血を流して死んでしまうかもしれない。」彼女は真っ赤な顔しながら突然大声で叫んだ。
「なぜそのようなことをする必要がある」柴田が座ったまま、驚いたような表情で、
座ったまま、圭子を見上げるように言った。
「あなたが私を見てくれないからよ。あなたが私を愛してくれないからよ!」
圭子は、自分の目に涙を浮かべて見せようとしたが、出来なかった。
彼女は、どんな思いで彼が自分を見ているのか、自分に想いというものを持たない人間が、自分の死を悲しむのだろうか。
彼の心の眼は何を見ているのか。
それは彼女にはわからないし、彼自身しか知らないのだ。
「私たちは幸せなのかしら?」圭子は言った。
「今、僕らは十分に幸せじゃないか。そのためにこうして僕は勉強しているじゃないか」柴田は言い訳がましく反論した。
しかし彼女に対して彼が「愛」と言う言葉を一度も口にした事がないことが彼女は不満だった。
それが何を意味するのか、彼も理解しているはずだ。
彼は結婚して以来、一度も自分を愛しているとは言ったことがない。
この二人の生活はいったい何なのか。
彼に今、何を言っても無駄だと彼女は感じた。
自分も涙さえ流れなかったのだ。
それは、お互いに想いを持たない事を意味するのだ。
そして、もし自分が涙を流したとしても、彼は態度を変えないことを、彼女は感じていた。
圭子は、それ以上何も言わなかった。
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