第4話

結局、二人は何事もなかったように普段の生活へと戻った。


次の日曜だった。圭子は、今日も、一人で夕食のおかずにする、惣菜を買いに出かけていた。柴田も、そう思っているはずだ。彼もまだ帰っていないだろう。彼は、土日は近くの本屋に出かけている。(それは密かに彼女自身も確認済みだった。)そう思いながら歩いていた。暗くなり始めていた街。マンションの近くにある交差点、信号が変わる直前、パトカーのサイレンが、彼女の右の耳から入って左の耳から抜けていった。そして明らかに、法定速度を超えた速度で、一台の車が交差点に突っ込んできた。


圭子はこういう車を見ると、思わずその車の前に飛び込んでやろうかと思う。そうすれば、この車の運転手の速度違反も暴かれるはずだ。自分も、正義の味方で死んでいけるかもしれない。でもその勇気は自分には無かった。医者から君は「明日死ぬ」そう言われた身でも駄目だろう。「痛いに違いない。そうだ、死ぬほど痛いに違いない」。そう思うと、自分にそんな事は出来なかった。

 


空は灰色に曇りかけてきた、少し黒ずんだ雲が絵の様に張り付いている。雷も鳴り、雨が降りそうだ。街中も暗くなってきている。彼女は急いだ。

そしてマンションに着き、カギを開けようとすると、鍵は開いていた。柴田は家にいる。少しほっとした気持ちになり、ドアを開けた。

圭子が部屋に入ると、柴田は本を読んでいた。彼はよく勉強する。コンピューターの本を読んで、1日中、勉強していることもある。父親が学校の数学の先生で、よく勉強する人だったらしいのだ。その背中を見て育った彼も、やはり、よく勉強するようになったらしい。


彼は圭子には全く分からない、難解な、コンピュータープログラムに関する本を読んでいる。それが彼の仕事に関するものだと、彼女は理解していたが、時々、彼のいないときにその本を開いて見てみると、英単語と記号の羅列だった。

まったく意味が分からなかった。ひょっとして、彼は、ロシアかどこかのスパイではないかと、本気で疑ったりもした。そうなのだ、自分は、彼の頭の中に何があるのか、心の中に何があるのか、何も理解できていない。


「今日はどこにも出,かけなかったの」圭子が柴田に尋ねた。

「特別ようじはなかったから」柴田は本を読んだまま、そう突っぱねるように言った。

圭子は、なんとなく、自分の解からない世界に没頭している柴田に、淋しさを感じるようになった。部屋での会話も,だんだん少なくなっていく様な気がする。    もう少し、自分の方向を向かせたいと、彼女は思った。


「明日一緒に出掛けない」圭子は聞いた。

柴田は一瞬、平手打ちでも食らったような表情で圭子を見つめ、すぐに視線を本に落として言った。

「今忙しんだ」圭子は納得できない様子で、問い詰めた。

「何かあるの」寂しげな口ぶりで言ってみた。

「新しいプロジェクトを任されたんだ」


柴田は投げ捨てる様に言っただけだった。彼女は、悲しい思いと、悔しい思いを感じながら、諦めた。そしてふと彼女は口にした。

自分でも、なぜそのようなことを言ったのか、分からなかった。何となく、自分がいつまで生きていられるのか、そういう不安が一瞬、速度違反のダンプが突っ込んできた様に頭をよぎった。


「あなた、私が死んだらどうする」圭子は、突然強い口調で叫んだ。

「何を言っている。現に生きているだろう」それでも柴田は冷静に答えた。

逆に少しイライラした様子だ。

「でも明日、私が生きている保証はないわ。きょう寝むったら、明日目を覚ます保障はないのよ。ひょっとしたら、明日の会社帰り地下鉄に飛び込んでバラバラに砕け散ってしまうかもしれない。


もしかしたら、明日手首を切って真っ赤な血を流して死んでしまうかもしれない。」彼女は真っ赤な顔しながら大声で叫んだ。

「なぜそのようなことをする必要がある」柴田が座ったまま、驚いたような表情で、座ったまま、圭子を見上げるように言った。

「あなたが私を見てくれないからよ。あなたが私を愛してくれないからよ」

圭子は、自分の目に涙を浮かべて見せようとしたが、出来なかった。

彼女は、どんな思いで彼が自分を見ているのか、自分に想いというものを持たない人間が、自分の死を悲しむのだろうか。


彼の心の眼は何を見ているのか。

それは私にはわからないし、彼自身しか知らないのだ。

「そんなことはない。今、僕らは十分に幸せじゃないか。そのためにこうして僕は勉強しているじゃないか」柴田は言い訳がましく反論した。

それが嘘だと彼女は知っていた。

自分自身、彼に対して「愛」と言う言葉を口にした事が信じられなかった。


それが何を意味するのか、彼も理解しているはずだ。彼は結婚して以来、一度も自分を愛しているとは言ったことがない。自分自身、そのことを望んでいるのか。この二人の生活はいったい何なのか。

彼に今、何を言っても無駄だと彼女は感じた。自分も涙さえ流れなかったのだ。それは、お互いに想いを持たない事を意味するのだ。そして、もし自分が涙を流したとしても、彼は態度を変えないことを、彼女は感じていた。


圭子は、それ以上何も言わなかった。


彼女にも分からなかった。

遠い世界での毎日のようだった、そこで生きている自分すら理解できない、そんな人間に他人を理解することなどできはしないのだった。



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