水平線のその先で
空閑夜半
水平線のその先で
緩やかに減速し始めた車内で、端末に指を滑らせる。
『駅に着きました。コンビニ寄ってから行きます』
既読がついた数秒後に『了解』という可愛いようで微妙に可愛くない、犬とも猫ともつかないスタンプが返ってきた。ふふ、と漏れた声に隣の女性がこちらを見たので軽く咳払いをする。
完全に揺れが収まったところで、そそくさと逃げるようにホームへと出た。
駅から徒歩で十五分ちょっと。
春の日差しが傾きかけた中、賑やかな駅前の通りをまっすぐ抜けて、閑静な住宅地へと足を運んでいく。途中にあるコンビニに立ち寄って、飲み物とお菓子をいくつか買ったら目的地まではあと少し。通い慣れた道のりに歩みがどんどん速くなっていく。
小さな公園の前を通り過ぎたところで、すぐ横に建つレンガ調のマンションが見えた。その六階の一室。ベランダからマグカップを片手にこちらを見下ろしている人物がいる。
ゆかりさん。
わたしより三つ歳上の女性で、今年から近くの大学に通っていて、やたら白くて細くて、ちゃんと食事を摂っているのか怪しい生活習慣を送っている。
それから、多分、わたしのことを好きじゃない人。
「だから、カーテン買った方がいいですって!」
玄関に滑り込んで早々、部屋に一つしかない窓を指差しながら嘆かずにはいられなかった。
ベランダへと繋がる掃き出し窓は遮るものが付属のガラスくらいで、今は外からの日差しを煌々と室内に呼び込んでいる。いくら周辺に背の高い建物が少ないとはいえ、女性の一人暮らしにしては無用心すぎると苦言を呈しているのだが、部屋の主はどこ吹く風。今日はひなたぼっこにはもってこいですね、などと呑気なことを言っている。
この人、頭のネジが何本か外れてるんじゃないだろうか。
彼女の行動が理解できず、盛大なため息が出た。
「あの、こういうことは言いたくないんですけど、ゆかりさんってもしかして、痴女、とかいうやつなんですか?」
「……はい?」
声のトーンが三音下がった。少し怯むが、今日という今日は言わせてもらおうと、足の裏に力を込める。
「いやだって、普通カーテンつけないなんてことあります? どこの誰に見られるか分かったもんじゃないし、しかも女の子の一人暮らしですよ? 流石にそれはないっていうか、それはもう外からいつ見られるか分からないことを逆に楽しんでいるというか、むしろそれで興奮するタイプの性癖としか思えな」「あかりさん」「はい」
三音下がったトーンがそのまま地を這っている。
「……今日はもうお帰りですか?」
そう微笑みかけてくれた目は全く笑っていなかった。
わたしは数秒前の決意を放棄して両手を上げ、口を固く結んで降伏のポーズを取る。この部屋に通い始めて一か月ほどになるが、ここで追い出されたら過去最短記録が更新されてしまう。せめてあと少し粘りたいという気持ちの前に、意地や良識という言葉は無力だった。
そんなわたしの泥臭い願いを聞き届けてくれたのか、ゆかりさんは特に本気で追い出そうとする気配もなく、デスクチェアに腰掛けると背もたれに体重を預けながら、退屈そうに窓の外を眺め始めた。わたしが部屋に来た時はいつもそうしている。
わたしはわたしで、西日が眩しくないんだろうかと思いつつ、買ってきたお菓子の袋を開けた。電車に乗る前に甘いものを食べていたので、口はすっかり塩味が恋しくなっている。
パリパリと乾いた音が控えめに室内に響く。ゆかりさんは時折マグカップに口をつけているが、音を立てずお上品に飲んでいる。ちなみに中身はお白湯らしい。コーヒーは飲まないのかと尋ねたことがあるけど、カフェインを摂ると頭が痛くなるらしい。単に買いに行くのが面倒なだけかもしれないけど。
ゆかりさんの部屋にはベッドとデスク、ノートパソコン、狭い台所に小さな冷蔵庫とその上に電子レンジ、あとコンロにヤカンが置いてある。トイレもお風呂も特にこれといった特徴はない。クローゼットは開けたことがないので未知だが、多分衣類が入っているのだろう。全体的に物が少ないという印象だ。
初めてこの部屋を訪れた時、“がらん”という言葉が頭の中に浮かんだ。玄関から部屋までの生活感が薄くて、カーテンのかかっていない窓は開放的というより寂しさを際立たせている。この部屋が戸建の一室と言うのならそこまで驚きはしなかったかもしれないけど、実際のところ彼女はこの部屋だけで生活のほとんどを完結させている。ミニマリストなのかとも思ったが、この人にはそういう類いの積極性はなく、怠惰さと生きる気力の低さが現状を維持しているのだった。
そんな決して居心地が良いわけではないこの部屋に、わたしは先月くらいから度々通っている。友達からの誘いもあるし、ゆかりさんが帰ってきていないこともあるので、流石に毎日は来られていないけれど、それでも週三日程度はお邪魔していると思う。放課後に用がなかったら立ち寄る隠れ家、といった位置付けになりつつあった。
しかし、部屋に来たからといって特に何かするわけではない。ゆかりさんは今みたいに窓の外をぼんやり眺めているか、課題のレポートを書いていることが多く、わたしは部屋の隅にポツンと座って買ってきたお菓子を食べたり、携帯端末をいじったり、ゆかりさんをこっそり眺めてみたりする。
時々話しをすることもあるけれど、大体はわたしから話し掛けてゆかりさんがそれに二、三言返すといった具合で、盛り上がりとは無縁のやり取りだ。そうして日が沈んだら、ゆかりさんから帰宅を促され、わたしはこの部屋を去っていく。その繰り返しである。
この行動に、おそらく意味なんてものはない。何かが変わるきっかけが生まれたり、わたしとゆかりさんの心理的な距離が縮まったりということはきっとないのだろう。
けれど、彼女からもう来るなと言われたことはないし、わたしもここに来ないと言う理由はない。通うことをやめようという気持ちにもならない。だから続けているし、続いている。
これはつまりただの習慣で、朝目覚めたらカーテンを開けて日が昇っていることを確かめているようなものだと、わたしは自分の中で折り合いをつけ始めていた。
なのに。
「あかりさんは、どうしてこの部屋に来るんですか?」
ゆかりさんはあっさりと、わたしが築いた砂の城を小波のように浚っていく。
「それ、今更聞きます?」
つい質問に質問で返してしまう。若干半笑いになったのは、わたし自身がその答えに辿り着けていないからだ。
結果が既にあるものについて何故を問われても、全ては後付けにしかならない。理由をでっちあげようと思えばいくらでも出来そうなのに、それをしないのは嘘をつきたくないという気持ちがあるからに他ならない。
そこまで考えてふと気がつく。嘘とは一体、それは誰に、何について?
「どうしたんですか、思い出したみたいに。わたしたちが知り合ってかれこれ一か月は過ぎちゃってますけど」
わたしの問いかけに、ゆかりさんは小首を傾げている。
「ええ。なので、どうしてそんなに続いてるのかと思って。特に若い子が来ても面白いものなんてありませんし、すぐ飽きるだろうと思って放っておいたのですが、一向にやめる気配もないのでどうしてだろう、と」
「やっぱり、迷惑でしたか?」
「そうは言っていません。ただ、気になったので」
いけませんか、とゆかりさんの瞳がわたしを捉えている。僅かな既視感の後でその理由に思い至る。一か月前の朝、駅のホームで声をかけられた時も、彼女はこんな目でわたしを見ていた。
「ゆかりさんって、わたしのこと好きじゃないですよね?」
口をついて出た言葉にゆかりさんの目が丸くなった。でも、もっと驚いたのはわたしの方。
どうして今、こんなことを言う必要があったのか。頭が真っ白になってうまく考えられない。
ただ口だけは別の意思を持つように、わたしが動転している間も次から次へと言葉を吐き出していく。
「わたし、あんまり人から嫌われたことがなくて。小さい頃から周囲の人に、可愛いね、いい子だね、ってちやほやされて育ってきたんです」
小さい頃から大人も子供もみんな、わたしに好意的だった。少なくとも正面切って悪意をぶつけられたことは無い。
小学校に入学してもそれは変わらず、学年が上がっていくごとに、女子たちはクラス内でグループを形成し、あるグループは別のグループを羨望の目で見て、またあるグループは別のグループと険悪になり、またあるグループはクラス内で息を潜めるように日々を過ごしていた。そんな人間関係が混沌としている最中にあっても、周囲の子たちから何か嫌なことをされたり、避けられたりしたという記憶はない。
それは先生たちも同じだった。お気に入りの生徒には甘く、気に入らない生徒にはどことなく冷たい先生は何人もいたけど、わたしは良くしてもらったことはあっても、誰からも冷たくされた経験がない。生徒に平等に接しようとしている先生もいたが、そういう先生は優しいか厳しいかのどちらかで、その厳しい先生ですら、わたしにはどこか甘かったような気がする。
「そのまま六年間、何の波風も立たずに過ごして……中学入ってもずっと同じような感じで」
「……それは、とても幸運ですね」
「そう、なのかもしれません。けど、わたし時々、これって本当なのかなって思うんです」
世の中には二六二の法則なんてものがあると聞いたのは、中学二年生の時、授業中に差し挟まれた先生の雑談だったと思う。
人は誰でも二割の人たちからは特に理由もなく好かれ、二割の人からは同じく嫌われる。そして残りの六割は、その人の言動によって好悪が分かれる可能性がある人たちなのだという。
中学生は多感な時期で、人間関係に悩んでいる生徒も多くいる。人から嫌われるのが怖くて相手の顔色を伺って、自分の気持ちを押し殺してしまう子たちも、クラスの中に何人かいたのだろう。先生はそういう子たちの気持ちを少しでも楽にしてあげようと、どこからか聞きかじった話をしただけかもしれない。
それなら、わたしにとってのその二割の人たちは、一体どこにいるのだろう?
その理屈で考えたら、わたしのことを嫌っている人たちは必ずいるはずなのに、わたしはその人たちに出会った覚えがない。みんなわたしに好意的で、嫌っている様子なんて全然なくて、わたしは良い人たちに囲まれて育ったんだなとぼんやり思っていたのだけれど。
でも、そんなことが本当にあるんだろうか。
実は出会っていたけれど、わたしが気付いていなかったんじゃないか。
あるいはわたしに気付かれまいと、本心を偽っていた人も中にはいたんじゃないだろうか。
そんなことも知らず、のほほんとしているわたしを心底嫌って、愚か者だと蔑んでいた人もいたんじゃないだろうか。
いつの間にか、そういう思考に陥ってしまうことが増えていた。
「あの日もそんなことを考えてたら、だんだん気分が悪くなってしまって……」
途中下車をしてホームの椅子で休んでいたら、ゆかりさんから声を掛けられたのだった。
「ああ、それで……」
納得したように頷くゆかりさんを見ながら、わたしはその時のことを思い出していた。
まだ春とはまだ名ばかりで、身体の芯まで凍えてきそうな冷たい風の吹く朝だった。風除けのないホームだったからすごく寒くて、でもその寒さが気持ち悪さを上書きしてくれそうで、椅子に座ったままぼんやりと足元に視線を落としていたのだ。
そこに、十円玉が一枚、コロコロと転がってきて。
──その十円、私のものなので返して頂けますか?
「あそこはせめて、大丈夫ですか、くらいは訊いて欲しかったですね」
わたしの苦笑いに、ゆかりさんはそっぽを向く。
「仕方ないでしょう。早朝の冷え込みに耐えかねて自販機でコーヒーを買おうとしたら、十円玉が決死の抵抗を見せたんですから」
「仕方ないことなのかな?」
「一円を笑う者は一円に泣くと言いますからね。その十倍泣くのは御免ですよ」
「どういう理屈なんですか、それ……」
呆れたわたしに、ゆかりさんは澄ましている。本当に呆れたのはその後で、十円を受け取ったゆかりさんはそのまま何事もなかったように飲み物を買うと、さっさと次の電車に乗って行ってしまった。
「フツー、駅員さんを呼ぶとかしません?」
「いえ、あの時のあなたには自覚がなかったんでしょうが、相当な間抜け面をしていたので。気分が悪いなどとはつゆにも思わなかったんですよ」
「ま、間抜け面っ?」
「ええ、何言ってんだこいつって顔してましたよ」
「そりゃ、いきなり十円返せとか言ってくる人がいたからですよ……」
悪びれもしないゆかりさんに嘆息すると、いつの間にか頭がすっきりしていることに気がついた。さっきまで別の生き物のように蠢いていた口も、ちゃんとわたしの意思で動かすことができる。
それで、と先を促された時には自分が何が言いたかったのか、すっかり答えが出てしまっていた。
「最初の質問に戻りますけど、つまり、ゆかりさんのそういう薄情なところを見ていると色々余計なこと考えなくて済むし楽だから、ついつい遊びにきてしまうんですよ」
がらんとした部屋にわたしの声が軽く響く。
この何もない部屋に。ゆかりさんしかいない、この部屋に。わたしは安心を求めに来ているのだ。
この人は、わたしのことを好きじゃない人、だから。
「なるほど、そういうことでしたか」
ゆかりさんは目を閉じて何度かうんうんと頷くと、そういうことでしたらお好きにどうぞ、といつもの体勢に戻って窓の外に視線を移した。彼女の疑問が解決されてしまったので興味をなくしてしまったのだろう。
そのあまりにもあっさりとした幕切れに、わたしはどこか煮え切らないものを感じていた。
それから暫くはいつも通り、買ってきたおやつをもそもそ食べたり、無意味に端末を眺めたりしていた。今日も日が傾いて遮るもののない窓から刺すような光が伸びてくる。
その西日を眩しそうに目を眇めているゆかりさんを見ていると、あまりにもいつも通りすぎて、先ほどまでのやりとりが本当にあったのか少しだけ不安になった。
ゆかりさんは元々よく喋る人ではないので、さっきのゆかりさんは、わたしの都合の良い妄想だったんじゃないかと、そんなあり得ない心配が沸々と湧いてくる。
「ゆかりさんは?」
「はい?」
何でもいいから話の続きをしないといけないような焦燥感に、気がついたら問いかけてしまっていた。
「ゆかりさんは、どうしてわたしに来ないでって言わないでいてくれるんですか?」
わたしのこと、別に好きじゃないのに。何の関わりもない赤の他人なのに。あまり人に興味がないくせに。
どうして。
そうですね、とゆかりさんは少し考え込むように手を顎に当てていたが、やがてちらっとわたしを見ると澄ました顔をして。
「あなたが私のことを好きだから」
と言った。
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