第15話 那古野城へ

 草尾と仲間たちは、新たな目的地、那古野城なごやじょうに向かう途中、ふと立ち寄った休憩所で信長の妹、お市の方に出会いました。お市の方は町の人々との和解の儀式の様子を見ていたようで、感動している様子でした。  

 草尾はお市の方って綾瀬はるかに似てるな?と、思った。大河ドラマ『八重の桜』では主演、山本八重を演じた。

 お市の方は史実では信長の妹だが、運命は変わった。お市の方(おいちのかた)は、織田信長の妻であり、滝川一益の義妹でもある女性です。


 お市の方は、本名を筒井ともといい、戦国時代の戦国大名である筒井 順昭つつい じゅんしょうの娘だ。順昭は戦国時代の大和国の大名。筒井順興の嫡男。筒井順慶の父。興福寺官符衆徒で、筒井城を居城とした。


 彼女は若くして、滝川一益の兄である滝川秀定と結婚しました。しかし、秀定が早世してしまったため、その後は滝川一益と再婚しました。


 お市の方は、賢明で勇敢な女性として知られています。彼女は信長の家族として、さまざまな政治的な活動に参加し、信長の事務をサポートしました。また、一益との関係も非常に良好であり、夫婦間の信頼関係も非常に深かったと言われています。


 特に有名なエピソードとしては、本能寺の変の際にお市の方が信長の遺体を護ろうとしたことが挙げられます。彼女は敵勢力からの攻撃を受けながらも、信長の遺体を守り抜きました。


 お市の方の存在は、滝川一益の軍事活動や政治活動においても重要な役割を果たしており、彼女の勇気と度量は多くの人々に称賛されています。


 草尾:「お市の方、こんにちは。町の人々は和解の儀式を喜んでくれましたか?」


 お市の方:「草尾君、こんにちは。はい、本当に感激しましたよ。町の人々はみんな笑顔で、平和な日々を取り戻せたことに喜びを感じていました。草尾君たちのおかげですよ」


 滝川一益も加わって会話に加わりました。

 一益はどことなくコワモテ俳優の伊原剛志に似てると草尾は思いました。滝川一益(たきがわ かずます)は、戦国時代の武将です。彼は織田信長の家臣であり、信長に仕えて多くの戦いに参加しました。


 一益は、長身で風貌も魅力的でありながら、知略にも長けた武将として知られていました。彼は奇策や戦術の立案において優れた才能を発揮し、信長からの信頼も厚かったです。


 また、言動や行動からも優れた人間性を持っており、織田家の嫡男である織田信忠や他の家臣たちからも尊敬されていました。


 一益は主に軍事面での活躍が目立ちますが、文化人としても知られています。狩野永徳などの有名な絵師と交流し、茶の湯や俳諧にも興味を持っていました。


 彼の知略と武勇を兼ね備えた人物像は、多くの人々から称賛され、戦国時代の武将として大いに名を馳せました。


 一益:「さすが草尾殿の仲間たちですね。この町の平和を取り戻せたことに感謝しています」


 草尾:「お市の方、一益殿、そんなことを言わずに、私たちも町の皆さんにお礼を言わなければなりません。これからもお互い助け合いながら、新たな冒険に挑みましょう」


 その時、鈴木孫市と長続連が現れました。


 草尾は自身が通っている東亜大の図書室で借りた『戦国人物図鑑』を開いた。

 鈴木孫市

 鈴木 孫市は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。

 戦国期から江戸時代にかけての文献には紀州雑賀衆の孫一(雑賀孫市)の記述がみられる。石山合戦(1573年)において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめたとされる。この人物については、石山合戦で討ち死にしたとする説、秀吉の雑賀攻め(1586年)のときに藤堂高虎に謀殺されたとする説、小田原征伐(1590年)でも鉄砲頭として戦い生涯を終えたとする説、関ヶ原の戦い(1600年)で石田方について戦後水戸藩に仕官したとする説などがある。


 長続連

 長 続連は、戦国時代の武将。平信光(長教連の二男)の二男。畠山氏に四代にわたって仕えた重臣。初名は平 勝光たいら かつみつ、のちに伯父・長英連の婿養子となり、最初の主君である畠山義続から偏諱を賜って長 続連と名乗る。新九郎、九郎左衛門尉、対馬守。能登国鳳至郡穴水城主。


 畠山七人衆の一人で、数々の主君の放逐や擁立などを行った。織田信長の勢力が能登にまで伸びてくるとこれに近づいて親密な関係を作り、同じ畠山家中の対抗勢力である遊佐氏、温井氏などに差をつけ、家中で随一の勢力を誇る重臣となった。


 天正4年(1576年)から越後の上杉謙信による侵攻を受けたが、続連はこれを七尾城に籠もることで一度は追い返した。しかし翌年の上杉軍との戦いに際し、城内に疫病が発生して形勢が不利になった上、畠山重臣で親上杉派の遊佐続光(妻は平信光の娘で続連とは義兄弟)や温井景隆らが謙信に内応、七尾城は落城した(七尾城の戦い)。その折に続連をはじめとする長一族はほとんどが謀殺され、生き残ったのは続連の嫡男綱連の末子である菊末丸と、出家し孝恩寺の住職となっていた三男の連龍のみである。


 これは連龍を使者として織田信長に要請した援軍が到着する数日前のことであった。


 孫市:「みんな、元気そうだな。お市さん、一益殿、お久しぶりです」


 続連:「そうだ、私たちも草尾殿たちの冒険に参加したいと思っていたのです。どうか許してください」


 草尾:「そんなことないよ、むしろ嬉しいな。仲間が増えれば、一緒に困難に立ち向かえるし、新たな力となる。よろしくお願いします、鈴木さん、長続連さん」


 一益:「さすがは鈴木孫市殿と長続連殿、お力も見せていただきたいですね」


 鈴木孫市は、ライフルをぶら下げながらにっこりと微笑みました。


 孫市:「お言葉に甘えまして、力を貸しますよ。これからも冒険の仲間として頼りにしてください」


 長続連も、呂宋助左衛門るそんすけざえもんと名乗る者を連れてきました。草尾は図鑑を開いた。

 呂宋 助左衛門(永禄8年(1565年)? - 没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門なやすけざえもん。別名で菜屋助左衛門なやすけざえもん魚屋助左衛門ちやすけざえもんともいう。堺の貿易商・納屋才助の子。

 『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。


 慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう。


 慶長12年(1607年)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。


 カンボジアに渡海中、謎の渦潮に飲み込まれ気づいたら戦国時代の能登に来ていた。長続連に助けられ、直参となった。


 続連:「草尾殿、彼は呂宋助左衛門と言います。彼も私たちの仲間となることになりました。呂宋助左衛門、草尾殿と仲間たちをよろしく頼む」


 呂宋助左衛門:「草尾殿、皆さん、よろしくお願いいたします。私もできる限り力を尽くします」


 草尾たちは、鈴木孫市と呂宋助左衛門を温かく迎え入れました。彼らの加わり、冒険の力はさらに強化され、未知の世界への挑戦をより一層楽しみにするのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る