第9話 濃姫と迷宮の陰謀 💀5人
ある日、草尾は江戸時代の日本で起きる一連の殺人事件に巻き込まれます。事件の被害者は、上杉景勝の側近であり、彼の秘密を知っていると噂される人物たちです。
殺された被害者は直江兼続と本庄繁長でした。彼の秘密を知っていると噂される人物たちです。これらの殺人事件を解明するために、草尾と濃姫は行動を開始します。
草尾は、被害者たちの共通点や現場で見つかった斧などの証拠を分析し、事件の背後に隠された陰謀を探ります。しかし、真相を追い求める中で、彼は濃姫と呼ばれる謎めいた女性と出会います。
濃姫は美しいが謎めいた存在であり、自らを陸軍の一員と名乗ります。彼女は草尾に協力を申し出、事件の真相と迷宮の陰謀を解明するために共に行動することを提案します。
草尾と濃姫は、事件の黒幕が仕掛けた迷宮のような謎やトラップに立ち向かいます。彼らは推理と知恵を絞り、罠にあたらないように注意しながら事件の手がかりを探します。
草尾と濃姫は辻斬りを含む様々な妨害者や敵から身を守りながら、事件の解明に迫ります。彼らは囚われたままの真実を探し、陰謀の背後にある人物を特定しようとします。
事件の真相が明らかになると、草尾と濃姫は陰謀の黒幕を暴くために最終決戦へと向かいます。彼らの知恵と勇気が試される中で、迷宮の陰謀が解き明かされ、正義が勝利するという結末を迎えるのです。
直江兼続は、江戸時代の武将であり、上杉謙信の家臣でした。彼は1569年に越後国で生まれました。幼い頃から武芸に親しみ、勇敢で聡明な性格で知られていました。
兼続は若くして上杉景勝の家臣となり、彼の側近として信頼を得ました。彼は戦場での勇敢な行動や軍略により、上杉軍の重要な存在となりました。兼続は特に槍術の使い手として知られており、その腕前は非常に高く評価されていました。
本庄繁長は、越後国の豪族の出身でした。彼も若い頃から武術に親しんでおり、勇敢で頭の良い人物でした。繁長は上杉家に仕えるようになり、兼続と共に上杉景勝の側近として活躍しました。
兼続と繁長は、上杉景勝の身辺を守るだけでなく、彼の秘密や重要な任務を担当していました。彼らの忠誠心と能力は上杉家にとって貴重な存在であり、彼らの存在は周囲からも高く評価されていました。
残念ながら、彼らが殺害される事件が起きますが、それをきっかけに草尾と濃姫が事件の真相を追究することになります。彼らの生い立ちと能力が物語の中で重要な要素となるでしょう。
本庄繁長の乱を草尾は本で読んだ。
📗永禄4年(1561年)、上杉謙信(政虎)と甲斐の武田信玄が戦った第四次川中島の戦いの軍議において、上杉家臣の長尾藤景は謙信の戦術を批判、これをきっかけに謙信と藤景は対立するようになっていた。その後、永禄11年(1568年)に謙信(輝虎)の命を受けた本庄城主・本庄繁長は祝宴の名目で藤景・景治兄弟を誘い出し、両者を誅殺。繁長自身も手傷を負いながら計画を遂行したものの、謙信からの恩賞はなかった。
これに不満を持っていた繁長に対し、謙信の上洛を阻もうとする武田信玄から誘いがあったことで繁長もその計略に乗り、謀反を計画するようになる。謙信は畠山七人衆によって能登を追放された畠山義続、畠山義綱父子を入国させるべく、七人衆方の神保氏張の居城守山城を攻撃に越中に進撃。これを機に、繁長は、謙信に不満を抱く国人衆を集めようとし、各国人衆に密書を送る。密書を送った主な人物は次の通り。
鮎川盛長 - 本庄分家、揚北衆
色部勝長 - 本庄分家、揚北衆
黒川実氏 - 揚北衆、黒川清実の近親者?
中条景資 - 揚北衆、中条藤資の子
しかし、景資はそのまま密書を謙信に見せ、繁長の謀反は発覚した。驚いた謙信は、即座に陣を引き払って春日山城(現・新潟県上越市)へ帰り、繁長の居城である本庄城(現・新潟県村上市)攻略の準備を進めた。謙信はただちに手を打った。本庄一族の鮎川盛長が忠誠を誓うと、中条はもちろんのこと色部、黒川などの揚北衆は次々と謙信方に付いた。こうして、繁長は、信玄の援軍が来るまで籠城を余儀なくされた。
尚、上述の繁長謀反の経緯であるが、正確な理由は分かっておらず、長尾藤景・景治暗殺についても謙信の命を受けた繁長が実行したことを証明する当時の史料が残っているわけではない。一説には繁長と藤景の争いは私闘に過ぎず、それを繁長の一方的な非であるとした謙信に繁長が反発したのではないかという説もある。ただし、この後に藤景の下田長尾氏は謙信(当時は輝虎)により滅ぼされているために謙信と藤景との間で何らかの軋轢があったことは確かと思われる。
ところが、信玄は永禄11年(1568年)7月に謙信方の飯山城の攻略にかかったものの、それ以上の進軍はできずにおり、また同時期に他方面の駿河攻略に注力していたために積極的な攻勢には出なかった。また、繁長の反乱には、庄内の大宝寺義増が支援を行なっていた。謙信も当初は越中や信濃方面の情勢に対応するため春日山城を出陣することが出来なかったために自身の腹心である直江景綱や柿崎景家を下郡岩船に向かわせ揚北衆連合と共に本庄城を攻めていたが、繁長の頑強な抵抗に遭い劣勢を強いられた。信濃飯山から武田軍が撤兵すると謙信もようやく出馬した。謙信は本庄城攻略より先に大宝寺方へ兵力を差し向ける動きを見せると、義増は早々に降伏、息子義氏を人質として差し出した。謙信は本庄氏を支援する勢力を一掃した後、11月中旬頃にかけておよそ1万の軍勢をもって本庄城への包囲を強めた。それでも本庄城は落城せず上杉軍では攻城戦や本庄軍の夜襲攻撃で1000名程の死傷者を出す有り様だったという。
繁長は本庄城にて兵を挙げてからというもの春日山より派遣された上杉先鋒隊を局地戦で翻弄しており、荷駄隊を襲撃するなど激しく抵抗した。本軍が到着してからも籠城戦と夜襲も含めた局地戦を上手く使い分け謙信を散々に悩ませたようである。上杉軍は本庄城を包囲しながら堀や曲輪などの防御施設の破壊を試みるもそれ以上の手は打つことが出来ず戦局は徐々に膠着していった。
繁長は謙信の軍勢に包囲される中でよく凌ぎ、翌永禄12年(1569年)1月10日(1569年2月7日)には謙信の軍勢に加わっていた色部勝長を夜襲によって討ち取る戦果を挙げている。しかし、その頃には既に本庄城の防備も限界をきたしていた。繁長は前年の12月から米沢の伊達氏、会津の蘆名氏による仲介講和を模索しはじめた。飛騨の三木良頼も謙信へ送った書状の中で伊達と蘆名を仲介しての和議成立に期待感を滲ませながら繁長へ穏便な処置を施すように勧告している。
その後は『本荘氏記録』によると3月18日に繁長は嫡男の千代丸(後の顕長)を人質として謙信に差し出すことで降伏し、自身は雨順斎と号したとある。
助命こそはされたものの、この後の謙信存命中は表立って活躍する機会はなかったようである。しかしながら、この戦いは本庄繁長の勇猛果敢さを示した戦いとして後の世にまで語り継がれることになった。
色部勝長は長尾為景・晴景・景虎の三代に仕えた宿老である。始め天文2年(1533年)には上条の乱で本庄房長・黒川清実・中条藤資ら揚北衆の国人と共に為景の下から離れて上条定憲方に加わり、家督を晴景に譲って隠退させることで為景を引退に追いやった。その後最後まで抵抗を続けたが、最終的に晴景に帰属し次第に乱は終息していった。
しかし天文8年(1539年)に上杉定実の養子問題を巡って天文の乱が発生すると房長・清実らと共に伊達晴宗方につき、伊達稙宗方についた藤資の居城・鳥坂城を攻撃している。この乱の途中で小川長資・鮎川清長による本庄家中の謀反が発生し房長が没すると、両者の調停に入っている。それから12年後の天文20年(1551年)に房長の子・本庄繁長が長資を自害に追い込んで仇討ちを果たし、清長を討ち取ろうとしたときには再び両者の仲裁をしている。
景虎(上杉謙信)の代では謙信の信任も厚く、関東での北条氏康との戦いで活躍し、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは柿崎景家の危機を救うなど、上杉軍の勇将として奮戦したため、謙信からその武功を賞賛されて安田長秀らと共に血染めの感状を頂戴している。永禄7年(1564年)の下野国佐野城攻撃でも功があり、謙信から感状を賜っている。以後2年間佐野城将を務める。永禄12年1月10日(1569年2月7日)、本庄繁長の乱で繁長の居城・村上城を包囲中に繁長の夜襲に遭い討死。死因は病没ともいわれている。跡を子・顕長が継いだ。
あまり体が強いとはいえない体質だったため、天正4年(1576年)に弟の長実に家督を譲り隠居した。
長実は天文22年(1553年)、越後長尾氏(上杉氏)の重臣・色部勝長の子として生まれる。父の死後は兄・顕長が家督を継いだが、病弱だったため、天正4年(1576年)に兄が隠居し、代わって家督を譲られて色部氏の当主となり、上杉謙信に仕えた。
天正6年(1578年)の謙信没後に起こった御館の乱では上杉景勝を支持して、上杉景虎方と戦った。その後は景勝の家臣として仕え、天正9年(1581年)に勃発した新発田重家の乱では、本庄繁長と共に重家対策を任された。重家の妹が長実に嫁いでおり重家は義兄にあたる。天正16年(1588年)には景勝の上洛に随行し、同道した直江兼続・須田満親と共に豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。
天正18年(1590年)の仙北一揆においては、秀吉の命令を受けて出羽国平鹿郡大森城に在城し、大谷吉継と共にその鎮圧に功績を挙げた。天正20年(1592年)、秀吉の命令により朝鮮出兵が始まると、景勝に従って肥前国名護屋城に赴いたが、その途上に発病し、帰国を許された。帰国後、京の伏見で療養していたが、再起の見込みが無いと分かると、8月17日(9月22日)に大石綱元と木戸元斎宛に自分の死後の色部家を直江兼続に頼むこと、兼続の次女を子・龍松丸(光長)の妻に迎えたいこと、自分の娘を兼続の養子にしてもらいたいことを希望する遺言状を残し、9月10日(10月15日)に病死した。享年40。家督は嫡子・光長が相続した。
尚、長実は遺言状の中で直江兼続のことを「旦那」と呼んでいる。当時の兼続は30代前半であるが、既に上杉家中でも相当の権力者であり、長実が自身の後継者にあたる光長の後見役として兼続の存在を重要視していたことが遺言状から窺い知ることができる。
天正15年(1587年)に上杉氏の重臣で越後国岩船郡小泉庄平林村(新潟県村上市平林)の平林城主であった色部長真の嫡男として生まれる。文禄元年(1592年)に父・長真が死去したため、幼少で家督を継ぐ。長真の遺言に従って直江兼続の妹(兼続の次女とも)を正室に迎え、元服するまでは後見人となった兼続の助けを借りて家中を治める。
慶長3年(1598年)の会津移封で出羽国置賜郡(山形県南陽市)の金山城主となり、慶長5年(1600年)の慶長出羽合戦では先陣を任されている。上杉家減封後は置賜郡窪田村(山形県米沢市窪田町)を知行とする。慶長7年(1602年)に元服し、兼続から「綱」の字を貰い綱長と名乗るが、後に改名する。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に従軍。寛永元年1月15日(1624年3月4日)に長門守となり、寛永3年(1626年)11月に侍頭に就任する。寛永17年6月2日(1640年7月20日)没、享年54。家督は養子・利長が相続した。
兼続は光長の後ろ盾として色部氏を重用し、兼続死後も幕末に至るまで、色部氏は米沢藩の重臣として藩を支えていくことになる。子孫に赤穂事件(忠臣蔵)の時に江戸家老を務めていた色部安長(又四郎)や上杉鷹山の藩政改革の折に七家騒動で処分された色部照長(典膳、のち修理)、戊辰戦争の時に米沢藩総督を勤め新潟で戦死した色部久長(長門)らがいる。(養子等による家督相続も挟まれている為、直接の血縁では無い)
草尾は光長を疑った。彼は祖父を殺した本庄繁長と疎ましい兼続を斧で殺した。
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