第10話 金曜日
ふと目を覚ますと見慣れた天井の模様が目に飛び込んできた。私は咄嗟に上半身を起こして周囲を必死に見渡した。そこは私の家の寝室だった。
周囲を見渡す視界の中に、バドミントンのユニフォームのような服を着た女の姿があった。
「先生起きた! 良かったぁ!」
目を見開いて素っ頓狂な声を出したのはセリナだった。
「わ、私は青い炎に焼かれて……」
訳も分からず混乱したままそう私が呟くと、
「あれはお祖母ちゃんが見せた幻です。本物の炎じゃありません。でも効果凄くて先生気を失っちゃって……」
そうセリナが大変な事態を思い起こすようにそう言った。
「いやぁ先生を森の中で運ぶの大変でしたよ! お祖母ちゃんはすぐ腰が痛い腰が痛いって言うから何度も休憩して。時間掛かりましたぁ」
セリナの口振りはまるで友達と遊んだときの思い出を話すように軽やかだった。
「私はどれくらい気を失ってた? 今はいつだ?」
「今は金曜日の夕方です。部活終わりに寄らせて貰いました。だから気を失ってたのは丸一日ですかね」
セリナはそう言うと綻ばせていた顔を真剣な面持ちに変えた。そして私を鋭い眼差しで見つめた。ミズエの森の中での眼差しを思い出した。私は身構えた。
「まずは一昨日の事を謝ります。狐を除霊しましたけどお祖母ちゃんに言われて一匹だけ残して帰ったんです。すいませんでした。そしてですね先生、今日ここへ来たのは完全に呪いを解くためです。昨日は一時的にミヤビさんの怒りを静めただけであってまだ完璧ではありません」
セリナの口調に威厳が篭った。何十歳と離れている私ですら畏怖の念を覚えるような言葉だった。無邪気な女子中学生はそこにはいなかった。
「先生は気づいてないかもしれませんが、先生の背後にはずっとミヤビさんが取り憑いていました。私もお祖母ちゃんも気づいていたけどあえて知らせませんでした。ミヤビさんだけを除霊しても完璧ではありません。先生がきちんとミヤビさんの存在を常に頭の中に置いて、罪を世間に告白し悔い改める事が必要です」
セリナの言葉は、言葉を重ねる事に熱を帯びていった。その凄みに私は否応なしに説得させられそうになった。
「先生、将来を担う……って自分で言うのは恥ずかしいですが……そんな私たちにお手本というやつを見せてください。お願いします」
セリナそう言うと頭を下げた。
その姿を見て、もう逃げきることは出来ないのかもしれないそう思った。私は覚悟を決めた。
「分かった。私は明日警察へ行くよ。ミヤビにも詫びる。司法の裁きを受ける。これでどうかね……」
私は出来るだけ心を落ち着けて淡々とそう伝えた。
セリナは満面の笑顔になって「ありがとうございます」そう一言だけ言った。
セリナは肩から下げていた鞄から金色の鐘を取り出すとそれを一回鳴らした。そして、
「ミヤビさん、あなたの辛い気持ちが晴れることなんてずっとないと思います。それでもミヤビさんには穏やかに成仏してほしいんです。もうミヤビさんのような悲しい思いをする人を出さないために、私たち若い世代が頑張りますから。女が糞みたいな男に負けない世界を作ります」
そう私の右肩あたりを、泣きそう眼差しで見つめながらそう言った。
そして続けて、
「我はピチピチJC、その眩い輝きはあなたの暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する。オンアビラウンケンソワカ……オンアビラウンケンソワカ……」
そう呪文のような言葉を重く呟いた。
その瞬間、私の肩から重い荷物が降りたような気がした。肩が明らかに軽くなっていた。今まで意識していなかっただけで、私はずっと肩に重い荷物を背負っていたのだ。ミヤビの怨念という荷物を……。
「ミヤビさんは先生から離れていきました。穏やかな表情でした」
そう微笑みながらセリナは言うと鐘を鞄にしまい立ち上がった。帰ろうとするセリナを私は引き留めた。
「一つ聞きたいことがあるんだが、家内が見ていた女の幽霊っていうのはミヤビなのかね?」
「おそらくそうでしょうね……」
「なぜミヤビは私の前に現れず家内に姿を見せたのだろう」
「女同士の何かがあるんでしょうね……。私にはまだ分からない世界ですけど」
セリナは顔をくしゃくしゃにしかめながらそう言うと、軽く苦笑いした。
「それじゃ先生。私はこれで失礼します。明日よろしくお願いします」
そう言ってセリナは深く頭を下げると寝室から出ていた。
「奥さん、この前貰ったケーキすごく美味しかったですう!」
部屋の外からセリナと家内の楽しそうな会話が聞こえてきた。今まで起きてきた事が嘘のような平和な空気感だった。
私はその声を聞きながら、殺人事件の時効は何年なのかを思い出そうとしていた。
〈最終章『記憶にございません』おわり〉
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