竜と飛行士の空

梨本モカ

零章 再会の飛行士

零章 その1

「飛べない竜なんて、でかいだけのトカゲだな」

 おれを飛べない体にした張本人がそんなことを言うのなら、そいつは踏み潰されようが食い殺されようが、文句は言えないはずだ。おれは殺意を込めてその人間を睥睨し、久しく無感動に過ごしていた自らの心に怒りの火が焚べられたことを自覚した。

 よく知っている人間だ。何度も殺し合った相手であり、最後には相打ちになったと思っていた。やつの乗る戦闘機が墜落していく光景を覚えている。おれは翼を失い空を奪われたが、やつもまた重大な喪失を味わったのだと疑いもしなかった。それがどうしたことか、おれが重篤な後遺症から決して回復できないのに対して、やつは随分と元気そうな様子で侮辱してきた。腹が立つどころの話ではなく、報復の一つや二つは行われて然るべきだ。

 しかし、面倒だった。やつを殺したところで、おれが二度と空を飛べないことに変わりはない。踏みつけるために脚を動かすのも億劫で、食い殺そうにも食欲がなかった。ずっと休眠しているので、太陽光や大気、森や大地に含まれる魔力だけで生命維持には事足りる。

「聞こえてるよな、ヴァーミリオン? こんな山奥まで会いに来てやったんだ、返事くらい聞かせろよ。この山脈を踏破するのは大変だったんだぜ。旧友に再会して嬉しくないのかよ?」

「おれと貴様が、旧友だと。死にたいようだな、人間」

 おれはこの人間の名前を知らない。姿を見たのでさえ、これが初めてだった。やつの身の内を流れる魔力の波長で区別は付いていたが、外見は知らなかった。目を細めて観察しても人間の容貌はよく分からず、個体ごとに違いがあることは見て取れるものの、それほど意味のある差異とは感じられない。所詮は別種の生き物なのだ。

「名前も知らない殺し合っただけの相手だからって、友だちになれないとは限らないぜ。俺の名はアトラス。覚えてるだろ、お前を撃ち落とした男だ」

 竜にとって人間の表情の細かい変化からその感情を読み取るのは簡単なことではないが、やつがふてぶてしく笑っていることは容易に認識できた。どうやらおれは人間どもの間で名を知られているらしく、そのおれを仕留めたことでやつは得意になっているのかも知れない。人間とは、竜を始めとした幻想生物を殺した者を英雄視するような野蛮な連中なのだから。

「互いの名を知っていることに意味などない。失せろ」

「俺を殺さなくていいのか? 復讐したいはずだ」

「面倒だ」

「そうか。腑抜けちまったのか」

 やつは心底から侮蔑するように吐き捨てた。憎悪すら感じられる険しい声音で、やつは先を続けた。

「最低の気分だ。かつての宿敵が、実は虫ケラだったなんてな」

 目的は分からないが、やつはおれを挑発しているのだろう。その意図が分かっている以上、そんなことに乗ってやるつもりはない。おれは無視を決め込み、やつが諦めて去るまで黙っているつもりだった。折よく日が傾き始めているので、長居はできないだろう。少しの間だけ我慢すればいい。

「話があったんだが、時間の無駄だな。這いつくばるだけの能なしでぶトカゲなんて、何の価値もない」

 安い挑発だ。こんなものに乗せられるのは馬鹿げている。だからといって、気に障らない訳ではない。数瞬に満たない刹那の思考の中で、否定しようのない自らの堕落と竜としての誇りを天秤にかけた。天秤だというのに、その二つともがアトラスの挑発に乗らない方に振れていた。

 下らないにもほどがある。

 おれは長い時間をかけて全身に積もった倦怠と怠惰で動かしづらい竜の巨体から人間の体へと姿を変じ、素早く両手を伸ばしてアトラスの首を締め上げた。

「このまま窒息死しろ。少しは溜飲が下がる」

「嫌だね。俺にはやることがある」

 やつは必死の形相で抵抗しながら声を絞り出し、懐から取り出した小瓶を地面に叩きつけて割った。飛び散った無色の液体から鼻がもげるような悪臭が広がり、おれは咳き込んだ。やつの首を離して両手で自らの鼻と口を塞いだが、ほとんど効果がなかった。

 信じ難いことに涙がにじんできて、鈍い頭痛がし始めた。一体、これは何の臭いだ。竜に効力のある毒を発見したとでも言うのか。

 激しく咳き込む音のする方を見ると、アトラスもおれと同じように鼻と口を塞いで、むせていた。

「場所を変えようぜ。こんな臭いところにはいられねえよ」

「貴様のせいだろうが」

 やつは間の抜けた笑い声を漏らし、悪臭を吸い込んでえずいていた。こんな馬鹿と争っていては、自分の方が馬鹿になってしまう。殺す気が失せてしまい、しかしこの場所には留まれない。仕方なく提案に乗り、話を聞いてやることにした。

 連れ立って山を下りながら、おれは数年間を過ごした山中の風景を見るともなしに眺めた。森林限界を超えた高地には背の低い草が生えているばかりで、面白味のあるものは何もない。下山し始めれば木々が周囲を取り囲み、鬱蒼とした木陰の中を歩くことになる。

 日が沈み始め、辺りは暗闇に包まれる。おれは夜目が効くので問題なかったが、アトラスは歩きづらそうにしていた。やつは移動に小休止をとって話をしたがったが、おれはそれを許さなかった。少し下山した程度では、あの悪臭からは逃れられない。恐ろしいことに向こう数か月は臭いが残るそうで、おれの寝ぐらは使い物にならない。

「あれは一体、何だったんだ」

「どこかの錬金術師の失敗作さ。ただひたすら臭いだけの薬だよ。そのくせ、希少で高価な素材がいくつも必要だから、ほとんど流通してない」

「誰がほしがるんだ、そんなもの……」

「効能なら、お前も実感しただろ? 竜すら怯ませる激臭。使い道はいくらでもあるさ。例えば、腑抜けたトカゲを怯ませたりとかな」

 新種の猛毒などではなく、ただの臭い薬品。そんなもので対策済み扱いにされていたことが腹立たしく、おれは閉口した。実際に通用してしまっていることが余計に気に食わなかった。

 苛立ちのあまり、おれは辺り構わず殺気を撒き散らしていたが、アトラスには気にするそぶりもなかった。やつは飄々とした態度で喋り続け、強引におれを会話に参加させようとした。無視しても執拗に話しかけてくるであろうことは既に理解していたので、黙らせたければ応答するしかなかった。

「ちょっと気になったんだが」

「何がだ」

「お前のその、人間としての外見は何なんだ。随分な美少年になるじゃないか、そういう趣味でもあるのか? いや、そんなことより、服はどこから出した。鱗を変化させたのか?」

「自分の体を削って着衣にする訳がない。そんな猟奇的な真似をする生き物がいるとは思えないが、心当たりでもあるのか」

「間違った推測を口にしただけで、そこまで馬鹿にすることないだろ。正解を教えろよ」

「衣類は周囲の植物から作った。ほかの物からでも作れるが、この辺りには草木が多い。後は外見の話か。おれの容姿からお前がどのような印象を受けるのかは知らないが、人間体の姿形は自由に変えられるものではない。ほかの生き物に変身したとしても同様のことが言えるが、変身後の姿にはおれの性質が反映されている」

 アトラスは立ち止まった。おれはそれを無視して歩き続けたが、やつに呼び止められた。その声にはどこか悲痛な響きがあった。

「ということは、お前はまだ少年なのか」

「貴様よりは年長だ。竜の寿命は人間のおよそ十倍。おれは既に貴様の寿命二回分近く生きている」

「つまり、人間で言えばお前は十五、六歳じゃないか。俺は戦場で子どもを痛めつけてたってのか?」

「人間の尺度など竜には関係がない。貴様からどのように見えていようが、おれは子どもではない。そもそも貴様は、竜で言うならおよそ何歳だ?」

「十分の一になるから……三百歳くらいだな」

「おれと大差ないな」

「それは大雑把すぎないか?」

「貴様の所感など知らん」

 険しい山脈を歩き続けること数時間、すっかり日が落ちて辺りは夜の帳に包まれていた。この山に住み着いてしばらくになるが、今いる渓谷に来るのは初めてだった。頭上から差し込む月の光に気がついて空を見上げれば、満天の星々が瞬いていた。思えば、夜空を眺めるのも久しぶりだった。アトラスに撃ち落とされてからの月日は、何とか辿り着いたあの寝ぐらで惰眠を貪ることに費やされ、かつての生活に思いをはせることもなかった。

 不意に胸が潰れるような悲哀を感じて、おれは立ち止まった。

 このまま歩き続けても平気だったが、そうする意味を見出せなかった。アトラスが何のためにおれに会いに来たのか、一応は聞いてやることにしている。ここが頃合いだろう。ちょうど、やつは歩き詰めで体力の限界らしかった。やつは息を切らし、地面に座り込んでいた。

「そろそろ用件を聞かせろ」

「少し休憩してからにさせてくれ。どっちにしろ、こんなに暗いんじゃ移動は無理だ。今夜はここで野営するから、話は飯を食いながらでもいいか?」

 人間はあまり夜目が利かないということは知っている。おれにとって問題ない程度の暗さでも、アトラスには苦なのだろう。加えて、今まで気に留めていなかったが、やつはかなりの大荷物を背負っていた。おそらくは野営に使う道具や水、食料など。おれの寝ぐらを訪れるにも、数日がかりだったのだろう。

 相応の理由があっておれに話をしに来たのだと察しがついたが、その思いの丈を汲み取ってやる義理はない。

「これ以上、待ってやるつもりはない。早く話せ」

「少し落ち着いてからにさせてくれ」

「そう言って、道中も話そうとしなかったな。おれの忍耐を試すような真似は控えてもらおう」

「ここまで我慢できたなら、もう数十分くらいで爆発するはずないよな」

「貴様の脚を折って、ここに置き去りにすることもできる。魔獣どもの餌になるといい。おれの近くには寄ってこないが、貴様が一人になればいくらでも狙われるはずだ」

「分かった、分かった」

 やつは降参するように両手を挙げた。疲れた様子ではあったが、少しは体力が回復しているようで、その顔にふてぶてしい笑みを浮かべていた。

「ま、お前も座れよ」

「断る」

 おれはアトラスの正面に立ち、やつを見下ろした。その気になれば、いつでも頭蓋骨を叩き割ってしまえる。ひとまず殺意が失せたからといって、やつが許し難い所業を働いたことに変わりはなく、いつでも好きなときに報復できると思っていると少しだけ気が休まった。

「さてと。ヴァーミリオン、傷の具合はどうだ。俺が翼を穴だらけにした訳なんだが。お前は、まだ飛べるのか?」

 やつは一転して真剣な眼差しで、おれの目を見据えてきた。その視線が、問いかけに対して激昂しそうになったおれを立ち止まらせた。気の弱い人間なら、おれが放った怒りの波長に当てられて失神しているところだが、やつは歯を食いしばって耐えていた。

「貴様が使った銃弾の魔力阻害加工のせいで、傷の治療ができなかった。竜と言えども、自然治癒に委ねて欠損部位を取り戻すことは叶わない」

 翼そのものは両方とも残っているが、どちらも穴だらけだ。空を飛ぶには二度と役に立たない、ただの重荷に成り果てている。屈強な体の傷は自然に塞がっても、竜体で最も繊細な部位である翼に開いた無数の穴までは治らなかった。阻害効果が消える頃には何もかも手遅れになっていて、おれの微かな希望はその時点で死に絶えた。

「おれは二度と飛べない。貴様の勝利の証だ、嬉しいか?」

「いいや」

 アトラスは左手を掲げて、手指が小刻みに震える様を見せてきた。動かせない訳ではないようだったが、細かい動きはできないらしく、あまり力を入れることもできなさそうだった。

「実は、俺の方も似たようなもんだ。お前が最後の最後に俺の飛行機を撃墜したときに負った怪我の後遺症だ。救助されるまでに何日もかかったせいで治療が遅れてな。片手とはいえこんなことになったんじゃあ、飛行士ではいられない」

「いい気味だ」

 しかし、おれの心は少しも晴れない。復讐心が満たされることはなく、仮にその点で満足できたとて、本当の願いが叶うことは決してない。もしもアトラスを許せば再び空を飛べるようになるのだとしたら、おれは喜んでそうするだろう。

「少しは溜飲が下がったか? そうは思わないがな。言っておくが、俺はお前のように不貞寝してた訳じゃない。操縦は二度とできなくなったが、通信士として同乗することはできる。そのために勉強してたんだが、そうこうしてるうちに戦争は終わっててな」

「そうなのか。終わりのある戦いには思えなかったが」

「終戦は二年ほど前のことだ。まあ、ずっと山奥にいたなら、知らなくても無理はない」

 人間も幻想生物も関係なく巻き込んで大陸中を荒らした、あの戦争。何年も続いた戦禍の中で敵味方は流動的に変わり続け、当初の理由も目的も忘れ去って盲目に形のない勝利を求め続けた日々。それが、いつの間にか終結していた。なかなかに信じ難い話だったが、アトラスが嘘をつく理由もないだろう。

 戦時中、おれはどの陣営に与することもなく、好き勝手に飛び回っていた。竜の中にも積極的に参戦したやつはいたと聞くが、おれは違う。確かに戦いも嫌いではないが、ただ空を飛ぶ方が好きだ。だから、攻撃してくる連中を返り討ちにしたことや多少の報復を行ったことはあるが、その程度だ。そのせいか、終戦の知らせにはこれといった感慨もなく、少し驚いただけだった。

「続いていたところで、飛べない竜に見合った空などない。おれが寝ぐらから動かないことに変わりはなかっただろう」

 通信士になるという貴様の目標も消えてなくなったな、と続けようとしたが、嫌味を言っても少しも気が晴れないことを思い出し、おれは口を閉じた。

「実のところ、俺は戦闘機に乗りたかった訳じゃない。ただ飛行機に乗って空を飛びたかった。時勢からして、それを実現するための近道だっただけだ。戦争が終わって戦闘機を操縦する仕事の口は激減したが、なにも飛行機はそのためだけの道具って訳じゃない。戦禍とは違う新しい空がある」

「貴様がまた飛べることをおれが羨むとでも思うのか。貴様がどうなろうがおれには無関係だ」

「関係ならある。俺は通信士になった。が、俺と組んで飛行機を操縦するやつがいない」

 アトラスは無事な右手の人差し指を真っ直ぐおれに突きつけた。おれがその手を引き裂けば、通信士としてのやつの未来は断たれる。やつは恐れを微塵も感じさせない確たる口調で、おれの運命を決定づける言葉を紡いだ。

「ヴァーミリオン、お前、飛行士になるつもりはないか?」

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