10

 王都より南方に位置するカムセト領、その更に西南、領を一つ跨いだ先にある国境の町がカインたちの目的地となった。

 追っ手の姿がないのを見計らい、カインはアベイルを連れ山道を走った。馬を走らせるならば平地の方が良いが、大々的な捜索がされている訳でもない。筈だ、とカインは踏んで、人目につかないよう領を抜けることを選んだ。暴動が起きたとはいえ、まだ領全土に広まっている訳でもあるまい。逃げ延びる手段はある筈だ。

 山を一つ越えた先にある小さな農村で、カインは二人分の外套と簡単な食料を手に入れた。未だ暴動の噂は広まっていないようで、農民は旅姿の男たちに不信感はあれども、特段反感は覚えていないようだった。それはある意味領主の施策が端までは行き届いていないという示唆でもある。まだ赴任してから一年も経っていない。これからであったというのに。寂れた農村の胡乱な人の目を掻い潜りながら、カインは残念に思わずにいられなかった。

 後から人が来れば、異邦者の足取りなど直ぐに辿れるだろう。旅支度を済ませたカインとアベイルは、再び街道を逸れ山野を歩んだ。


 元々貴族出身のアベイルが、長旅に耐え得る筈もない。殊に冬場の険しい道中に耐えきれる訳がないのだ。

 日に日に、アベイルが移動出来る距離は減っていった。青い顔で口も利かず辛うじて馬に揺られている。無理をさせて怪我や病気に到れば、冬の行軍は致命的となる。幸い南方のこの地方は冬場でも比較的温暖で雪も降らないが、だからといって朝晩の冷え込みがない訳ではない。

 日中出来る範囲で移動し、夕刻が近付いたら早めの休憩を取る。僅かな焚き火の前で少しでも暖を取ろうと身を寄せ合いながら、アベイルはぽつりぽつりと昔の話をした。


 公爵家の次男として生まれた己のこと。

 文と剣に秀でた兄と弟に挟まれ、肩身が狭かったこと。

 丁度良いとばかりに王女殿下の婚約者としてあてがわれたこと。

 死に物狂いで王配としての教育をこなした学院生活のこと。

 学業に専念する余り人間関係の構築を怠ったこと。

 足下がお留守になった挙げ句、謂われのない罪を着せられ、婚約破棄になった上に僻地へ飛ばされ命を狙われる羽目に陥ったこと。


 寄せ合った身体から互いの熱が伝わって来る。その気安さからか、アベイルはこれまで終ぞ口にしなかった彼の冤罪について言及した。触れた肩が熱い。きっと発熱の兆候であろう。

 一つの外套に包まりながら、半ば熱に浮かされたようなその人のぽつりぽつりと取り留めなく吐き出される言葉を、カインは静かに聞いた。

 相槌すら必要のない、それはアベイルの悔恨であり、贖罪であり、絶望だった。


「別に僕は、構わなかったんだ。公爵令息という地位も、王妃の伴侶になるという大望も、端から僕が望んだものではなかったからね。王女が――エヴェリンが幸せになれる道を選ぶなら、それに越したことはない」

「彼女とは幼なじみでね。元々家族のようなもので、だから、共に王国の為に生きていくのは、然程苦ではなかったのだけれど」

「真にエヴェリンがアダムス公爵令息を愛していたのか……只の反貴族派の連中に煽られてのことだったのか。この状況では、もう分からないね」

「最初から、僕の命が狙われることは知って・・・いた。だからこそ、君だけは巻き込まれないようにしたかったのだけれど。結局ずるずると、こんなところまで来てしまった」


 知っていたのにな、と小さな炎に溶けそうなな悔恨を口走るアベイルに、カインは一つだけ問う。

「アベイル様は、先見の能力をお持ちなのですか?」

「……先見?」

「騎士団時代に聞いたことがあります、先に起こる出来事を予見出来る“ギフト”を持っている人間がいるのだと」

「そんな上等なものじゃないさ……只、そうだね……確かに、僕には知っている・・・・・出来事もある」

「双子の入れ替わりや、疾患の原因や、スタンピードが起こることなどですか?」

「そう、……そうだね、そうしたことだ。しかし、知っていたからとて上手く対処出来る訳じゃない。それは君も見ていたことだろう」

「……魔獣の暴走は想定より早かったと?」

「っふ、君は耳聡いな」

 くすくすと笑うアベイルの身の揺れが伝わって来て心地が良い。話の内容は物騒であるというのに、まるで酩酊しているかに声音は柔らかく滑る。

「対策は間に合う筈だったよ……本来ならね。まさか人為的に起こされるとは思わなかったな……双子には気の毒なことをした」

 また自責に走りそうになる細い肩を引き寄せる。うつらうつら浅い眠りにつく人の体温を感じながら仮眠を取る。終着点が近いことを、静かに感じている。


 街道で馬を走らせれば三日程度の距離を、一週間程かけて山野を進んだ。

 見慣れた麦畑と集落を見つけた時、カインは心底ほっとした。既にアベイルは限界を迎え、愛馬オリガにしがみついているのを後ろからカインが支えている状態だ。二人乗りで長距離の移動は馬の負担か大きいが、背に腹は代えられない。乗り手をなくしたヒルデにまで気を回す余裕はなく、走り去っても仕方ないとすら思っていたが、主に似て利口な牝馬はつかず離れず併走している。

 秋に蒔いた麦の種が芽吹き、緑の苗が規則正しく並んでいる。畝の間で作業をしている若者が顔を上げるのと同時に、カインはその名を叫んだ。

「――ニール!!」

 畑にいた青年、ニールは顔を上げきょろきょろと辺りを見回す。カインの姿を見つけると、驚いたように鳶色の瞳が見開かれた。

「……兄さん? カイン兄さん?! え、嘘、何で突然?!」

「っ母さんは?!」

「え、ええと……家にいると思うけど……」

「そうか……ニール、馬を頼む!!」

 目を白黒させている三番目の弟に向けて言い放つと、カインは馬から飛び降りアベイルを抱き込んだ。自分で歩ける、と力なく呟くアベイルを抱え、土道を走る。

 二階建ての藁葺き屋根の家は、五年前に出奔した時から何一つ変わっていない。そのことに内心安堵しながら、ノックする間も惜しみドアを押し開いた。

「っ何だい、いきなり開けてびっくりするじゃない、か……」

 戸の直ぐ向かいにある厨房で鍋を掻き回していた女性が、文句を言いながら振り返り、そして絶句する。

 カインは父親似である。黒髪も鳶色の鋭い瞳も浅黒い肌も、全て父から継いだ。カインとは似ても似つかない、栗色の髪を緩く片側で三つ編みにし、榛色の大きな瞳を見開いたその人、年齢の割に幼く見えるカインの母であるその人は、ぽってりとした唇を戦慄かせながらカインを見上げた。

「……母さん、その、突然悪い……この方を……」

「はじめまして、突然お邪魔して申し訳ありません」

 青い顔をしながら、アベイルは床に降り立ち、カインに腰を支えられながらも胸に手を当てる。

「アベ……アビーと申します。カインとは、友人で。以後お見知りおきを」

 右足を下げ華麗に礼をする、その仕草はどう足掻いても貴族然としていて、とてもではないがカインの友人などと信じて貰える所作ではない。偽名を使う咄嗟の機転は流石だが、不審に思われるのは免れないだろう。

 カインの母は、戸惑ったように榛色の瞳を瞬かせると、アベイルとカインを交互に見た。そして徐ろに、つかつかと、カインの前に歩み寄る。

――ッパァン

 小気味良い音が鳴り響く。カインの頬が叩かれるのを見て、驚愕したようにアベイルが目を見開いていた。

「ったく、このどら息子が! こんな病人を連れ歩く馬鹿が何処にいるってんだい。……さあさ、お客さんもそんな所突っ立ってないで、休まないと治るもんも治らないだろう」

「いや、僕は……ええと、カイン、」

「あんたもさっさと動くんだよ、この馬鹿息子! 濡れた布と桶、場所は分かるね?」

 助けを求めるように狼狽えるアベイルの肩を掴むと、カインの母は客間の方へ彼を促す。こうした時の母には抵抗するだけ無駄である。すごすごとカインは台所の片隅で桶を探し始めた。

 廊下の角を曲がりかけた母は、不意にカインの方を振り返った。

「言い忘れてたよ……おかえり、放蕩息子」

 それだけ、と言い捨てる母の背中に、カインは苦笑した。

 カインは歴戦の騎士である。腕の立つ剣士も襲い来る魔獣も、彼の敵ではない。

 だが、母の平手だけは、いつまで経っても避けられそうになかった。

  

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 二日間、アベイルは寝込んだ。

 この二日が彼らにとって致命的な時間になると分かっていたが、疲労から来る発熱で病床に伏したアベイルを動かすことは適わなかった。そんなことをしたら、母からぶん殴られるだけでは済まないことがカインには分かっていたので。


 カインの実家に辿り着いた夜、夕餉を食べながらカインは家族に問い詰められていた。

「そもそも、あの美人さんは誰なのさ」

 フォークで芋の煮っ転がしをつつきながら、ニールが問う。一家の三男坊である彼は、農家である実家の手伝いをしつつ、閑散期は町に出て便利屋のようなことをして稼いでいるという。五年前に見た時はまだ洟垂れ坊主だったのが、随分逞しくなったものだとカインが見やる先、食べるのに飽きたらしい芋を延々とつつくニールの手を、カインの母、ローザがぴしりと叩いた。

「美人と言うがね……あれは男だよ」

「男ぉ?! あの顔立ちで?!」

「あんたは遠目にしか見てないだろうに」

 家に着いて早々に床に就いたアベイルの姿を見たのは、ニールと母だけである。末っ子のニナが机の隅で母親そっくりの目をきらきら輝かせた。今年10歳になるおしゃまな女の子だ。

「お兄ちゃん、男の人と結婚するの?!」

 弾んだ声で問われカインは思わずスープを吹き出しそうになった。

「……何でそうなる?」

「だって、次にお兄ちゃんの顔見るのは結婚でもする時だろ、そうじゃなきゃ戻ってなんて来やしないんだから、ってお母さんが」

 母親そっくりの口調で言うものだから、今度はカインの隣に座る若者が別の意味で吹き出した。

「ははっ、言えてる。兄貴が帰って来るとは思わなかったな、それも人を連れて」

「……ジーノ、」

「ま、結婚相手だか何だか知らないけど、身分高そうな相手だって聞いたけど。大丈夫なの?」

 一個下の次男であるジーノは、早逝した父の代わりにこの農家を切り盛りしている。寛容なのは良いことだが、何だか色々と気にするところが間違っている気がしてならない。

 はあ、と溜め息を吐くカインの向かいから同情した目線が向けられる。母親そっくりの幼げな顔立ちをしたレノは、諦めた方が良いという風に首を振っていた。五年前にカインが家を出た時はまだ今のニナくらいのちび助だったレノは、今や一家で唯一町の学校へ通っている秀才だ。

 母のローザ、次男のジーノ、三男のニール、四男のレノ、末娘のニナ。父はニナが生まれて直ぐに亡くなり、長女のエニスは隣の町に嫁いでいる。共に卓を囲んでいるこの五人が、カインの家族だった。

 郷愁と僅かな煩わしさを感じながら、カインはそっと食器を置く。

「皆、突然帰ってきて驚かせたと思う。あの方は……すまない、身分は明かせないんだが……その、俺の大事な人ではあるので。出来る範囲で丁重に扱って欲しい」

 きゃー、と何故か頬を赤らめたニナが歓声を上げる。大いなる語弊が生まれたような気がした。単に上司とでも言っておけば良かったのだが、不器用なカインに気持ちを偽る嘘は上手に吐けない。

 もういっそ開き直ってしまおうと、細かいことは気にせずカインは皆の顔を見、そして頭を下げる。

「皆には迷惑をかけると思う。事情も明かせないで申し訳ないが、このことは他言無用で、少しの間だけここに居させてはくれないだろうか」

 弟妹たちは顔を見合わせ、そして母を見た。この家の決定権は母にある。

 渋い顔でエールを煽ったローザは、だん、と机にジョッキを置いた。

「ここはあんたの家だよ……好きにおし」

 卓の緊迫が解ける。俺麦粥あんま好きじゃないんだよなあ、だとか、ニナもお世話お手伝いする、だとか、口々に騒ぎ立てる食卓に、カインは暫く顔を上げられないでいた。


 夜、客間の寝台に横になったアベイルの様子を窺う。温かな寝床に入ったアベイルは、顔色も随分良くなり、落ち着いた様子に見えた。

 汗で貼り付いた額の銀髪をそっと掻き上げる。大事な人、家族の前でつい口走ってしまったように、カインにとってもうアベイルは只の上官ではない。

 寝台に座り、平時よりも赤らんだ頬にそっと手を滑らせる。閉じた長い睫毛が、カンテラの灯りに揺らめくのを、じっと、いつまでも、見つめている。


 二日後に目を覚ましたアベイルは、カインの家族からの歓待に酷く驚いた様子だった。

 相手が高位の身分であると薄々勘づいてはいるものの、カインの家族はアベイルを極普通の客人としてもてなした。

 七人で掛けるには余りに狭い机にぎゅうぎゅうに並びながら、大皿に盛られた料理をつつくなど、貴族出身の彼にとっては初めてのことだろう。

 マナーもへったくれもなく、食べながらあれやこれやと喧しく質問して来る弟妹に、アベイルは目を白黒させていた。

 田舎特有の気安さや、無遠慮さが、懐かしくも何処か恥ずかしい。狭く物が乱雑に置かれた部屋、来る日も来る日も変わらない仕事、距離の近い家族、変わらない日々。

 そうしたものに飽いてカインは実家を飛び出した筈なのだ。それなのに、この変わらなさにどうしようもなく安堵していた。

 ああ、そうか。臆すことなくアベイルの膝に乗る末っ子や、口喧しく身体の細さに言及しこれでもかとおかずを盛る母、麦の育ち具合について相談し合う次男と三男、我関せずと暖炉の前に座り読書に勤しむ四男。長閑な食後の光景を見てカインは漸く思い至る。

 自分はこの光景を、アベイルに見て欲しかったのだ。自分の大事な家族を。そして、家族にも知って欲しかったのだ。自分の大事に想う人を。最後に、知っておいて欲しかったのだ。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「喧しい家で申し訳ありません……疲れてはいませんか?」

「いや、大丈夫だ。可愛い弟妹だね。特に一番下の子、僕には女兄弟がいないから、あれだけ懐かれると随分と可愛らしく見える」

「……遠慮を知らないもので」

「『アビーはいつお兄ちゃんと結婚するの?』などと聞かれてしまったよ」

 ぐっ、とカインの喉が変な音を鳴らした。

 カインの家の離れである。客間で二日療養したアベイルは、積もる話もあるだろうと家の離れの部屋をあてがわれた。大昔には納屋として使われていたものを、思春期になったカインが自室として勝手に占領した、その部屋である。

 部屋の用意をしてくれたらしいジーノがによによと笑っていたのが憎たらしい。部屋に来てみれば簡易ベッド二台がぴたりと寄せられている。明日ぶん殴る。慌てて引き離しながら謎の決意を固め、カインは寝台に腰掛けるアベイルに引き攣らせた顔を向けた。

「その……ちょっとした誤解が生まれたようでして」

「それは本当に誤解なのかな?」

 くすくすと笑うアベイルに見透かされた気がして、カインは耳朶まで赤くなった。実際気付いてはいるのだろう。踏み込めないのはカインの意気地のなさの所為だった。


 カインはアベイルの隣に腰掛けた。安い寝台は二人分の体重を受けぎしりと大きく軋む。

 膝の上で手を組み、ふうと大きく息を吐く。この気持ちを打ち明けることに意味などない。だが、膨れ上がった思慕は抱え込むには大き過ぎた。

「……アベイル様」

「うん」

「アベイル様、」

「……うん」

「……お慕いしています」

「ああ、……知っている・・・・・よ」

 アベイルはふわりと笑った。決して拒絶することのない穏やかな笑みに、カインの胸の底がきゅうと切なくなる。応じて欲しい訳ではない。それでも柔らかな受容は激しい拒否よりも苦しい。

 白い頬に手を当てる。隣に座る人の菫色の瞳は、真っ直ぐ静かに、カインを見上げる。凪いだ瞳は揺れることはない。それに胸を締め付けられるような思いをしながら、カインはそっと顔を寄せた。

 薄い唇に触れる。開けられたままの瞳は睫毛の下でそっと翳っている。


 最初は啄むように、それだけで満足だと思っていた。

 それなのに、抵抗がないのを良いことに幾度となく触れる内、いつしか口付けは激しくなっていた。

「っん、ふ……ぅ」

 塞がれた唇から吐息が零れている。カインの腕はアベイルの腰へ回り、抱き竦めるように引き寄せていた。触れた躯が熱い。

 本能のままに唇を舌先で探る。開いた隙間から差し込んだ口腔の熱さに目眩がしそうだ。

 必死に衝動を抑えつける。その人に対する敬愛が。思慕が。この身に抱いた劣情を許してはくれない。

 想いとは裏腹にカインの身は強くアベイルを抱き締め、その熱を貪ろうとしている。次第に下腹部へ収縮する欲望は意識すればする程その昂ぶりを増した。

「カイン、当たっているよ」

「……そういうのは気付かない振りをするものですよ」

「随分、大きいな」

「…………っ頼むから煽らないで貰えますか?」

 密着したアベイルの吐き出す言葉が脳髄を揺さぶる。離れなければ。なけなしの理性を総動員し、腰に回した手を緩めようとした時、信じ難いことにアベイルの細い指先がカインの喉元を撫ぜた。

 息を詰まらせるカインの喉を、薄いシャツの下の胸元を、腹の筋肉を、辿る指先の動きに全身が粟立つ。踊るように服の上からカインの肌をなぞる手のひらが、膨らみを持った下腹部に到達する瞬間、辛うじてその手首を掴んだ。

「っアベイル、様、」

「止めなくても良いのに」

「……っご自分が何をされているか分かっておいでですか?!」

「当然、分かっているさ」

 僕はそれ程初心じゃない、囁かれる言葉に一瞬気を取られる内に、カインの手を逃れた手のひらがズボン越しにカインの昂ぶりに触れた。

 咄嗟に出そうになる呻きを堪えたのは自分でも上出来だったと言える。衣服の上から確かめるように、細い指先が熱を持った輪郭をなぞった。

「っアベイル様……これ以上、は……っ俺からは、止められない……っ」

「ふ、可愛いことを言ってくれる……気にせず委ねると良い」

 蠱惑的な瞳に捉えられたまま、柔らかい愛撫に身を任せてしまいそうになる。そろそろと下から上へ、撫で上げる手の動きは止めないまま、アベイルは囁く。

「……僕が君に出来ることなど、このくらいしかないのだから」

 穏やかに吐き出される言葉に、すう、とカインの頭が冷えた。自分の欲が、劣情が、この人にこんなことをさせているのだ。その思いが喉を詰まらせ、声も出せずに硬直する。

 カインの顔色を読みとったのだろう、アベイルは躯に触れたまま困ったように眉を下げた。

「ああ、すまない、……僕の言い方が悪かった。そうではなくて、」

 ぽすりとアベイルの顔がカインの肩口に埋められる。寄せられた身に、自身と同様の熱を感じて、カインは身震いをした。

「……僕が君に触れたいのだと。そう言えば、分かって貰えるだろうか」

 告げられた言葉に力が抜ける。カインにはもう、目の前の人を手放してやる術はなかった。


 脳髄が痺れそうな刺激に、カインは荒く息を零した。アベイルの手のひらは大胆にズボン越しにカインの欲望を擦り上げている。

 今直ぐにでも目の前の美しい人を組み敷いて、その身に突き立てたい。凶暴なまでの欲望は膨れ上がり、カインは口元に手を当て必死に衝動を噛み殺した。

 かつて恋仲になった者がいなかった訳ではない。上司との付き合いで、色を売る店に赴いたことも。けれど、好いた相手から触れられることがこれ程の悦楽をもたらすものとは思ってもいなかった。

 いつの間にか強く指の間接を噛み締めていたカインの手を、アベイルの手が絡め取る。

「こんなに強く噛んで、痛いだろうに」

 下半身への手遊びはそのままに、紅く滲んだカインの指を、アベイルはゆっくりと口に含んだ。

 熱い粘膜が包み、舌先が丹念に指の節を舐る。ぞわぞわと沸き上がるむず痒い快楽が全身を駆け巡り、切ない一点へと収束する。堪え切れない。

「っアベイル、様……っ」

 本能に支配された躯で、カインはアベイルの肩を掴みベッドへ押し倒した。乱暴に二人分の体重を受けた寝台は、ぎぃと鈍く軋む。

 組み敷いた人の唇を貪る。密着した下半身は離れようもなく、カインの意志とは無関係に快楽を得ようと激しく上下した。

 触れたい、犯したい、喰らい尽くしたい、中まで、奥まで、余すことなく、全て。

 無我夢中で腰を振る。衣服を脱ぎ捨てる手間さえ惜しみ、ズボン越しの努張をその人の躯に擦り付けた。

 アベイル様、アベイル様、首筋に顔を埋め耳元に囁き続ける。覆われた人は組み敷かれながらも、柔らかくカインの躯を愛撫していた。

「……君の、望むままに」

 カイン、と優しく告げられる声音に思考が溶けた。

「――――――――っ」

 声を押し殺し、膨れ上がった欲望を叩き付ける。頭が真っ白になる奔流の中、優しく背を撫でる手のひらは何処までも温かかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「……申し訳ありません、取り乱しました」

 己の意志の弱さを恥じて、カインは寝台に腰掛けたまま俯いた。

 衣服越しとはいえ、己の欲望を相手に押しつけ、放ってしまったのだ。その快楽と背徳感に、呆気なく理性は消え去り本能に支配された。獣以下の、恥ずべき行為である。

 汚れた衣服は裏の井戸でこっそり洗った。家族の目に触れれば気まずいどころの騒ぎではないので、部屋の隅にかけてある。生乾きで臭うだろうが、致し方ない。

 昔使っていたズボンが部屋の棚に残されていたのは幸いだった。何とか体裁を整えたものの、余りの気まずさに、カインは未だアベイルの顔を見ることが出来ない。

「気にすることはない、そうさせたのは僕だから」

 さらりと隣から寄せられる言葉は、流石に看過出来なかった。カインの横、一人分の距離を開けて座るアベイルは、涼しい顔をして銀糸の髪を掻き上げている。既に熱は去っているようで、カインばかりが醜態を晒したのはどうにも納得がいかない。

「アベイル様、人の気持ちを知っていて煽るのは、如何なものかと思いますよ」

「構わないだろう、僕がそう望み、君が応じた。それだけのことだ」

 さらりと流すアベイルに、カインは釈然とせずぐうと唸った。望んだのはカインであるのに、この人はまたそんなことを言うのだ。

 納得をしないカインの様に、アベイルはくつと喉の奥で笑った。

「そうだね……、もし君が呵責に苛まれるというのであれば、一つお願いごとをするとしようかな」

「……自分に叶えられることでしたら」

 急な話に身構えるカインに、アベイルは少しだけ離れた距離から涼やかな瞳を向ける。

「この先は、何処へ向かうつもりだい? まさか、ここが終着点という訳ではないだろう?」

「ええ、そうですね……実は、国境を越えて隣国へ入ろうかと思いまして」

 アベイルが命を狙われる理由がこの国のしがらみにあるならば、国さえ越えれば或いは道が残されているのではないか。この逃避行の行く先に、国境と隣接したこの町を選んだのは、何もカインの実家があるという理由ばかりではない。

「成る程、相変わらず君は僕の命を大事にしてくれる」

「まあ……、それは、そうでしょうよ」

「それに異論はないよ、君に大事にされるのは悪い気分ではない。だが、もし……、」

 静かにアベイルが瞳を伏せる。その有様にカインははっと息を呑む。分かってはいたことだった。カインがどれだけ大事に想おうが、気持ちを告げようが、その人の心根が変わることはない。アベイルが、アベイル自身を大事に思うことは、終ぞないのだ。

 もし、とアベイルは穏やかに告げる。全てを諦めているかに、穏やかに。

「もし、それが間に合わなかった場合……僕の命が奪われそうになる、その瞬間には、」

 聞きたくないと思った。カインは敷き布を握り締める。一人分の距離がもどかしい。想いを告げようと、身体を触れ合わせようと、決して縮まることはない、その距離が。

「君が、その手で僕を殺してくれ……カイン」

 約束だ。一方的に告げられる取り決めはまるで呪詛のようにカインの心を縛った。そんなことが出来る筈はない、けれど、その人の心からの願いであれば叶えなければならない。

 息苦しさに呻き握り締められた拳を、アベイルの手のひらが包む。空いた距離はそのままに、伸ばされた手のひらの体温が今はかなしい。

 絞り出すように、カインは呟く。

「……約束は出来ません」

「カイン、お願いだ」

「出来ません……したく、ない」

「……カイン、」

「けれどもし、……貴方が。貴方が、他の誰かに殺されるくらいなら、その時は……、」

 声が震える。そのようなこと考えたくもない。だが現実でもある。襲ってくる敵ならば、カインは倒すことが出来るかも知れない。だがその相手が権力だったならば。カインの家族はその弱点に成り得ないか。全てを捨て去ってこの人に賭けることが、カインに出来るのか。カインは非力で、無力な己の分を知っている。全てを守りきることは出来ない。ならば。

「その時は、自分が、貴方を殺します。……他の誰かに奪われるくらいなら、……俺が」

 滲んだ声音は惨めな程に震えている。

 ああ、良かった。安堵したように穏やかに呟く人の顔はどうしても仰ぐことは出来なかった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 出立は翌々日となった。アベイルの体調だけでなく、馬たちの調子も鑑みてのことだ。

 旅支度は弟妹たちが手伝ってくれた。特に必要なものを町へ買い出しに行くのは、末っ子が嬉々として請け負ってくれたものだ。

 別れは告げなかった。黙っていなくなったと知れれば弟妹は怒るだろうが、下手に湿っぽくならない方が後腐れはない。

 早朝、まだ空の暗い内に荷造りをし、離れを後にする。冬の朝は凍えるようで、冷たい手足を擦り合わせながら表へ出ると、馬を連れた次男が複雑な顔をして待っていた。

「……ジーノ、何で」

「いやあ、母親ってすげーや。あんたらの出てくタイミング完全に分かってるんだから」

 何処か呆れたようにカインに馬を渡してくる弟は、馬と一緒に小袋を寄越した。反射で手の上に受け取ると、じゃらりと小銭の感触がした。

「……気を使わなくていいのに」

「親心って奴だろ。受け取ってやれよ」

 いつの間にか随分と大人びたことを言う弟に、カインはむず痒い思いがしながら小袋を懐へ仕舞った。

「……じゃあ、」

 磨かれた馬の鞍に乗りながら、カインは短く別れを告げる。下手をすれば今生の別れになりかねないが、感傷的になるのは苦手である。

「ああ、元気でな、兄貴。アビーさんも」

 やれやれと眠そうな顔のジーノはぞんざいに手を振る。アベイルは無言で頭を下げていた。


「いい家族だね。……君がどれだけ愛されて来たか分かるよ」

 薄暗い田舎道を馬に揺られたアベイルが言う。気恥ずかしさに、カインは態とらしく空咳をした。

「まあ、その、……ご存じの通り、我が家は父がいませんので。本来であれば、長兄である自分が家業や家のことをしっかりやらないといけないのですが……」

「負い目を感じているのかい、放蕩息子」

 揶揄うようなアベイルの口調に、カインは小さく唸った。正しくその通りである為、反論も出来ない。そんなカインの様子に、アベイルは愉快そうに口の端を上げる。

「いい家族だ、本当に。……このままずっと居たいと思ってしまう程に」

 アベイルはついついといった体で、ぽつりと吐き出した。

 カインは夢想する。いつか、ほとぼりが冷めた頃にいつか、またこの人と共にここへ戻って来られたなら。貴族の彼に平民の暮らしはつらいだろうか。それでも少しずつ、慣れていければ。畑仕事は難しいかも知れないが、町で簡単な仕事にでも就いて貰って。老いた母と弟たちと、妹はいつか嫁に行くかも知れないが、家族と。共に暮らして行ければ。そんな日々を、夢想した。

「……また、来ましょう」

 カインは祈るように呟く。隣の馬上から、返答はなかった。




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆




 翌日、アベイル・エルニは命を落とした。

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