終章『 』(2)
楽屋口の前には、既に長蛇の列ができていた。きっとここに並んでいるのは、ほとんどが梶のファンだろう。年配の女性が多いが、男性の姿もちらほらとあり、中には「梶さんまだ?」と騒ぐ子供までいて、梶俊之という俳優のファン層の広さを知る。親友にぐいぐいと腕を引っ張られながら、宮本もその列の最後尾に並んだ。
「ねえ、やめようよ出待ちなんて。迷惑だって」
宮本がそう訴えると、
「大丈夫だよ。迷惑ならとっくにみんな追い払われてるから。ほら、スタッフさんが列の整理してるでしょ。出待ちが歓迎されてる証拠」
楽屋口の前には規制ロープが張られ、人が出入りするための通路が作られていた。その通路沿いを二人のスタッフが駆け回り、拡声器であれこれ注意や指示を出している。
睦美の指摘はもっともで、出待ちを禁止するならば、彼らの仕事は客たちをロープの中に収めることではなく、楽屋口に近づく人を追い払うことだっただろう。
「でも、神谷令は出待ち対応しないって有名じゃん。きっと他の出口からこっそり帰ってるよ」
神谷と知り合ったことは、睦美には教えないつもりでいた。きっと紹介しろって五月蝿いから。だからこんな所で神谷と出会すのは困るのだ。なんとか睦美を言いくるめてホテルに帰りたい。
そんな宮本の気も知らず、睦美は「そんなの分かんないじゃん。あたしは楽屋口が閉鎖されるまで諦めないから」と鼻息を荒くする。
しばらくそうしていると、楽屋口のドアが開いた。期待で列に緊張が走り、現れた顔を見て、なんだ違ったとがっかりする。もう何度もそれの繰り返しだ。黒いTシャツ姿の彼は、スタッフか何かだと皆に思われたのだろう。
でも違う。あれは神谷さんだ。
どうして出て来ちゃうんですかと理不尽なことを思いながら、宮本は睦美の陰に隠れようとした。だが、逆にその動きが不審だったのだろう、神谷はすぐさま宮本に気付き、あろうことかこちらに近づいて来た。
「ミコちゃんじゃん。こんな所で会うと思わなかったな」神谷はにやにやと言う。
多分、彼は遊んでいるのだ。誰ひとり自分が神谷令だと気付かないことを面白がっている。
「舞台観に来てたんでしょ? すごいね、北海道まで来るなんて。梶さんの出待ち?」
「いえ」勘弁してくれと思いながらも、いっそ彼の遊びに思い切り付き合ってしまおうと、睦美の腕を引き寄せた。「この子が神谷令のファンで」
「へえ、そうなんだ」神谷がまたにやける。おかしくてしょうがないといった様子だ。「神谷さんなら、多分もう帰っちゃったんじゃないかな。さっき楽屋見たけど誰もいなかったから」
「そうなんですか。残念です」宮本も油断すると笑ってしまいそうだ。
まあ頑張ってね、と手を振り、神谷は駐車場の方へ去って行った。
「知り合い?」睦美が尋ねる。
「うん、まあね。仕事でちょっと」嘘はついていない。
「ふうん。舞台の関係者?」
「神谷令の事務所の人だよ」これも一応、嘘ではない。
「へえ」睦美の口角がにやりと上がる。「ちょっとかっこよかったね」
「まあ、ちょっとね」これは少し嘘かもしれない。神谷令の格好良さはちょっとどころではないから。
「神谷令に似てたかも」
「そう?」心臓が飛び跳ねた。似てるも何も、ご本人様だ。
「神谷令の方がずっとかっこいいけどね」
「あはは、そうだね」たしかに、神谷さんより神谷令の方がずっと格好良い。「ねえ、もう行こうよ。神谷令、帰っちゃったってよ」
睦美は不服そうに目を細めた。「しょうがない、行こっか」
うん、行こう行こう、と劇場に背を向ければ、いつの間にか長蛇の尻尾はさらに遠くまで伸びている。
「ねえミミ」と睦美がまた口を開いた。「さっきの人、名前なんていうの?」
「名前かあ」しまった、考えてなかったな。まさか『神谷令』だとは言えないし。「佐藤かな。佐藤貴司」
「なんか、記入例みたいな名前だね」
記入例みたい、たしかにそうだ。あれは志水さんが投げやりに付けた名前だ。
「いや、涼太だったかも」
「佐藤涼太?」
「涼太の名字はなんだったかな」
「何? もしかしてミミ、あの人の名前覚えてないの?」睦美が呆れた顔をする。
「覚えてないわけじゃないんだけど」
佐藤貴司も、何某の涼太も、どこぞのヤクザ男も、一流俳優神谷令も、全部神谷さんなんだよなと、今更ながら不思議な気持ちになった。
とある任務の帰路、志水が運転する車の後部座席で、宮本は拳銃を弄んでいた。引鉄の内側に指を引っかけて銃をくるくると回してみるが、昨日観たスパイ映画の主人公のようには行かず、ポロリと膝の上に落ちる。
「おい、銃をそんな風に扱うな」志水の鋭い声が飛んだ。見なくてもミラー越しに睨まれているのが分かる。
「大丈夫ですよ。安全装置かかってますから」
試しに口答えしてみると、志水の顔がまた険しくなった。「そういう問題じゃない。落として暴発したらどうするんだ」
そりゃあそうだ。志水の言い分が完璧に正しい。はあい、と言いながら渋々銃をホルスターに収める宮本を見て、右隣に座る神谷がくすくすと笑った。
「ミコちゃん、オレのスパイ映画に影響されたんでしょ」
「そうなんですよ。こうやってくるくる回して銃を仕舞うのがかっこよくて、真似したかったんですけど」
「どうだった? 映画は」神谷はいつも、出演作の感想を喜んで尋ねてくる。
「超面白かったです! アクションは派手でかっこよくて観てて気持ち良かったですし、ストーリーもスリリングで最後まで展開が読めなくて、ぞくぞくしました。次の週末にもう一回観に行きます」
ふっふっふ、と神谷は心底嬉しそうに笑った。「楽しんでもらえてよかったよ」
「ただ」
「ただ?」
宮本が発したたった二文字で、神谷の顔が青くなった。それを見て噴き出しそうになる。
「違いますよ、批判とかじゃないです。主人公が志水さんに似てて、ちょっと笑いそうになっちゃいました」
運転席から「俺は銃を振り回したりしない」と呆れ声が聞こえたが、隣の主演俳優は「あー、そうそう」と頷いた。
「オファーもらった時に原作の小説を読んだんだけど、オレも同じこと思ったんだよね。『この人さっちゃんに似てる』って。だから、キミたちの組織で取材したかったのは、仕事を見せてもらいたかったのはもちろんあるけど、半分はさっちゃん目当てだったんだ」
「そうだったのか? 俺なんかもう見飽きてるだろ」
「そうでもないよ。オレと遊んでるキミと仕事中のキミじゃ、大分違う」
「そうか?」
「そうだよ」
「でも、映画はもう撮り終わったんですし、神谷さんがうちに出入りする理由はなくなっちゃいましたね」
建前上は禊のために組織の仕事を手伝っていた神谷だが、そろそろ刑期も明ける頃なのではないか。彼と会えなくなると思うと少し寂しいが、これ以上危険に巻き込まなくて済むという安堵感もある。
「それがさ」これ内緒だからね、と神谷が耳打ちした。「まだ先なんだけど、第二シリーズの制作が決まってるんだよ」
「え!」思わず叫んでしまった。なんて嬉しいニュースだろう。「そうなんですか」
「だから、神谷はまだ当面うちに居座るそうだ」やれやれ、という風な口調を作りながらも、志水の背中からは愉快そうな空気が滲み出ている。
昨日の映画の内容を反芻する。ひとつの作品としては、付け入る隙のない、完璧な仕上がりだったと思う。だが、まだまだ主人公たちの物語を見ていたいと思ったのも事実だ。第二シリーズが制作されるなんて、今から楽しみで仕方ない。公開はいつになるのだろうか。次はどんなストーリーになるのだろうか。どんなキャラクターが登場するのだろうか。
宮本が想像を巡らせていると、神谷がにやりと笑った。
「続編もお楽しみに」
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