第4章『マロと元少年』(7)
耳元でコトンと音がして、顔を上げた。
「これ、あげます」
そこには宮本が立っていた。缶ジュースが志水の机に置かれている。
「いらない。おまえに奢られる言われはない」
「奢りっていうか」宮本は自分の席に腰を下ろした。「そこの自販機で当たったんですよ。一本買ったらもう一本」
「あれって当たることあるのか」当たりつきの自動販売機はあちこちで見かけるが、志水は一度も当たりを引いたことはない。
「滅多に出ないですけど、年一回くらいは当たってますよ」
「当選の確率は知らないが、それは相当多い方だと思うぞ」
「自販機のくじって当たった瞬間は嬉しいんですけど、正直飲み物って二本もいらなくて、ちょっと困るんですよね。だからもらってください」
ふーっと息を吐き、「ありがとう」と礼を言いながら缶ジュースのプルタブを開けた。しかし。「なんでオレンジジュースなんだ」どうせなら、缶コーヒーの方が嬉しかった。
「いいじゃないですか。なんか志水さん、お疲れみたいですし、糖分とビタミン摂った方がいいですよ。酷い顔してますけど、何か悩み事ですか?」
神谷のみならず、この無神経な部下にまで気遣われるほど俺は目に見えてやつれているのかと、志水は愕然とした。
「そういえば、先週神谷に会ったぞ」宮本に話す気には到底なれず、話題を逸らす。
「お。神谷さん、大丈夫そうでしたか?」宮本は前のめりになった。
「おまえの言う通り、あの作品には多少の思うところはあったようだが、今は元気だよ」
「そうですか。それならよかったです」
「あんなのいちいち心配していたらきりがないぞ。一挙手一投足ファンに気にかけられていたら、あいつだってやりにくいだろう」
「ファンは心配性なんですよ。好きな俳優には元気でいてもらわないと困るんですから」宮本は口を尖らせながら、頬杖を突いて横目でこちらを睨んできた。「で? 誤魔化されませんよ。何か悩んでるんじゃないんですか?」
思わず舌打ちが漏れた。「どいつもこいつも」放っておいてほしいのに、どうしてそう俺に構うのか。
「なんですって?」
「なんでもない」頭の後ろで手を組み、深く息を吐いた。言い逃れを考えるのも面倒になり、観念して口を開く。「中村の処理方法を決めかねているんだ」
「中村って、強姦魔でしたよね? そんなの殺しちゃえばいいじゃないですか」
「その殺し方を考えているんだ」
宮本が目を丸くした。「珍しい。いつもみたいに『殺すのは最終手段だ』って言わないんですね」
志水の目も丸くなった。「それを覚えているのに軽々しく殺しを提案するとは」溜め息をつき、宮本の方に身体を向ける。「以前、『どうせ死刑になるなら殺す必要はない』と言ったのを覚えているか」
「いいえ」
「言ったんだ」また溜め息が漏れた。「中村の場合、仮に有罪になったところで与えられるのはせいぜい数年の懲役刑、そもそも起訴できるかも怪しい状況だ。だが、奴は自分の行為に罪悪感なんて少しも持っちゃいない。生きている限り何度でも犯行を繰り返す。二度と社会に出してはいけない存在なんだ。法的に正当な手段で奴を社会から排除できないなら、俺たちの手でこの世から排除するしかないだろう」
ふうん、と宮本は興味のなさそうな声を出す。「普通に殺すんじゃ駄目なんですか? 事故や自殺に見せかけて」
「それでは足りない」左肘を机に突き、その手で額を押さえた。「犯人には相応の罰を与え、自分が犯してきたことの罪の重さを自覚させた上で殺すべきだ。でなければ被害者の心が救われない」机に向かい、両手で頭を抱える。「生きるのを苦にして自ら命を断つような人がいる、地獄みたいな世の中だぞ。誰にも必ず訪れる死期が多少早まるくらい、大した罰にはならないだろう。罪人が死ねば地獄に堕ちるとは言うが、死後の地獄なんて不確かなものには頼りたくない。生きているうちに地獄を見せなければ意味がない」
感情的になる志水を前に、宮本は戸惑っている。「じゃあ、拷問にかけて殺すのはどうですか」
「それも考えた。だが」志水は天井を仰いだ。「情報を引き出すためなら致し方ないが、痛みを与えることを目的に拷問を行うなんて、あまりに非道だと思わないか。あんな男のために、そこまで手を汚したくはない」
「じゃあ」と宮本は思案顔になった。それは、神谷のドラマの話をするときと同じくらい深刻な顔だった。「地獄送りにするのはどうですか?」
「聞いていなかったのか。地獄なんて不確かなものには頼りたくない」
「違いますよ」宮本は真っ直ぐに志水の目を見た。「片道三時間の地獄です」
***
髪を下ろすと毛先が肩にかかる。ポニーテールをするのにちょうどいい長さだ。普段は動きやすさ重視で、飾り気のないゴムで縛るだけの髪は、アイロンで巻くと見違えるほど大人っぽい印象になった。気がする。
「はあー、やっぱり似合うわ。あたしの見立て通り。弥子ちゃん、普段からこれくらいばっちりお化粧した方がいいわよ。もちろんいつものナチュラルメイクも可愛いんだけどさ」樋口はすっかりはしゃいでしまっている。
宮本の髪も化粧も服装も、樋口の作品だった。任務のための変装なのだが、どうしても彼女のおもちゃにされている気がしてならない。
「いやあ」と神谷が渋い顔をした。「たしかにいつもより美人さんだけどさ、せいぜい女子大生にしか見えないよ。中学生役の方がはまってたってのはどういうことなのさ」
いつもより、という言い回しに引っかかり、宮本は神谷を睨んだ。「なんで神谷さんがここにいるんですか」
神谷が事務所に顔を出すことは滅多になく、作戦会議に参加しているのは初めてのことだった。
「オレも衣装合わせだよ。この間の涼太の時は私服だったけど、今回の佐藤君は尿酸値フェチのモテないストーカーでしょ? オレそんなイメージに合う服持ってないからさ」
「尿酸値フェチって、よくそんなに気持ち悪い設定思いつきましたね。誰が考えたんですか」
「おたくの上司に決まってるじゃない」神谷が志水の方を見遣る。
「悪かったな。やけくそだったんだ」志水はくたびれた顔で言った。
このところ彼はずっと思い詰めている様子で、いつもはピンと折り目のついていたワイシャツにも、今は皺が目立っている。
「でもさ、例の強姦魔さんの好みは、美人で賢くてプライドも高いセクシーなお姉さんなんでしょ? ミコちゃんじゃ到底そうは見えないけど、大丈夫なわけ?」
「それは問題ない、とは言い切れないが、好みから外れた女性を手にかけている事例もあるから、上手く奴の興味をくすぐることができれば大丈夫だと思う」志水はそう答えた後、「だが」と頭を抱えた。「やはり宮本に囮はやらせたくないな」
「なんでですか? 志水さん、いつももっと無慈悲なのに。私なら大丈夫ですよ」
「相手は強姦の常習犯だぞ。嫌な思いもさせるかもしれないし、それにおまえ、怪我の状態だって万全じゃないだろう。いっそ俺が女装して囮になれたら」
「嫌だよそんなでっかい女。しっかりしてよ」ぶつぶつとぼやく志水の肩を神谷が揺すった。
やっぱり、志水さんの様子がおかしい。
彼がおかしくなったのは、松岡から中村に関する依頼を受けてからだった。初めは平静を装っていた彼も、日に日に憔悴していき、遂には異変を隠すことも諦めてしまっていた。その投げやりな様子に、宮本は不安を感じている。
この任務、無事に終えられるのだろうか。
任務の段取りは全て頭に入っている。どうしても落ち着くことができず、柄にもなく入念に準備をしてしまったのだ。
次にやるべきは、と暗記した内容を呼び起こした。
「さて。状況を説明しますね」宮本はジャケットをめくり、腰のホルスターに銃を収めた。「この車は地獄に向かっています。あなたがあまりにも法の穴を悪用するので、法の外からあなたを罰することになりました」
「はっ。何が地獄だ。神様気取りか?」中村は嘲笑うように言った。
座高の分ほんの十数センチくらい高い位置から、必死で宮本のことを見下そうとしている。手足を拘束された状態でこうも不遜な態度を取れるのは、度胸があるというよりは愚かに思える。
「要は俺がむかつくから殺そうってんだろ? かっこつけて偉ぶってんじゃねえよ」
「違いますよ」今まさにその説明をしているというのに、どうして人の話を最後まで聞かないのだろう。「私たちは、あなたを殺したりなんかしません。結果的に命を落とす可能性は充分にありますけど、それはあなた次第です。私たちはただ、送り届けるだけです」
中村が鼻で笑う。「地獄にか」
「そう、地獄送りにします。言っておきますけど、地獄絵図なんて賑やかなものじゃないですよ。そこにあるのは、ただただ静かな死の恐怖です」
中村は訝るように目を細めた。ようやく真面目に耳を傾けてくれる気になっただろうか。
「聞いてくれますか? 地獄の話」胸がきゅっと締まるような感触があった。「むかーし昔、とある女子高生のお話です」
二年と少し前、二度とは戻れないあの正月の風景に、意識だけが遡る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます