第2章『ワケあり物件1DK』(5)
今更だが、実は一人での潜入任務はこれが初めてだ。普段は状況判断能力に優れた上司が側にいるので、どんな任務でも気楽に構えていられたが、今日はさすがにそうも行かない。しかも今回は、早妃ちゃんの命運が懸かっているときた。要するに宮本は、柄にもなく緊張していた。
早妃の顔を思い浮かべる。そこに従姉妹の女の子の顔が重なった。そうか、と気付く。私が早妃ちゃんを放っておけないのは、あの子に重なるからだ。従姉妹の岬に最後に会ったのは、彼女が今の早妃と同じ小学一年生だった頃。名前もサキとミサキで似ている。
ますます、早妃を助けたいという気持ちが強くなった。しかしそれに比例するように身体も強ばっていく。
「宮本、そろそろ行けるか?」志水の声が耳の中に響いた。認めたくないが、この声を聞くと少し落ち着く。
「志水さん、お願いがあるんですけど」
「どうした」
「ずっと喋っててくれませんか?」
一瞬の沈黙の後、志水は答えた。「善処しよう」
カッターの刃を出し、入口のドアの隙間をなぞった。バターを切るような感触の後、すぐに抵抗がなくなる。
「うわ、ほんとによく切れる」
宮本がドアノブを引くと、重たい扉はゆっくりと開いた。
扉の先にはもう一枚扉がある。世話係が個室に入る時、隙を突いて脱走されないための対策だろう。宮本は躊躇なく鍵を切断し、ドアを開けた。
廊下は既に消灯されており、フットライトで足元だけが照らされている。
「今おまえがいるのは二階で、目的のデータは恐らく一階の執務室にある。まずは階段を下りろ」志水が淡々と指示を出す。
「了解」
「返事はしなくていいぞ。見回りに気付かれたら面倒だ」
「りょうか、あ」返事をしないのは意外に難しい。
笑ったのか溜め息か判別はつかないが、志水の息が漏れる音がした。「階段は左に進んだ突き当たりだ」
了解、と心の中で返事をし、宮本は左方向に進んだ。足音を立てないように、慎重に歩く。しかし、宮本の意に反して足音は堂々と響いてしまう。いや、これは。
「志水さん、ちょっと黙っててもらっていいですか?」
「おまえが喋ってろと言ったんだぞ」
宮本はそれを無視し、音に集中した。反響して分かりづらいが、方向と距離に当たりをつける。
「前方右折した先、約八メートルから足音。ゆっくり近づいています」宮本は手短に窮地を伝えた。
ちっ、と耳元で舌打ちが鳴る。「見回りか。隠れられる場所は?」
宮本は周囲を見渡した。廊下は至って簡素な造りで、身を隠せる家具どころか、柱の凹凸すらない。「元の部屋に戻るくらいしか」
「いや、それは危険過ぎる。防犯カメラを見ていればおまえが抜け出したことくらいすぐに分かるんだ」
「ということは」
今度ははっきりと溜め息をつき、志水は言った。「先手必勝」
「了解!」宮本は元気よく答えた。
見回りの足音に動きを重ねながら、宮本は素早く曲がり角まで移動した。壁に身を隠し、徐々に近づくコツコツという音に耳を澄ます。懐中電灯の光が差した。もう少し。
せーの、と心の中でタイミングを取り、宮本はバッタのように音もなく跳び上がった。足元ばかりを照らしている見回りの頭に狙いを定め、左手で口を塞ぎながら捕まえる。男は叫び声を上げようとするが、口の中にもごもごと響くばかりだ。
そのまま相手の首を軸にくるっと旋回し、背中に張り付いた状態で頸動脈を押さえた。五つ数えるうちに男は脱力し、膝が折れる。
宮本は、後方に倒れていく男の首を抱えたまま着地し、頭をそっと床に置いた。
「殺してないだろうな」志水が言った。
「失神しただけです。すぐに目覚めますよ、多分」宮本はあっけらかんと答えた。
多分とはなんだ、と言いながら、志水は次の指示を出す。「こうなったら仕方ない。このフロアには見回りがもう一人いるから、見つかるのは時間の問題だ。忍ぶより急げ」
「そっちの方が得意です」宮本はにやりと笑った。
宮本は見回りから懐中電灯を拝借し、階段に向かった。
「しかし、いきなり見回りに鉢合わせとは、おまえも運に見放されたか?」
階段を駆け下りる途中、志水が話しかけてきた。ずっと喋っててほしいと言ったのを真に受けているのだろうか。
「でも、私にとってはラッキーですよ」踊り場をくるりと折り返し、宮本は返事をする。「ちょっと暴れたい気分だったんで」
「おまえなあ」と志水が溜め息をつく。「それをラッキーと呼ぶのは無事に帰って来てからにしろよ」
へいへい、といい加減な返事をしたところで、宮本は一階に着いた。
その時だ。ビービーという耳障りなブザー音がけたたましく館内に響いた。
続いて男の声が放送される。「侵入者発生。現在一階にいる模様。発砲を許可する。直ちに捕らえろ。尚、相手は相当な手練れの可能性がある。最悪殺しても構わない」
実に端的で物騒な指示だ。
「志水さん、聞こえました?」宮本は上司に問いかけた。
「ああ。見回りの遺体が見つかったんだろうな」
「殺してませんってば」
「執務室は左手の一番奥の部屋だ」
「危ないから逃げていいよ、とか言ってくれないんですか?」宮本は軽口を叩いた。
「いいわけないだろ」志水は冷淡に返す。
ですよね。と言い、宮本は全速力で走った。
廊下を半分まで来たところで、足音が増えたのが耳に入る。
「いたぞ!」と男の声が後方で響いた。続いてバン、バン、と銃声が鳴る。しかし暗い廊下では狙いが定まらないのか、宮本には掠りもしない。
「うわ、いきなり撃ってきましたよ。捕らえろって言ってませんでしたっけ。当たったら死んじゃうのに」走りながら宮本は言った。
「最悪殺してもいいとも言っていた」
「初手から最悪の方を選びますかね」
「無駄口叩いてないで、さっさと執務室に隠れろ」
分かってますよ、と言いながら、宮本はカッターを取り出した。左手のドアに手をかけながら、鍵を切断する。そうしている間にも男たちの足音は近づき、銃の狙いも定まろうとしていた。
「待て、執務室はそっちじゃない」
志水がそう言った時には、宮本は既に部屋に滑り込んでいた。
「え、間違えましたか?」宮本はドアに鍵をかけながら言った。そしてすぐに、鍵は切断してしまったことを思い出した。
「そこは隣の応接室だ。すまん、暗くて気付くのが遅れた」
「つまり私は」
「袋の鼠だな」志水は至って冷静な声で言った。
「さすがに銃相手にカッターじゃ分が悪いですね」
「部屋に窓があるだろ。出られるか?」
「え、出ていいんですか?」
「仕方ないだろ。これ以上危険を犯すのは命に関わる。他の手立てを考えるから、今は逃げろ」
「分かりました」宮本は、内心自分に失望しながらそう返事をした。あと少しだったのに、こんなつまらないミスで希望の芽を摘んでしまうとは。
しかし落ち込んでいる暇はない。足音はすぐそこまで近づいている。宮本は、見回りから盗んだ懐中電灯をポケットから引っ張り出し、周囲を照らした。
「あ」宮本は声を上げた。あるものが視界に入ったのだ。
「どうした」
「テーブルにパソコンが置いてあります」
応接用のテーブルには、ノートパソコンが開いたまま置いてあった。
「置き忘れか? 随分と杜撰な管理だな」志水は呆れ気味に言った。「期待はしないが、一応USBメモリを挿しておけ」
「セキュリティ厳しいんじゃありませんでしたっけ」そう言いながらポーチの中を漁る。
「堅牢なシステムを採用していても、結局くだらない人為的なミスで事故が起こる、というのはよくある話だ」宮本がUSBメモリを挿したのを確かめると、志水はまた指示を出した。「パソコンはそのままでいい。窓から脱出しろ」
「了解」
応接室の窓は、セキュリティの関係なのか、嵌め殺しになっている。宮本がカッターを当てると、ガラスは面白いように切れる。人が一人通れるだけの円を描いて、宮本は窓を蹴り落とした。
「こっちだ!」とすぐ後ろで声がしたのは、それと同時だ。黒スーツの男は銃口をこちらに向け、引鉄に指を掛ける。
バン! と銃が鳴るのを待たず、宮本は建物の外に飛び出した。
宮本は、とにかく走った。離れれば離れるほど、銃弾を当てるのは難しくなる。だが、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、だ。この諺を文字通りの意味で使う機会がある人はどれだけいるのだろうか。相手の鉄砲は呆れるほど下手くそだが、この調子ではいつか命中してもおかしくはない。それに、追手も二人に増えていた。手数も二倍だ。
敷地の門を潜ろうとすると、守衛が立ち塞がった。彼もまた、手に拳銃を持っている。銃を相手に直線軌道で近づくのはよろしくない。
というわけで宮本は、捻りを入れながら跳び上がった。それに驚く守衛の間抜け面を目がけて、両足で着地する。
守衛の頭はボールのように地面にぶつかり、何度かバウンドした。足の裏にミシっと軋む感触があったのは、気付かなかったことにしよう。
動かなくなった守衛を捨て置いて、再び走り出そうとした時、宮本は違和感に気付いた。
視界が妙にすっきりしている。
しまった、眼鏡がない。
「志水さん? 志水さんがいない!」宮本は悲壮感のある声を上げていた。「志水さんどこ!」
眼鏡からの指示がないと何をどうしたらいいのか分からない。しかし眼鏡はどこか遠くに飛んだらしく、足元には見当たらない。這いつくばって探したりしたら、今度こそ撃たれてしまう。どうしよう。
「宮本、こっちだ」
道路の方から志水の声が聞こえた。そっちまで飛んだの? と驚いて顔を上げた直後、自分の間抜けさに気付く。
「おまえ、眼鏡のことを俺みたいに呼ぶなよ」
そこには、心底呆れた、とでも言いたそうな顔をした志水がいた。車の窓から顔を出している。
「志水さん!」宮本はその冷たい目に懐かしさを覚え、歓喜と安堵の入り混じった声を上げた。
「乗れ」一方の志水は、再会の感動など微塵も感じさせない冷え切った声で言った。
宮本は車に向かって一直線に走った。
下手くそな銃弾が足元を掠める。
「げっ、なんで神谷さんがいるんですか」
車の後部座席に乗り込むと、隣には神谷がいた。昼間の柄の悪い服装は既に着替え、綿のパンツにオーバーサイズのスウェットという、気の抜けた格好になっている。長い前髪はハーフアップにして後ろに束ねてさっぱりした印象だが、昼間のままの無精髭が妙に色気があった。
「げってなにさ。酷いなあ」神谷はケタケタと笑った。
「危ないから帰れと言ったんだが、見物したいと聞かなくてな。とんだ野次馬根性だ」志水はアクセルを踏みながら、面倒臭そうに説明した。
「ここまで運転させたくせによく言うよ」
「え、そうなんですか?」大事な局面ではなかなかハンドルを握らせてもらえない宮本は、驚いて聞き返した。
「おまえに指示を出しながら運転するのはさすがに骨が折れるから、代わってもらった」
「神谷さん、運転できるんですね。そういうのマネージャーに任せてそうなのに」
「それも間違ってないけど、キミよりは上手いよ」神谷は苦笑いした。どうして神谷さんが私の運転の腕を知ってるのだろう。
車がスピードを出したまま右折し、体が左に倒れた。神谷は顔を顰め、もっと優しくして、と苦情を言う。
「そういえば、ドラマ観ましたよ」宮本は隣の助演俳優に向かって言った。言わずもがな、一昨日の『ワケあり物件1DK』第一話の話だ。
「お、どうだった?」助演俳優はにこにこと嬉しそうに尋ねる。
「最高でした。テンポも良いし、ギャグも面白いし、おどおどした神谷令は可愛かったです」
「オレじゃなくてユウ君ね」
「ただ、今のところ、なんでユウ役が神谷令なのか分からないんですよね」
「ちょっと、それオレ本人に言う?」
神谷が絶望したような顔になり、宮本は笑ってしまう。「いや、合わないとかじゃないですよ。ああいうテイストの作品ってアイドル系の人が演ること多いんで、神谷令みたいな超実力派が演るのには何か理由があるのかなって」
「ああ、そういうこと?」神谷は機嫌を直したのか、楽しげな表情に戻った。「実際、そういう話もあったみたいだよ。でもそれじゃ原作者の許可が下りなかったんだって」
「原作って、漫画でしたっけ」
「そう。ユウって結構難しいキャラクターだから、演技経験の浅い人にはやらせたくなかったとかなんとか」
「えっ、そんな感じなんですか? あのドラマ」
「詳しく聞きたい?」神谷は意地悪くにやっと笑った。
「めちゃくちゃ聞きたいけど絶対言わないでください」宮本は真顔で答える。
その時、志水が咳払いをした。一瞬、後方に視線をやり、宮本に向かって言う。「楽しくお喋りしているところ申し訳ないんだが。宮本、仕事だ」
志水は助手席の荷物から拳銃を取り出し、宮本に投げた。
志水の意図を察し、体を捻って後方を確認すると、人身売買組織の黒スーツたちが車で追って来ていた。助手席の男が窓から顔を出し、銃を構えている。
「あら、追いつかれちゃいましたか」
「結構飛ばしたんだけどな。追い払ってくれるか」
「了解です」
宮本はシートベルトを外し、窓を開けて身を乗り出した。
「ガソリン?」
「タイヤだこの野蛮人」
志水の回答に「はーい」と返事をしながら、宮本は引鉄を引いた。
バン、と音を立てて銃弾が一発飛び、黒スーツたちが乗った車の運転席側のタイヤに穴を開けた。
突然右前足を失った車はバランスを崩し、時計回りにスリップした。甲高いブレーキ音が深夜の街に響く。
きっとそのまま止まれなかったのだろう。ガシャン、という嫌な音が聞こえたが、その姿はもう見えなくなっていた。
「え、なに今の」神谷がポカンと口を開けている。
「上手いもんだろ」志水は何故か自慢げに言った。
「いや、そうじゃなくてさ。キミたち普段からあんなことしてるわけ?」
「だから危ないからついて来るなと言ってるんだ」
神谷は生唾を飲み込んだ。「オレもう、ミコちゃんの純情を弄ぶのはやめるよ」
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