延宝七年 夏  吉原帰り道 大老と剣豪

「お供もお連れなのに、それがしを連れるというのはいかがなものか……」


「なに。一度話してみようと思ったまでよ。

 それに月を眺めるのも中々できなくてな。

 あれとつるんでいると耳に聞こえたし、幽霊が出てもその刀で払ってくれるのだろう?」


「あやかしの類に、剣が効くかどうかは存じませぬが、人ならば確実に。

 ……色々ありまして、ただの剣術指南役と忘八者が酒井様の御耳に聞こえるとは、お耳を汚してしまうかと」


「構わぬ。

 強ければ、正しければ、それでご政道がうまくいくと思ったら大間違いよ。

 それとなくお主の主君に伝えてくれるか?」


「……それが狙いで?」


「それも狙いよ。

 とはいえ、お忍びでそのあたりの話は無粋だろう。

 幇間の真似ではないが、小話でもと思ってな。

 気にするでない。聞いているのは幽霊が出ないならば月ぐらいのものよ」


「……」


「よいか。天下は盤石ではないぞ。

 幕閣。御三家。譜代と外様と隙あらば天下を揺るがしてくる。

 それを正しさのみで裁くと、更なる隙が待ち構えている。

 ろくでもない賭場で賭けているようなものよ」


「いかさまもありなのでしょうな。きっと」


「当たり前ではないか。

 そのぐらい見抜いて勝たねば幕閣は、天下は差配できぬ」


「……気づいておられます?

 お連れの方の殺気がそれとなく」


「それでもこの場を逃れる程度の腕があるからこそ、そういう事を言うのだろう。

 どうだ?

 安中藩食客と聞くが、こちらにつけばしかるべき役を用意しよう」


「それで頷く輩だと、この場にいられるような剣は極めきれませぬ」


「……だろうな。

 それでも万一を期待して言わねばならぬ。

 儂はそうやってご政道を守ってきたのだ。

 者共手を出すなよ。

 この程度の戯言、備中守も館林宰相様も気にもせぬわ」


「酒井様の懐の深さも我が主にお伝えしましょう」


「ははは。その時の顔が楽しみよ。

 ……さて、本題に入るか。

 あの場で口にするにはまずい事だが、まだ虫も鳴いておらぬからこの吉原の帰り道で聞いているのは月ぐらいなもの」


「こうやって追い込むのは、手慣れの剣豪でもできませぬよ」


「はは。剣の道に行くには少し年を取り過ぎたし、歌の道に行くほど雅にもなれなんだ。

 ……志賀仁右衛門の正体にあてがある」


「……あの場で言わなかったという事は、そういうお方で?」


「上野沼田藩藩主伊賀守信俊だ」


「ああ。たしか信州松代藩真田家でお家騒動が起こった際に、酒井様のお身内が居たとかで酒井様が収拾に奔走なさっておりましたな。

 結果、酒井様のご尽力もあって、松代藩から独立したとか」


「それで収まると思っておったのだがな。

 かえって火が着いて、松代藩を超えようと色々無理をしておる。

 検地で石高は十四万四千石と幕府に届けられたが、領民の負担は酷く、領内は荒れ放題。

 その際にどうも高田藩の浪人連中と繋がったらしい」


「ああ。真田忍びが裏に居ましたか。

 越後国から三国峠を越えた先が上州沼田藩。

 どうりで、天下の豪商河村十右衛門の目をかいくぐって高田藩の米切手に滞りが不意に出た訳で。

 となると、米切手の滞りに沼田藩も一枚噛んでいましたかな?」


「縁もあり助けもしたが、ご政道を外れるのならばこれを正さねばならん。

 とはいえ、面前で潰すとそれなりに名が傷つく。困った所でな」


「酒井様。

 一応それがしの主君は酒井様と敵対していると思っているのですが?」


「沼田藩ごときで儂を追い詰められるならば追い詰めてみよ。

 そんな儂でも、身内の沼田藩を切り捨てねばならんぐらい高田藩の件はまずいのだ」


「左様で。

 志賀仁右衛門が討たれた後で、真田伊賀守が病でお隠れになっても偶然で片が付くと」


「そういう話はさすがに吉原でするには無粋だろう?」


「左様で」


「無粋ついでにもう一つ。

 神君の伊賀越えを助けた伊賀者が江戸に呼ばれてひそかに間者として働いたと聞く。

 彼らは大久保家の失脚に連座して野に下ったと聞いたが、その一派は未だ忠義を忘れず陰で働いているというが……その殺気を消せ。

 今はただの剣豪であろうが。お主は」


「ああ。ご無礼を。幽霊が居たみたいで。

 戯言ですが、もしかして今夜のお忍びの目的はそれで?」


「さあな。

 吉原の宴は朝には消える朝露のようなものよ。

 幽霊も下馬将軍の名を信じて討とうとする独りよがりの忠義者もいなかった。

 それでよいではないか」


「そういう姿を堀田様や館林様にもっと見せておれば、今のような事にはならなかったのでは?」


「無理だろうな。

 正しいからこそ裁く。それは正しいがゆえに大藩の取り潰しまで容易に行くのが目に見えておる。

 その結果、出てきたのが由井正雪だ。

 知っておるか?

 明暦の大火が起きた際に、幕閣に重きをなしていた保科肥後守様が恐れたのは、第二の由井正雪が出る事だった。

 それを見ていたからこそ、儂はできる限り助け、助けて、助け続けた結果が『下馬将軍』よ」


「ままなりませぬな。この世とは」


「そうよな。儂とて『我が世とぞ思ふ望月の』と歌えればと思ったが、できぬからこんな所で戯言を吐いておる。

 そのあたりも、お主の主君に伝えてやれ。

 言って伝わるとも思えぬがな」


「……お屋敷前にてそれがしはこれにて」


「ああ。もう会う事もないと思うが、楽しかったぞ。今夜の宴は」

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