延宝七年 観梅 冬花大夫身請け顛末
江戸吉原の遊郭『蓬莱楼』の頂点に座る大夫である冬花の機嫌は最悪に近かった。
それもそうだ。
断った身請け話がまた蒸し返されたからだ。
おまけに、その身請け先が江戸随一の豪商である河村十右衛門というのだから断れる訳がない。
蓬莱楼の楼主の部屋には楼主の蓬莱弥九郎と、冬花の思い人である半兵衛しかいない。
そして、二人とも顔が真剣であり、泣いて断るなんて雰囲気ではなかった。
「どうしてまたこの話が蒸し返されるんだい?」
冬花はため息を吐くと、窓辺へと移動し障子を開ける。
空には月明かりが照らされており、夜だというのに明るい夜で、吉原の嬌声が届く。
そんな夜景を見ながら半兵衛が言った。
「お前には隠し事はしたくない」
「おい?半兵衛!?」
半兵衛の言葉に弥九郎は驚くが、止めようとはしなかった。
弥九郎が止めない事を確認した上で、半兵衛は冬花の想像しない真相を明かす。
「お前の身請け先は河村十右衛門という事になっているが、実はそうではない」
「じゃあ誰だって言うんだい?」
半兵衛が冬花に近づき、障子を閉めて冬花を部屋の奥に戻す。
弥九郎が軽く入り口の障子を開けて外に誰も居ない事を確認する。
そういう相手なのだろうと思ったが、その相手は冬花の想像を超えていた。
「幕府大老酒井雅楽頭忠清様だ」
「はい?」
素っ頓狂な声を上げる前に半兵衛の手で口を塞がれる。
いつもならばそのまま色事にという流れも、半兵衛の顔色がそれを許さなかった。
「あの、下馬将軍の?」
「その、下馬将軍だ。
そして、お前は大奥に行く事になる」
「はぁ……むぐっ!」
また口を押さえられる。
先程よりも強い力で押さえられて少し痛かったが、それ以上に冬花の胸中は混乱していた。
酒井雅楽頭忠清と言えば、徳川幕府の大老として幕閣を差配し、『下馬将軍』と呼ばれる権勢を誇っている大物だ。
それが何で冬花なんかを身請けするのか理解出来なかった。
「お前も知ってると思うが、最近この吉原で高尾選びが行われただろう?
あれで選ばれた高尾の一人である東条高尾が見初められて、大奥に行く事になった。
お前には、その女中として大奥に入ってもらいたいのだ」
半兵衛は冬花に嘘は言っていない。
だが、本当の事もすべて明かすつもりはない。
知って戻れなくなるような事をはぐらかしながら、半兵衛は話を続ける。
「お前に見せた、あの千両箱。
あれはこの手の仕事で手に入れたものだが、幕閣が絡む一件でな。
この間の吉原の捕り物みたいな事があったら、お前も捕まりかねん」
そこまで言われれば冬花にも分かる。
要するに、この話は幕閣の騒動に関わっている半兵衛に冬花が巻き込まれるのを防ぐ為のものなのだと。
それなら納得できる。
「それで、私が選ばれた理由は?」
「一番の理由は俺の希望だ。
多分危ない橋を渡る事になるが、その時に相手がお前を人質になんて事があるかもしれん。
だが大老酒井様の肝いりで大奥に入ったなら手を出す馬鹿はそう多くない……はずだ」
半兵衛の言葉の後半は自信なさげだったが、それでも大奥に入れば手出しされる可能性が減るのは事実である。
冬花は黙って二人の愁嘆場に付き合っている蓬莱弥九郎の方を向いて確認する。
「楼主。随分と歯切れが悪い半兵衛の話は本当なのかい?」
「嘘だったら良かったんだかな。
馬鹿がここに討ち入る可能性があった場合、狙われるのは冬花。お前だ」
忌々しそうに冬花に言い捨てる蓬莱弥九郎の言葉に嘘はなかった。
しかし、それでも冬花には信じられなかったからこそ、冬花は半兵衛に質問する。
それはもう、自分が抱いている感情を隠す気などない問い掛け。
自分が惚れている相手への想いを込めた言葉を。
「ねぇ、半兵衛。
あんた、私が好きなんじゃないのかい?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうして?」
「お前の為だよ。
俺は、お前が幸せになる道を歩んで欲しいんだよ。
お前には幸せな人生を歩いて貰いたいし……」
言いよどんだ半兵衛が顔を背けて少しだけ小声で続きを言う。
それは冬花が欲しかった言葉でもあった。
「……吉原でお前に何かあったら、お前を嫁にできないじゃないか」
冬花の心に熱いものがこみ上げてくる。
自分の為にここまでしてくれる相手に嬉しくない訳がない。
「馬鹿だね。あんたは」
「だから、お前にほれたんだろうよ」
「いうわね」
冬花の口から自然と笑みがこぼれる。
その笑顔を見た瞬間に、半兵衛は己の気持ちを自覚した。
(ああ、やっぱり好きだ)
そう思った瞬間に、半兵衛は冬花を抱きしめていた。
突然の事に冬花が驚きの声を上げようとしたが、半兵衛はそれを遮るように耳元で囁く。
その言葉を聞いた冬花は一瞬で顔が真っ赤になり、口をパクパクさせながら何も言えなくなった。
「おい。お二人さん。
ここは俺の部屋で、真面目な話をするから貸したんだぞ。
するなら別の部屋でしてくれないか?」
呆れ返った表情の蓬莱弥九郎に言われて二人は慌てて離れるが、お互いの顔を見れない。
そんな初々しい二人の様子を見て、弥九郎はため息を吐きながらも、二人の仲を祝福したいのでそれ以上野暮なことはしなかった。
まるで告白のように半兵衛が冬花に確認する。
「冬花。
身請けされてくれないか?」
「いいわよ。
大奥でも、吉原よりはましでしょうよ」
まるで告白のように冬花が笑う。
こうして冬花の身請けが決まり、吉原大門の前では、別れを惜しむ遊女達の姿が見えたという。
その光景を半兵衛は吉原の寺の塔から見ており、冬花もその塔を一瞥して吉原を去っていった。
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